<八島>
本日から、平成5年発刊の三波春夫の著書『三波春夫でございます』をご紹介して参ります。週1度、毎週金曜日に更新致します。どうぞよろしくお願いいたします。
この本は書き下ろしのエッセイ集です。三波の筆というのは、それまでは、日本史や芸能史の研究論文といえるようなもの、またはそれをドラマ仕立てにしたものがほとんどでした。
エッセイであっても、自分の身のまわりに起きたチマッとしたものは書かず、太字で大きく書いて社会に問いかけるような、フォルテ記号が踊っているようなものが多かったのですが、この『三波春夫でございます』は、ソフトタッチで三波にエッセイを書いて貰いたい、という企画で出来たものです。
本の帯には“モットーは「一緒に楽しく生きようよ」 歌謡界の大御所が語る生き方のコツ、人生の味わいそしてちょっといい話”と、書かれてあります。表紙には、三波の顔の超アップ。70代の入口に立った頃の、三波春夫の著述をお楽しみくださいませ。
本日のご紹介は、デビュー曲「チャンチキおけさ」誕生の逸話の章、前半部分。
新人歌手にもなっていない前のお話です。なお、文中の“文芸部”とは、現在でいえば制作部のことです。
ではまた、次回に。
<八島>
文中の“吹き込み”という言葉は、もちろんレコーディングのことです。ムカシは吹き込みと言ったのです。それこそ三波春夫よりもっと前のムカシの録音マイクは、ラッパの反対向きというか拡声器を逆向きにしたような形の物に向かって歌うという、まさに歌声を吹き入れるような恰好だったようですから、言い得て妙の言葉です。
私も、物心がついた頃から周りで「明日は吹き込み…」「吹き込みが済んでから…」などと言っており、父のマネージャーになってからも三波夫婦(母は事務所の社長でした)に対しては『吹き込みの日を決めましたが…』などと言っていたので癖になり、今だに『吹き込み!!』と大きな声でふつうに言ってから、(わー、吹き込みって今ドキ言っちゃってー)と、ひとりで真っ赤になっていたりします。
でも、ムカシの日本語はあったかくて好きです(笑)
ではまた、次回に。
この章は、昭和28~29年頃のことを書いています。24年秋に、4年間のシベリア抑留から帰国して浪曲の舞台に復帰し、27年12月に結婚。その後、南篠文若の曲師は妻が務めることになり、夫婦揃って藝の研鑽の日々。そのあたりのことです。
敗戦から復興へと日本がだんだんと力をつけてゆく時代。人々は、その気運を応援するような勢いの有る陽性のものを、エンターテイメントにも求め出していたことの実例といえるでしょうか。
この、南篠文若の浪曲と余興のアリランやトラジを、『観ましたよ』『聞きましたよ』とおっしゃる方々にお会いすることがあります。全国各地でお会いしますから、南篠文若がたくさんの土地を訪れて興行をしていたのだと実感します。『小さい会場でした、倉庫を改造した俄か仕立ての。お父さん、いい声でねえ。印象的だったから、記憶にずっと残ってましたよ…』と、私に話して下さった方は70歳を超えた男性でした。
どんな小さな会場でも、来場されたお客様に最大限の満足をもってお帰り頂くことが鉄則である、と自分に課していた若い浪曲家時代。この頃の思いは生涯変わりませんでした。
ではまた、来週金曜日に。
曲師は、舞台中央に居る演者の方を向いて座って三味線を弾いています。曲師と客席の間には屏風が立てられていて、姿は隠れています。その屏風の陰から、演者の口演がお客様に上々にウケているか、もうひとつなのか、を察知し、例えば口演のノリが悪いようであればテンポアップを示唆する含みのある三味線の合いの手を入れて、演者のナビゲートをするのです。曲師の感性が鋭ければ、演者はたいへん助かります。芝居は、上手い役者とやらせてもらうことで藝が伸びるといいますが、上手い曲師もダイレクトに演者に影響を与えたようです。
ではまた、来週金曜日に。

昭和三十年ごろのことでした。私はキングレコードから出た三橋美智也さんの大ヒットに大変刺激を受けました。民謡調の歌謡曲がヒットするのなら、浪曲調歌謡曲の世界があってもいいのではないか。やっぱり歌謡曲の時代が来ているぞ、と。
三波の伴侶は、私の母ですが(笑)その芸歴については、ひとつ前のブログで全編をご紹介した三波の自叙伝『すべてを我が師として』に詳しく書かれています。母は9歳から藝の世界に入り、三味線、鳴り物、舞踊、話藝などを身につけ、歌舞伎舞踊から色ものまでを上演する一座で活躍していました。そして27歳で「南篠文若」と結婚し、自らがライトを浴びていた舞台を降りて、曲師を務めるようになったのでした。身内の私が言うのもナンですが、母の藝の勘は大変に鋭かったです。『三波春夫』の創造は、三波夫婦ふたり揃ったからこそ出来たことでした。
ではまた、来週金曜日に。
三波春夫という人は「自分はこれだ!!」と決めて藝の道にまっしぐらに突き進みました。B型でしたので…、(笑)というのは冗談ですが、これ!と決めたことへの集中力は絶大でした。自分の藝のために為すべきことを、休むことなく常に実行しつづけた人でした。
唄う以外の姿といえば、本を読み新聞を読み原稿を書き…。『勉強』の二文字を怠らない人でした。政治経済の分野にも一家言をもっていて歴史には特に詳しく、たとえば地方公演の移動での車中の会話では、いつもそういうテーマで話が尽きませんでした。
晩年にお付き合いが深かった永六輔先生が、ある時、三波に向かって「三波さんは『唄う学者』です」と、おっしゃった時にはその場の皆でウケて笑ってしまいましたが、確かに…。今思い返しますと最適のキャッチコピーだった気がします。
ではまた、来週金曜日に。
この『三波春夫でございます』を執筆していた平成4年は、バルセロナオリンピックが開催された年でした。そのオリンピックの終了直後、バルセロナの陸上競技場ど真ん中に組まれた櫓の上で三波は「ハウス東京五輪音頭」を唄いました。その回りでは地元のスペインの方々が何百人も浴衣を着て輪になって、歌に合わせて盆踊り。フジテレビの歌番組『MJ』にての中継出演。そのためだけの、三波一行2泊だけのバルセロナへの旅でした。
ではまた、来週金曜日に。
“休暇を目の前に”や“休みになったとたん”に体調を崩した、ということはよく聞く話ですね。休めるぞー、ということで心身のどこかがホッと緩みすぎちゃうんでしょうか。そして、過労から免疫力が落ちて…といこともよく聞くことですね。本日これを読んで下さったのも何かの縁です。どうか、お忙しい方、ストレスの多い方におかれましては、健康は自ら勝ち取る思いで、日々をお過ごしください。7年近くPSA検査を広める活動をしておりますが、医療関係者のお話しを伺いますと、やっぱり定期的な健診などを自分で心がける事が良いのだと、つくづく思います。
なお、文中の「百年桜」は、本年10月21日リリースの『三波春夫全曲集』に収録されております。
さて、お知らせを致します。今週から『歴史時代書房「時代屋」』さんの“神田小川店”と“新百合丘オーパ店”で、三波春夫グッズを販売中です。グッズは、飾り扇子・携帯扇子・湯のみ。三波春夫の「お客様は神様です」「夢」などの文字とサイン入りです。
書籍『熱血!日本偉人伝』『聖徳太子憲法は生きている』やCD『長編歌謡浪曲スーパーベスト』のシリーズも販売されています。どうぞ店舗へお出かけください。
ではまた、来週金曜日に。
「その夜、ジュリアナ東京はノリノリで踊る若者で超満員。場内に響き渡るのは三波春夫のナマ歌…って、え?なに?三波春夫? そうです、ステージにはなんとアノ三波春夫が満面の笑顔で立ち、ハウスミュージックメドレーを披露したのですぅー」というカンジで、平成4年の暮、ジュリアナの貸切イベントにて、メインゲストとして登場した三波春夫でした。
ではまた、来週金曜日に。

早くから客席いっぱいに詰めかけたお客様のどよめきが、舞台うらには、潮騒のように聞こえているに違いありません。やや離れた楽屋には、華やかな出の瞬間を待って、じっと間合いをはかり、呼吸を整えている主役。楽屋のうちに、静かにみなぎってくる緊張……。
<続きを読む> このシャックリの話に限らず、演者のそのステージの完成を目指す強く高い意識と、お客様から送られる愛情あふれる熱い期待があわさってステージに起こった奇跡は、エンターテイメントの世界にたくさんあると思います。そういった世界で力いっぱい仕事が出来た三波春夫の一生は幸せなことだったと、つくづくと思います。
ではまた、来週金曜日に。
奢りの気持ち。これは、立場や職種を問わず、自分の心に絶対に育ててはいけないもの。その姿勢は父の晩年に一緒に仕事をして、勉強させてもらったように思います
さて、「お知らせ」です。今月26日土曜日(午前10:05~11:35)にNHK総合テレビにて、『昭和歌謡黄金時代~三波春夫と村田英雄~』がオンエアされます。以前、NHKBS2で二度オンエアされたものの再々放送です。大変に好評を得た番組ですので、ぜひぜひご覧ください。なお、北海道のみ、12/31 10:05~11:35のオンエアとなります。
ではまた、来週金曜日に。
「お客様は神様です」の本意につきましては、オフィシャルサイトにてご覧いただけましたら幸いです。
さて、前回お知らせいたしましたが、明日NHK総合テレビにて、『昭和歌謡黄金時代~三波春夫と村田英雄~』がオンエアされます。午前10:05~11:35です。
なお、北海道のみ、12/31 10:05~11:35のオンエアとなります。
どうぞご覧ください。
では、次回は来年1月15日(金)に更新いたします。
本年もお世話様になりました。ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。
本年最初の更新を致しました。この一年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、本日の本文は短気からの行動についてです。前にもお話ししたとおり、亥年生まれの猪突猛進型の三波春夫は、仕事に入るとまっすぐに集中していくアツイ人でした。ですから、お客様に最高のショウをお見せしたいという思いで一所懸命に仕事をしているときに不熱心なスタッフがいると、それがとっても厭だったようです。座長を務める方はどなたでもそうだと思いますし、仕事であれ遊びであれ、皆で力を合わせて何かをするときにはそういうものですよね。ただし、コーラの瓶はいけません…。というのと、ムカシはコーラは瓶が当たり前だったとはいえ、あまりコーラ瓶が三波の周りにあった試しは無いので…その時にたまたま飲んだものだったのでしょうけれど、不思議なものです。とにかく、人間どんな事があってもキレたらいけませんね。キレた方が人間が小さいことになってしまうのだと肝に銘じるくらいが良いのかもしれません。
ではまた、来週金曜日に。
三波の公演のバンドメンバーは、終演後に皆「今日も『やったーっ!』って気がする」と…。そう口に出す方もいれば、ドッと疲れた方もいて。三波春夫の歌は、ふつうサイズの歌謡曲はまだしも、長編歌謡浪曲の伴奏をするとなりますと、根本が浪曲の伴奏である三味線のテを演奏することになるので、バンド本来の洋楽要素だけではなく、超がつくほど“間(マ)”が大事、ニュアンスも大事。それを大勢で息を揃えて演奏するのは、指揮者も大変でプレーヤーも汗!です。
でも、「プロの仕事をしたーって感じ、を持って、一日の仕事が終われるのが良い」と、いつも頑張ってくれていました。
ではまた、来週金曜日に。
良い声と声量には睡眠が大事。
これは三波の周囲にとっての鉄則でしたから、私もムカシから父の起床が午前10時を回ろうが、「良く寝て頂いてヨカッタです!」という気持ち以外になにもありませんでした(笑)。三波春夫の時間割はずっと、昼は公演や収録、夜に原稿を書くというものだったこともありまして。朝の訓示もない人でヨカッタです…。
本文にありました舞台衣装のことですが、贅沢とはいえないと思いますし、舞台のきものをお客様が楽しみにしていらっしゃることを承知しており、ご期待にこたえるように、呉服店に発注してデザイン等を指示する担当の母が細かく神経を配って衣装を作っていました。ですので、三波自身はお値段を詳しくは知らなかったと思います。
「舞台衣装は良いものを、本物を着る」という母の揺るがぬ方針を熟知していたから書いているのでしょう。万年筆などの筆記具は、三波が自分で選んで買い物をする数少ない品のひとつでした。
ではまた、来週金曜日に。
あくまで私の個人的な考えなのですが、演者は、私生活においてお金の勘定をしないで済むならばしないに越したことはないと思ったり致します。もちろん生活上の普通の算数は必須事項ですが、余計なことでお金勘定をしていると、どうしても人相に出るような気がするのです。そのデンで言いましたら「みんな妻任せです」という三波はよかったでしたが、その分母は大変でした(笑)。
ではまた、来週金曜日に。
自叙伝『すべてを我が師として』にも書いてありますが、友人の紹介で生涯の伴侶に巡り会った時のことです。三波は当時痩せていて、若い時の王貞治氏のようなベース型の顔をしており、そこに綺麗に撫で付けられたオールバックの髪、近眼メガネ、白い開襟シャツに地味なジャケットです。私も当時の写真を見たのですが、母に同感。「税務署の方から来ましたー」と玄関を入って来そう…。でも笑顔が底抜けに明る過ぎる税務署の人だったですが(笑)。
ではまた、来週金曜日に。
厄介な新米ご主人ですよね…。ちなみに指輪を買ってあげていないです、この御主人は。母から聞いておりマス(笑)。でも、母自身も、まずは仕事の物をという気持ちだったそうです。本当に母の生き方は生涯、「三波春夫の仕事第一!」。まことにはっきりと、オトコマエでした。
ではまた、来週金曜日に。
母の三味線の音色について、以前もブログでお伝えしたことですが、「ペンッ!!」とひとバチ弾いたその音から聴く人の背筋をシャンとさせるような、ビシリと響く音色でした。
悪い事をしてないのに「すいませんっ」って言っちゃいそうな迫力と言いますか(笑)。例えば、和太鼓のいい音を聴くと「キターッ」って思ったりするじゃないですか。あの感じの、なんかもっとコワい感じです(笑)。
ではまた、来週金曜日に。
この書籍「三波春夫でございます」が出版されたのが1993年。
現在でしたら、本文のような記述とは違った内容になったことでしょう。
ではまた、来週金曜日に。
三波から直接聞いた思い出話ですが、13歳から始まった米屋奉公の当初。自転車の荷台に米袋を積んで配達に行ったところ、納める先の天丼屋さんの店先で自転車ごと転んでお米が道にこぼれてしまったそうです。でも、お店のご主人が一緒に米を拾ってくれて、天丼まで御馳走になったということ。この話を聞いた時はまだ私は20代だったのでそれほどでもなかったですが、今の年代では深く感じ入るものがあります。
最近、仕事で必要だったので三波春夫のトーク番組のビデオを見ていたのですが、その時の話の中で、『人を大事にすると、自分が大事にされるって言いますでしょう』と、三波が発言していましたが、この天丼屋さんの話はまさにそうでした…。
ではまた、来週金曜日に。
イノシシ何枚、って、今や全くわからないですよね。聖徳太子のお札も知らない方が増えていますものね。
さて、お知らせを申し上げます。三波の命日の14日に、恒例のCDリリースがございます。今回は、『長編歌謡浪曲スーパーベスト5』です。時代物「関の弥太っぺ」等の他、川で溺れる生徒を助けるために殉職した教師の話を描く「花咲く墓標」、ジュラ紀を描いた「恐竜王物語」などの珍しい作品を収録しています。是非、お買い求め下さいませ。
ではまた、来週金曜日に。
加藤清二郎さんは、浪曲時代からご後援下さり、歌手・三波春夫になってからは後援会の会長に成って頂いておりました。1924年(大正13年)に“簡易洋食”と銘打った『須田町食堂』を開かれ、その後の上野の『聚楽』ほか数々のレストランでお客様にリーズナブルに洋食を提供なさいました。人々の思い出にしっかりと残るお店ばかりでした。現在、聚楽チェーンはお孫さんが社長でいらっしゃいます。
ではまた、来週金曜日に。
以前も書きましたが、お年を召されても加藤清二郎さんは背筋がピーンと伸びておられたことがとても印象的な方でした。三波は心から尊敬しておりました。
ではまた、来週金曜日に。
あらためて“神棚にあげて歓んでくださった加藤氏”を考えますと、あたたかいお方だったのだと感じ入ります。
母のことですが、三波は生前、講演や取材の折に、『悪い女房を貰うと一生の不作と申しますが、お陰様で我が家は大豊作でした』と笑顔で語っておりました。妻には生涯、感謝感謝の三波春夫でした。
ではまた、来週金曜日に。
生前、インタビューなどで話していたことですが
「沈黙は金、と言いますが、雄弁はダイヤモンドだと思います」。
人と触れ合って、向き合って話をしてみて、確かな心のやりとりがあって、という土台の上で生きていきたいというタイプの人でした。
ではまた、来週金曜日に。
ある番組で「叩き上げの三波さん」という形容をしていらっしゃいましたが、実直な生き方は、色々な人の生き方を見た上で選択したものだと思います。
ではまた、来週金曜日に。
尊敬してやまなかった二宮尊徳さんのお話です。平成9年に開催した永六輔氏とのイベント『爆笑教養講座』の舞台の上に“柴を背負って本を読む金次郎像”があり、その前で永氏が三波に聞きました。
「きょう、三波さんが二宮金次郎について話をするっていうからこの像を置いたんですけど。なんで、この人は、歩きながら本を読んでいるんでしょうかねえ」
「いえ、永さん、違うんですよ。金次郎さんは山で柴を取って来て、それを売った代金で本を買って、仕事を終えてから本を読んだんです。ですから、おなじみのこういう像は、それをいっぺんに表現したものなんです」
これを皮切りに、三波による尊徳さんの話はエンエンと続き、客席は静まり返ったのでした…。
ではまた、来週金曜日に。

借りた金は事業資金として、五年間は無利子。そして、返済をする時に、一割または二割の利子を、おかげさまでと、感謝の心をこめて返納という、情と理に叶ったものでした。ですから、みんな頑張って借金を早く返して仲間の期待に応えようと頑張ります。尊徳先生は、こんな素晴らしい制度を江戸時代に作ったのですから、まさに民主主義の祖であり、心温かな哲学者でもありました。
「研究してみたところ、物凄い人物だった。これを世の中に伝えたい。皆さんの勇気の源にして貰えたら幸い」と、歌詞として書きまとめて、曲をつけて唄う。どう書いたらいいのだろうと苦心しつつも、恐らくいつもその仕事を心底から楽しんで実行していたのが三波でした。やがて出来上がった作品を新曲としてレコーディングする日を迎えるわけですが、このレコーディングという作業が本人の「一番好きな仕事」だったのでした。
ではまた、来週金曜日に。
自叙伝「すべてを我が師として」に三波が詳しく記述したところがありますが、母は自分の両親と縁が薄い人だったので『専門職について自分で食べていけるように』という周りの大人達の計らいで、9歳で芸界に入りました。旅公演を続けながらの芸の修業は厳しくて、人の居ないところで涙をこぼす日々。でも、運命や環境に負けちゃいられないと、一人前の舞台人になるためにまっすぐに努力をしたのだそうです。何十年経ってからも、ふとした事でその頃の自分を思い出し、ジワーンと涙をためながら私にも思い出を語ってくれたことがありました。父は自らの経験と重ねながら、私以上にとても深く、母に共感していたのだと思います。
ではまた、来週金曜日に。

共産主義の崩壊から手さぐりの市場への移行へと迷走し続ける旧ソ連邦。そのなかのある共和国の議会が、下落し続けるルーブル貨幣の復権のために、一ドル一または二ルーブルに、その国だけでもデノミネーションの措置をとることを決議した、という話題が、新聞の外報欄に小さく載っていました。
シベリアに4年間抑留された経験から、旧ソ連の共産主義を勉強せざるを得ないことになり、帰国後もずっと、ロシアの歩み方を注視していました。多くの抑留経験者と同じく、語り切れない様々な思いや考えと共に、だと思います。
ではまた、来週金曜日に。

私はもう十何年も前から、このことを話していますが、もしデノミをやることになるとたいへんな金がかかるという方がいます。これは数字のあらわし方が小額になるので、日常生活のなかでも銭や厘という単位が出てきたりして、今ある証券・伝票から販売機からレジから、すべて変えなくてはならない。その費用は莫大だからできないという主張です。
<続きを読む>三波春夫はこんなことも考えていたり、感じていたりしていた一面があるのでした。
ではまた、来週金曜日に。