「真髄 三波忠臣蔵」 アーカイブ

2014年12月05日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次2-

【解説】
≪「こんばんは。お蕎麦とお酒をお持ち致しました」
「おお」

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 またまた、父の研究メモからご紹介しますが、杉野サン自身の“禄”は少なかったのですが、家は裕福で、討入りまでの期間に生活に困った同志に、援助をしたのだそうです。1676年の生まれで、享年は28歳でした。
 
 この続きは、来週金曜日にアップいたします。

2014年12月12日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次3-

【解説】
≪ その夜はそのまま刻限がきて、玄蕃は道場を出て居室へ戻り、門弟たちもそれぞれ言葉を交わしながら散ってゆきました。

<続きを読む>

 文中に出て参りました、「俵くずし」。

 『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』の2コーラス目に、「今宵名残りに 見ておけよ 俵くずしの極意のひと手~」 と唄っていますが、この「俵くずし」のワザとはどういうものなのか!

 次回のお楽しみでございます。


 来週、また金曜日に更新いたします!

2014年12月19日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次4-

≪ 話に聞いてはいましたが、”俵崩しの極意”とはどんなものかは、実際には見せてもらったことがありません。今夜それを披露してくださるとはどういうことかと思いながらも、全員が雪崩れ込んで庭へ出ました。

<続きを読む>

 『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』で唄われた、「♪たわらくーずーしーの、ごくいーのひとーてー」の場面です。どんなものなのか、お解り頂けましたか?
 
 “裂帛(れっぱく)の気合をほとばしらせた俵星は、山の形に積み上げられた16俵の砂俵を、「1俵ずつ、槍で差しては後ろに投げ飛ばし」を、16回。終ったときには、俵星の後ろに、その16俵がピタリと積み上がっていました”というものです。

 
 三波春夫は、この歌詞のところで、“槍をグサリと差して、跳ね上げる”所作をしておりますので、DVDの映像等で注視なさってみてください。

 
 東京・歌舞伎座で上演した芝居の、三波春夫扮する俵星の「俵くずし」の場面の写真がございますので、のちほどfacebookにアップいたします。

 
 どうぞ、ご覧ください。
 
 ではこの続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年12月26日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次5-

【解説】
≪ すると、静かに俵星は月光の庭に槍の石突きを立てて、にこりと笑顔を見せ、そのまま無言で道場へ入ってゆくのです。門人たちもぞろぞろと道場に入りましたが、まだ興奮さめやらずという有り様でした。

<続きを読む>

 “道場が真っ暗だったー”というところで、本年のブログはおしまいです。
 続きは、来年1月9日にアップさせて頂きます。
 
 今年もお読み下さり、まことにありがとうございました。

 
 『三波春夫の笑顔の秘密』。

 
 その笑顔の根本は、どなたでも辛い事の方が多い“人生”に、せめて楽しみをお送りしたいという気持ちでした。
 それを成すために、いつもお客様に笑顔を向けられるように、自分の心を鍛えることを怠けない人でした。
 怠けないで、研究して、たくさんの歌や物語を書きました。
 それらの、心をこめて創った作品をご紹介するのが、このブログです。
 
 来年も、よろしくお願いいたします。
 どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

2015年01月09日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次6-

【解説】
≪ 胸騒ぎを覚えて入ろうとしたが、勝手口が開かない。玄蕃先生はどこへ行ってしまったのかと、一回りしても分からないので、ままよと塀を飛び越えて入ったら、中に人の気配がします。そこで勝手口の錠をはずし、外に置いた蕎麦荷から明かりを持って再び台所へ。
 そこに、玄蕃が座っていました。痩せこけて、頬骨高く、ひげは伸び放題、あまりの変わりように、

<続きを読む>

新年初のブログ更新です。
今年もお読み頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。


玄蕃と十平次が二人きりで会話している場面でした。
このあとも、物語は続いて参ります。
また来週金曜日に、更新いたします。

2015年01月16日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次7-

【解説】
≪「でも手伝いのお婆さんがいたではありませんか」

<続きを読む>

この吉田綾部という人は、ナニモノでしょうか…。
“玄蕃の光る瞳”は、“すべてを理解した”この玄蕃の心の内を示しているのです…。
 
お分かりになりましたか?
謎解きは次回、来週金曜日の更新にてお伝えいたします!

2015年01月23日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次8-

【解説】
≪「先生のお言葉はありがたく、帰りましたら主君をはじめ一同に・・・・・・。いや、藩士の者どもに必ず伝えるでござりましょう。
 本来なら持参した金子を持ち帰るは失礼でございますが、お言葉に従いまする。この清酒一樽だけはお召し上がりくださるようにお願い申し上げまする」

<続きを読む>

 前回から本日分にかけての「仕官話」の“謎解き”。
 もう、おわかりですね。
 
 “加賀・前田家の江戸家老 吉田織部”と名乗ったのは、実は赤穂浪士の一員だったわけです。原惣右衛門、という話もあります。 
 
 なぜ嘘の仕官話が仕立てられたのでしょうか?
 
 その元はもちろん、夜鳴き蕎麦屋・当り屋十助こと杉野十平次です。
 
 “玄蕃のところへ吉良家の家老が直々に訪れて、吉良家の付け人になってくれと頼みに来た”と聞き、大石内蔵助と相談して一計を案じました。そして、原惣右衛門あたりが加賀・前田家からの使者に扮して玄蕃宅を訪問。仕官するように求め、「3月14日に」と言うのです。勘の良い玄蕃はハッと気付いて、「承りました…」と胸に迫る思いとともに返事をし、帰る使者を「さすが、大石…」と見送りながら、「ああ、赤穂浪士の方々はご苦労をなさりながら、討入りの計画を進めておられるのだなぁ」と感涙しました、というお話でございました!
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年01月30日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次9-

【解説】
≪ 時に元禄十五年十二月十四日寅の上刻七ッ頃。
 江戸の夜風を震わせて、山鹿流儀の陣太鼓、その名も忠義堅川の流れに響いて勇ましや。一打ち二打ち三流れ、武士は寒夜に霜降る音にも目を覚ますとか。がば、とばかりに跳ね起きて、耳をすまして指を折る。

<続きを読む>

 “寅の上刻七ツ頃”とは、午前4時頃。山鹿流儀の陣太鼓は鳴らなかったようですが、討入り開始時刻はこの時間でよろしいようです。そして、本懐を遂げて吉良邸から引き揚げたのは、2時間後の午前6時過ぎ頃。
 
 するってぇと、俵星玄蕃は「赤穂浪士に邪魔する者は、絶対に通さないぞ」と、橋のたもとで1時間以上は仁王立ち。そして、夜明け間近の5時半~6時頃に夜空に響き渡った「エイエイオー」という義士達の勝ちどきを耳にして、ひとり、歓びの涙を流したのでしょうねぇ…。フィクションでも泣けてくる、ほんとうに『俵星玄蕃』は、良い話ですね!(笑)
 
 『真髄 三波忠臣蔵』における「討入りの場面」は、冒頭にありました。2012年10月5日の連載開始の次の回からとなりますので、読み返して頂きますと幸いです。
 
 最近、オトナの方々と、“若い世代に、「忠臣蔵」の話を知らない人達が増えた”という話になりました。

皆様のお力もお借りしながら、私、三波春夫の歌やこの本を通して“伝え残す”ことに一段と頑張りたいと思います!
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月06日

『第七章 俵星玄蕃』  -赤穂義士伝と浪曲1-

【解説】
≪ 芝居に始まり、講談、小説、映画、そして、浪花節も忠臣蔵ものを口演して大人気を博したのでした。

<続きを読む>

 浪曲の舞台の、“富士の形に広げて布が掛けられたテーブル台を前に演者が立って、その背には金屏風…。演者は黒紋付に仙台平の袴…”といった様式美は、桃中軒雲右門さんによって確立されたものです。
 文中にあるとおり、トウヤマ ミツル、ミヤザキ トウテンといったプロデューサーと共に、舞台の藝に生きた雲右衛門さん。その陰に、曲師として一緒にフシを完成させ、彼を支えた“お浜”さんという妻が居ました。師匠の奥様だった女性でしたから、曲師として三味線を演奏する際に、屏風を立てて姿が見えないようにしたことから、浪曲の舞台では曲師は“屏風の陰で弾く”というスタイルが定まったというお話があります。近年は、曲師さんの様子、そのバチさばきの素晴らしさも楽しみたい、というお客様の思いもあって、屏風が取り払われることも多いようです。
 
 三波春夫は、歌手が座長の芝居と歌の一ヶ月の大劇場公演を史上初として始めた人ですが、一番最初に上演した芝居は「桃中軒雲右衛門とその妻」というタイトルの、雲右衛門の半生を描いたものでした。
 以前にもこのブログでお伝えしたことがありますが、その主題歌だった『桃中軒雲右衛門とその妻』という歌に、「たとえ形は夫婦(めおと)で居ても 藝のためなら死ぬ覚悟 泣いて鬼にも仇(かたき)にも」という歌詞があります。夫婦が藝のために、火花を散らすように情熱をもって生きる姿、ですが、コレはまさに三波夫婦のことを書いたものでもありました。
 夫婦喧嘩といえば、すべて藝のことがモト。30代、40代の三波夫婦のお互い一歩も引かない舌戦を前に、子供の私は傍らで見てるだけで心臓バクバクだわ、自動的に涙は出るわ。しかし、そういう異常なる“熱”があってこそ、“三波春夫”が磨かれ、出来上がっていったのでありました。
 拙著「ゆく空に」に書いたことですが、“藝に終わり無し”の信念から、母はいついかなる時も父を褒めたことはなく。母が初めて“力一杯褒めた”のは、父が亡くなる2時間前のことでした…。
 
 では、来週また金曜日に更新いたします。

2015年02月13日

『第七章 俵星玄蕃』  -赤穂義士伝と浪曲2-

【解説】
≪ この雲右衛門に遅れじと、関西の吉田奈良丸が義士を語って好評を博し、この人の節を生かした『笹屋ぶし』という流行歌が大ヒットしたこともありました。

<続きを読む>

小学5年生のときに、いわゆる「学芸会」で朗読を披露したわけですね。
 
 昭和7年頃のことですから茶の間にテレビはありませんので、夜、針仕事をする母親(継母)に本を朗読して聴かせていたようです。そして、聴いている母親の表情を見ながら「そうか、こういう所で力を入れて読むとウケるのか」などと工夫していたと言っていました。
 
 テレビもゲームもケータイもパソコンも無い夜…、そこに育つ人の心は、豊かでありましょうか…。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月20日

『第八章 討ち入りの顛末』  -国宝に従った浪士たち-

【解説】
≪ さて、本書の初めに書いたように、吉良邸討ち入りは見事本懐を遂げて、高輪・泉岳寺へ引き揚げました。

<続きを読む>

 父から聞いた話ですが、“大名家にお預けとなる”というのは、大名や旗本と同格の扱いなのだそうです。
 
 幕府が浪士の義挙に感じ入り、気遣いをした上での裁断だったようです。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月27日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛1-

【解説】
≪ 松平隠岐守定直に預けられた大石主税は、父を想い母を恋い慕って、夜ともなれば人知れず涙を拭いたことでしょう。年が十六歳と記録にあります。
 父と子を別家に預けた大目付の計らいもよく分かりますが、あの堀部安兵衛と一緒にいたことが、主税にとっては嬉しいことであったと思います。安兵衛こそ、討ち入りに関してとても大きな精神的働きをしています。
 ある一日を私は想定して、次の一節を書いてみました。≫

<続きを読む>

 私は、コドモの頃、『高田の馬場の決斗』の堀部安兵衛イコール赤穂浪士の一人、だったことに「へぇー」っと ビックリしました。が、・・・イマドキの方々は、高田の馬場の決斗とは何ぞや?でしょうね。
その“決斗”の経緯と状況は、次回にございます。
 
 ではまた、来週金曜日の更新、どうぞチェックしてくださいますように・・・。

2015年03月06日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛2-

決斗 高田の馬場



江戸は夕焼け 灯ともし頃に 夢を求めて みなし子が 国の越後の 空を見る 顔も赤鞘 安兵衛が 何時か覚えた 酒の味

<続きを読む>

“堀部安兵衛の、高田の馬場での決斗”の顛末を、詩に書いたもの。 これを三波春夫が唄ったものが『長編歌謡浪曲 元禄桜吹雪 決斗高田馬場』です。

 

 三波春夫が書いた楽曲は、「歌で憶える日本の歴史物語」として役立つものもいろいろとございます。

 

 2時間25分の組曲アルバム『平家物語』も源平の歴史がかなり詳しく解りますし、長編歌謡浪曲では『天竜二俣城』『奥州の風雲児 伊達政宗』『豪商一 代 紀伊国屋文左衛門』『勝海舟』などなど沢山。『瞼の母』をはじめとする長谷川伸シリーズも、大作家の物語を味わうのに最適。

 

 日本人の心の良さを、歌で堪能頂けましたら幸いです。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月13日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛3-

「なるほどなあ、主税も見とうござりました。
 しかし結局、菅野殿は果たし合いに勝った後、自害なされたのですね」

「はい、深傷を負っておりましたので、叔父はにっこり笑って死んで行きました」

<続きを読む>

 「上締めに鎖を入れること」とありますが、このような武装の工夫は、2012年10月26日分に詳しく書かれております。ご再読いただけましたら幸いです。
 主税と安兵衛。切腹の日が間近なことを覚悟しながら居る二人の会話を、三波春夫が書きました。
 これを読みながら私が思うことですが、父は陸軍歩兵として戦場を駆け巡った経験をし「覚悟」を持ったことがあるからこそ書ける言葉があったのではないか、と。
 『平家物語』や戦国時代を描いた“長編歌謡浪曲”の作詞にもそのような箇所がありますが、ちょっとダイレクトな表現としては例えば「靖国の母」という歌は、戦争で息子を亡くす母親をこののち絶対に生み出すことは無いようにと願いをこめた詩、なのだと思います。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月20日

『第八章 討ち入りの顛末』  -大石夫人・理玖と、嗣子・代三郎について-

【解説】
≪ 浪士たちの最期を語る前に、大石内蔵助の妻・理玖と長男・主税を除いた子供たちのその後について触れておきましょう。

<続きを読む>

 内蔵之助の妻・大石理玖(りく)を主人公にした三波春夫の長編歌謡浪曲があります。タイトルは、「長編歌謡浪曲 赤穂の妻」。“山科の別れ”というサブタイトルが付いています。
 そのストーリーは、「秘密裡に主君の仇討ち計画を進め、実行後のわが身は天下に知られる罪人になることを見据えた内蔵之助は、万感の思いをこめた言葉を伝えて理玖を離縁します。そして、身重の理玖が幼い子供たちを連れて山科の実家に帰った日。父の石塚源五兵衛は、孫の吉千代、久宇(くう)との対面を喜びつつ内蔵之助のやり方に腹を立てて悪口を言いますが、孫からある物を手渡され…」
 その後の展開は、ノリの良いフシと音楽で語られています。
 iTunes等で配信にもなっておりますので、ぜひお聴きください。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月27日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹1-

【解説】
≪ やがて元禄十六年二月四日、まさに国論を二つに分けるほど激しい論争を巻き起こした赤穂義士に対する処分が決まりました。

<続きを読む>

 はー、そんなことがあったのかー、と思いますね。
 人間の生態をよくよく御存知の傑物のご判断の結果、赤穂浪士の誉れが現代までも在り続けた、というわけでした。


 では続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年04月03日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹2-

【解説】
≪  この、将軍から切腹を賜るという手続きは、当時の武士社会の常識としては破格の名誉。しかも、一地方大名である浅野家の家来たちが、将軍から直接死を賜るなどというのは、前代未聞の出来事でした。

<続きを読む>

 赤穂浪士は、例えば浅野内匠頭の墓前などで自決する道を選ばず、法を犯した者として法の裁きを受ける、幕府からの処罰を受ける、という道を選択したのでした。幕政への批判の意思も含むこの敵討ちが、公に向けてという姿勢で徹底されたことにも、多くの人が感銘を受けたのでしょうね。三波春夫もしかり、で、忠臣蔵にまつわるたくさんの歌や作品を創ることと相成ったのでした。

 では続きはまた、来週金曜日に。

2015年04月10日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹3-

 【解説】
≪ 内蔵助は、最後の時間を熊本五十四万石の大守・細川越中守綱利と二人だけで相対して過ごし、そのとき綱利は心安らかに黄泉の国へ旅立ちをされるようにと、さんざんと涙をこぼしながら内蔵助に語りかけたそうです。

<続きを読む>

次回からは、四十七士それぞれのプロフィールをご紹介してまいります。
その後に、和歌や俳句のご紹介をいたします。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年04月17日

『巻末資料1』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名

・大石内蔵助良雄
・吉田忠左衛門兼亮
・原惣右衛門元辰
・片岡源五右衛門高房
・間瀬久太夫正明

<続きを読む>

 『真髄三波忠臣蔵』は、巻末に付録資料として、赤穂義士各人の簡単なご紹介の“人物寸描”と、和歌・俳句のご紹介が掲載されております。本日は、“人物寸描”の始まりです。簡単なプロフィールとはいえ、人物が見えてきますね。

 では、この続きはまた来週金曜日に…。

2015年04月24日

『巻末資料2』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・小野寺十内秀和
・大石主税良金
・磯貝十郎左衛門正久
・堀部弥兵衛金丸
・近松勘六行重

<続きを読む>

 若い方もあり、熟年の方もある本日の5人。
「真髄三波忠臣蔵」の本文欄外に記されたメモと、三波の忠臣蔵研究メモから、数人のエピソードを以下に。

★大石主税:内蔵之助の長男。身長は五尺七寸あって当時としては大柄。若いながらも討ち入り時に、敵の一人を討ち取ったといわれている。
★磯貝:能と鼓が堪能の美男子。死後の私物の中に、大事に袱紗に包まれた琴の爪があったという。
★堀部弥兵衛:浪士中の最長老。その年輪を生かした知恵袋として若い浪士にもよく気を配った言動が、記録に多く残っている。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月01日

『巻末資料3』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名

・富森助右衛門正因
・潮田又之丞高教
・堀部安兵衛武庸
・赤埴源蔵重賢
・奥田孫太夫重盛
・矢田五郎右衛門助武
・大石瀬左衛門信清

<続きを読む>

 本日も、義士のご紹介でした。

 以下、前回と同じく、三波の本と研究メモから補足いたします。


★富森:討ち入り前に母に挨拶をした際に所望した、母親の白無垢の小袖を着て討ち入ったといわれる。

★潮田:大石内蔵之助、大石瀬左衛門と同じ師について剣を鍛錬したので、内蔵之助とも親しかった。いよいよ内蔵之助が切腹の場に向かうときに、「おっつけ皆で参ります」と

声をかけると、内蔵之助はにっこりと笑って応えたといわれている。

★赤埴:三波春夫の長編歌謡浪曲『元禄花の兄弟 赤垣源蔵』の主人公。本名は赤埴または赤羽。本当は”下戸”であり、”兄はおらず”弟妹のみ。(えーっ!?というカンジです…)

★大石:刃傷事件の折は江戸におり、内匠頭切腹後に原惣右衛門とともに早篭に乗り、その報せを国元へ伝えた。江戸から赤穂まで、4日半~5日という短時間で到着したといわれている。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月08日

『巻末資料4』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・早水藤左衛門満堯
・間喜兵衛光延
・中村勘助正辰
・菅谷半之丞政利
・不破数右衛門正種
・千馬三郎兵衛光忠

<続きを読む>

 以下に、「三波メモ」からの追加解説を申し上げます。

★早水:江戸から早籠に乗って刃傷事件の第一報を国元の赤穂に伝えた。弓術に長け、和歌や絵画もたしなんだ。
★間 :長男の十次郎、次男の新六とともに親子3人で討入りに参加。
★中村:奥州白川藩の家臣の子として生まれ、赤穂藩士の家の養子となった。刃傷事件の直後から義挙メンバーに率先して加盟。
★不破:元禄10年頃に内匠頭の勘気にふれて浪人となり、江戸に住む。いつか赤穂に戻れると思い暮らしている間に刃傷事件が起こり、義挙メンバーに加わる。討入りでは浪士の中で一番の健闘だったという。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月15日

『巻末資料5』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・木村岡右衛門貞行
・岡野金右衛門包秀
・吉田沢右衛門兼貞
・貝賀弥左衛門友信
・大高源五忠雄
・岡島八十右衛門常樹

<続きを読む>

 今回も、「三波メモ」からの補足を以下に記します。

★木村:祖父の代から浅野家に仕えた。好学の士であった。
★岡野:父親は、赤穂浪士の一人・小野寺十内の弟だが、義挙メンバーに加わった後に病死。金右衛門という名はその父の名を継いだもの。
★吉田:吉田忠左衛門の長男。
★貝賀:吉田忠左衛門の弟。
★大高:文武に俊才。茶の湯の心得があったことが役に立ち、12月14日の吉良家に於ける「茶会」開催の情報を掴んだ。
★岡島:原惣右衛門の弟。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月22日

『巻末資料6』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・武林唯七隆重
・倉橋伝助武幸
・村松喜兵衛秀直
・杉野十平次次房
・勝田新左衛門武堯
・前原伊助宗房

<続きを読む>

 恒例の、「三波メモ」からの人物ご紹介補足、です。


★武林: 炭小屋に隠れていた上野介を、一番最初に槍で突いたのは間十次郎、そのすぐ次の太刀は武林だった。
★倉橋:7歳で父が亡くなり、家を継いだ。刃傷事件の際には江戸詰めだった。
★杉野:親と縁が薄く、誕生した年に母を、10歳で父を亡くした。
★前原:赤穂藩取り潰しの後、呉服商を営みながら浪士としての役目を果たし、「赤城盟伝」という記録本も残した。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月29日

『巻末資料7』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・間瀬孫九郎正辰
・小野寺幸右衛門秀
・間十次郎光興
・奥田貞右衛門行高
・矢頭右衛門七教兼
・村松三太夫高直

<続きを読む>

 本日も、「三波メモ」から補足を記します。

★間瀬:父の間瀬久太夫とともに討入りに参加。槍で目覚ましい働きをした23歳。
★小野寺:討入り後、養父・小野寺十内が妻に宛てた手紙に、幸右衛門の活躍ぶりが詳細に書かれていた。
★間  :炭小屋に隠れていた上野介に一番槍。その殊勲で、首級をあげる役目も果たした。
★矢頭:刃傷事件の折は16歳。父親と共に義盟に加わったが、父は翌年夏に死去。討入りには、その戒名を紙に書き、兜頭巾に収めて戦った。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月05日

『巻末資料8』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・神崎与五郎則休
・茅野和助常成
・横川勘平宗利
・間新六郎光風
・三村次郎左衛門包常
・寺坂吉右衛門信行

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 「三波メモ」からの解説、と私からの補足を記します。


★神崎:文武両道に優れ、吟詠も見事だったが47人の中で一番の酒豪ともいわれる。
★横川:三波春夫の「長編歌謡浪曲 元禄花の兄弟 赤垣源蔵」の啖呵に出てくる"横川勘平、武林が大門開けば赤垣は…"のとおり、3人とも表門から討ち入った表門組でした。
★間:当時の切腹は、小刀を腹に突き立てようとするところを介錯人が介錯をする型だったが、間新六は、小刀を手にした途端に自分で腹を切り、介錯人がそれを見て即座に介錯をしたという記録が残る。若く、血気盛んなことからか。印象深い最期を遂げようと思ったのか。新六の遺骸は46人中で1人だけ泉岳寺に無く、親族の意向で別の寺に埋葬された。
★寺坂:元禄16年の浪士切腹から44年後、83歳で江戸で没。


 本日で、プロフィールのご紹介は終了です。
次回からは、義士が詠んだ和歌、俳句などをご紹介します。


 ではまた、来週金曜日に。

2015年06月12日

『巻末資料9』 志魂歌心

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

 前回までの「人物寸描」は、まさに”人に歴史あり”で、各人の人生に思いを馳せて頂きました。

 今回からは、俳句などのご紹介です。

 三波春夫が本の中で『浪士たちの秘めた想いが感じられると思います』と書きましたが、日本語の美しさ、旋律の良さ、籠められた想いを味わって頂きたい、と巻末に掲載したのでした。

 なお、本文にルビが振れないため、以下に記します。

○「存命て」→ いのちありて
○「下艸」→ したくさ


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月19日

『巻末資料10』 志魂歌心2

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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大石主税(オオイシ チカラ)は、享年16歳。その辞世の句の秀作ぶりに驚きますね。
大高源五は、俳名を「子葉」とし、作家とも交流があったほど文雅に秀でた人物。
潮田の辞世は、「もののふの みちとばかりを ひとすじに…」と読みます。


ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月26日

『巻末資料11』 志魂歌心3

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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 本日の三波メモからの補足は、「小野寺十内と妻」についてです。

 小野寺の妻、「丹」は、夫と同じように和歌が上手だったそうです。
夫婦に子供は無く、大高源五の弟を養子にしました。

 仇を討つまでの間、家を留守にしたまま長く行動をしていた小野寺が、丹の気持ちをよく気にかけていた言動の記録が残っています。

 丹への遺言状は12月12日に出しており、「忠義に死ぬ姿を天下の武士たちに示し、人の心の励ましとなるのだから本望。こののち、丹は見苦しいこともなく、ちゃんと暮らしてくれるだろうと安心しているよ」というような内容のものでした。

 切腹の直前も、「妻にも、きょうの始末が伝わるように」と頼んだのでした…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月03日

『巻末資料12』 志魂歌心4

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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○武林の句の、「仕合せ」の読みは「しあわせ」です。

○富森の最後の句は、元禄16年の元旦に詠まれたものです。細川越中守の屋敷にお預けとなっていたのですが、「お預け中とはいえ、年の始めですから」と細川家から新しい小袖を全員が頂戴し、酒肴の膳も用意してくださったので、ちょっと呑んでの一句でした。


 以上、三波メモから、でした。
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月10日

『巻末資料13』 志魂歌心5

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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○間十次郎の和歌の、「酣はに」の読みは、”たけなわに”です。

○早水藤左衛門は、弓の達人だったそうですが、辞世の句の意味するとことは、“自然界の中から私は生まれ出て、生きて、そしてまた元のところへと還るのです”でしょうか。
 まっすぐな思いの魂が、まっすぐに天に昇って行かれたのだろうな、と清々しささえ漂います。享年は40歳とも42歳とも言われています。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月17日

『巻末資料14』 志魂歌心6

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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 本日も”三波メモ”から、補足です。


 ☆原惣右衛門は、刃傷事件の直後、饗応役として揃えてあった器や調度品などの片付け・運搬に際し、素早く見事な采配をみせた。その後、早駕籠に乗って、赤穂に殿様の切腹を伝えた。討入りの折には、足をくじき、泉岳寺への引揚げの折は駕籠に乗ったという。


 ☆「活き過ぎた」と詠んだ弥兵衛金丸は、このとき76歳。
 「雪晴れて…」の句は、討入り当日の朝に詠まれた句。その日までの数日間、江戸に大雪が降り、困ったものだと思いながら就寝した討入り前夜、夢の中で浮かんだ句。起床して外を見たら、本当に日本晴れだったので、句を披露しながら仲間とともに喜び合ったという。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月24日

『巻末資料15』 志魂歌心7

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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「高田の馬場の決斗」で有名な堀部安兵衛については、2月27日からの『松平邸の大石主税と堀部安兵衛』の章に書かれておりますが、今回も「三波メモ」から補足のお話、です。

堀部安兵衛(享年36歳)は刃傷事件以来、常に"仇討ち急進派"としてバイタリティー溢れる働きをした。「浅野内匠頭家来 討入り口上書」には、安兵衛が21歳頃に堀内源左衛門道場で共に剣を学んで以来、交友を重ねた儒学者・細井広沢のアドバイスが入っている。

討入りを前に、安兵衛は、親戚や知人に遺書を書き残し、広沢には内蔵助をはじめとした同志との数十本の書簡を送った。それらの書簡を読めば、それまでの浪士たちの動向がうかがい知ることが出来る。これが、のちに広沢の手で「堀部武庸筆記」としてまとめられた。

吉良邸から引き揚げて泉岳寺に向かう道すがら、安兵衛は、深川八幡町にあった広沢の家に立ち寄って大声で、「仇の首級を討ち取り、只今泉岳寺に引揚げの途中でござる。日ごろの芳情は死後まで忘れませぬ。これが今生の別れ。さらば」と告げた。光沢は、すぐに表に出てみたが、すでに姿は見えなかった。

松平邸での切腹の日は、16歳でこの世を去る大石主税を最後まで慮り、切腹の場に向かう主税に「拙者も只今」と声をかけ、互いに笑顔を交わしたという。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月31日

『巻末資料16』 志魂歌心8

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

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 では、「三波メモ」を元に、補足解説をば。

 ☆矢頭右衛門七:享年18歳。5月29日のブログの記載のとおり、刃傷事件の折は16歳で、父親と共に義盟に加わったが、父は翌年夏に死去。討入りには、その戒名を紙に書き、兜頭巾に収めて戦った。討入りまでの準備期間は、金銭的に困窮し、仲間の援助を受けた。

 ☆横川勘平:三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄花の兄弟 赤垣源蔵」の吉良邸討入りの場面の歌詞に、"横川勘平、武林が大門開けば赤垣は…"と登場する人物。史実としても、表門から討入り、その付近を守った。
討入り準備も佳境に入ったころ、横川が住んでいた家の近所に、吉良邸で催される茶会に招かれている人が居た。その人の返事を代筆して吉良邸に届けつつ、吉良屋敷の様子をつくづくと観察してきたという。その日は12月10日。そして、4日後には討入となったのである。享年37歳。

 ☆吉田忠左衛門:大石内蔵之助に次いでの副リーダー格だった。文雅の士として、多くの和歌・俳句が残っている。
討入りでは、裏門大将の大石主税のサポートとなった。上野介の姿がなかなか見つからない段には、「逃がすまいぞ。夜があけても探すべし」と大声で激励し、一同はそれを聞いて奮起した挙句、炭小屋に隠れていた上野介を見つけるに至った。

 さて、2012年10月から連載の「真髄 三波忠臣蔵」は本日で最後です。
来週からは、同じく小学館文庫として発刊された「聖徳太子憲法は生きている」をご紹介して参ります。
この本もまた、三波春夫は一所懸命、書いたのでありました!!

 ではまた、来週金曜日から、よろしくお願い致します!!