三波春夫 アーカイブ

2007年10月16日

飢えと寒さの中で 6

 それに、日本へ帰りたいという気持ちだけの捕虜の身にとって、労働などやる気はまるでないのですから、作業が進まないのは当然でしょう。
 しかしソ連の指導者たちは、こうした捕虜の心理を十分に研究して、半年後には“民主運動”という名の、思想運動を活発にして、捕虜たちに働く気持ちを起こさせました。

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<八島>
 「軍隊と抑留生活で、極限状態における様々な人間模様を見たこと。これは実に勉強になりました」そう語っていた三波でしたが、それでも帰国後もずっと性善説を立場とする人でした。

2012年10月12日

『第一章 討ち入り』  -雪の吉良屋敷-

 江戸の本所松坂町一ッ目橋、従四位上左近衛の少将・吉良上野介義央の屋敷。その敷地二千五百五十坪。建物は八百四十六坪一合五勺の広さ。
 刻は寅ノ上刻七ッ頃。美しく雪を被ったこの屋敷が、十二月十五日の朝を二時間後に迎えようとしていた。

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 “赤穂浪士の討ち入り”の、“途中までの状況”です。次回、次々回は三波の解説が入り、その後にはまた状況を描き出します。時代物ですのでちょっと読み辛いかと存じますが、よろしくお願い申し上げます!! ではまた、来週金曜日に。

2012年10月19日

『第一章 討ち入り』  -周到に整えられた討ち入りの準備1-

 討ち入りについては、大石からこの日までに二回にわたって訓令が出されていました。これを見ると、吉良方の武士の人数は、上杉家からの助人を勘定しても百名くらいと大石は考えていたようです。
 こちらは完全に武装して深更に切り込むわけですから、三人一組となって戦う戦法を採れば、相手が百名でも充分に勝算があると確信していたようです。
 そして、その訓令とは次のようなものでした。

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細かい戦略だったんですね…。次回は、討入りの装束について、です。

来週金曜日に更新いたします。

2012年10月26日

『第一章 討ち入り』  -周到に整えられた討ち入りの準備2-

 大要このような訓令でしたが、討ち入り装束についてもかなり細かく指示がありました。特に、鎖を用いて武装を厳重にせよと指令したのは、かつて堀部安兵衛が高田馬場で菅野六郎右衛門を助けて決闘したとき、帯を斬られて着物がはだけ、苦戦した経験を取り入れた戦闘準備でした。

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 この指示のとおり、ひとつひとつ準備をしながら、各人それぞれの立場で、様々なことを想っていたのでしょうね…。

 ではまた、来週金曜日に。

2012年12月07日

『第一章 討ち入り』  -忠臣蔵こぼれ話 その夜の上杉綱憲2-

 網憲が武装して、三百名の家臣軍団を率いて馬にまたがり、父・上野介を討った赤穂浪士たちを仕留めるべく、日比谷の上杉屋敷の門を、今、出陣しようとしたとき、家老千坂兵部が、馬の轡をぐっと押さえて止めました。

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 長編歌謡浪曲「その夜の上杉綱憲」は、超オススメです。
 本文にある綱憲と兵部の場面が、三波の語りで鮮やかに表現され、感動を呼ぶ一曲です。
 好評発売中の『三波春夫 長編歌謡浪曲スーパーベスト3』に収録されております。
ちなみに、このアルバムには、“塩を送った上杉謙信、送られた武田信玄”を描いた「戦国塩物語」も収録されております。この“伝説”を味わいたい方にはこの曲もオススメいたします。

2012年12月14日

『第二章 泉岳寺へ』  -赤穂浪士の引き揚げ1-

【解説】

≪ 十九歳で大石内蔵助は、千五百石の赤穂浪士席家老となりましたが、お務めぶりも人柄が穏やかで小さなことにこだわらず、主家の浅野家と大石家は、永い間に親戚関係にもなっていたので鷹揚だったところから、時には『昼行燈(ひるあんどん)さま』と陰口叩かれることがありました。

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 『真髄三波忠臣蔵』には、物語のパートの他に、上記の掲載のような三波による
“解説”がございます。


 さて、今回の解説の中の、「一国の宰相の仕事とは何か、…」のくだりを読んで気づいたのですが、三波自身、自らの充実のために、これらを心の中に置いていたのではないか、と。


 「歌手の仕事とは何か、歌手とは如何なる価値を持つものか、歌手として何をしなければならないか」ということ、です。


 これらを追求して努力をした人だった、と、側に居た者として振り返るのです。
そして、本当に「それを忘れる人物ではありませんでした」のであります。


 私も、自分の仕事に置き替えて、念頭に置くことにいたしましょう…。
ではまた、来週金曜日に。

2012年12月21日

『第二章 泉岳寺へ』  -赤穂浪士の引き揚げ2-

 同志の大部分が裏門から出て、足早に回向院に集合した。回向院の門扉は閉ざしたまま。寺僧が開ける気配がないのは、吉良屋敷の乱闘を知っていれば当然のことだろう。

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寺坂吉右衛門の討入り当時の働きには諸説あって、討ち入らずに逃げ出したという話まであるようですが、やはり、足軽という身分を有効に活かした内蔵助のプランこそ真実であったろう、という三波の考えでした。

ではまた、来週金曜日に。

2012年12月28日

『第二章 泉岳寺へ』  -赤穂浪士の引き揚げ3-

 やがて内蔵助は、その声に力をこめて、


 「各々方、追手(おって)はかからぬとみた。これより冷光院様の墓前にこの首を供えようぞ。怪我した同志には手を貸してやってもらいたい。共にいざ、泉岳寺へ参ろう」


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本日で、本年分は終わりとさせていただきます。
毎回ご覧頂きまして、ありがとうございました。
次は1月11日に更新いたします。
よろしくお願いいたします。

2013年01月11日

『第二章 泉岳寺へ』  -赤穂浪士の引き揚げ4-

【解説】
≪ 江戸に在住した堀部安兵衛を中心として、神崎と前原、杉野たちは米屋を開いたり、店にみかんなども並べ、夏は扇子を売り歩き、小間物の行商もして吉良屋敷を探り、敵情偵察を丹念に進めた人々でした。

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新年のお慶びを申し上げます。
本年もブログをご高覧頂きますよう、よろしくお願いいたします。

次回は、また来週金曜日に更新いたします。

なお、12日(土)20時~BS11にて90分の特番「三波春夫と昭和の時代」が放送されます。
どうぞお楽しみに!!

2013年01月18日

『第二章 泉岳寺へ』  -引き揚げ時間は一時間四十五分1-

【解説】
≪ 私はこの記録を見ながら、昔の人はこんなにも歩くのが速かったかと、首を傾げたことがありますが、わが楽しき芸友・永六輔さんは、何事にも体当たりして調査をし、人に逢(あ)って、真実の言葉を引き出す名人。去年のある日、何と本所吉良邸跡から高輪泉岳寺まで歩いて時間を計ったそうです。

<続きを読む>

歩く速度、朝粥の話…。物事の奥には、思わぬ話が隠れているものですね。
続きは、来週金曜日に。

2013年01月25日

『第二章 泉岳寺へ』  -引き揚げ時間は一時間四十五分2-

【解説】
≪ 『伊達十七代・貞宗氏の長女の真美さんという方の話によりますと、仙台藩は赤穂から上質の塩作りの秘法を探りたいと、佐藤三右衛門という武士を派遣したんです。

<続きを読む>

前回の続き、浪士一行が引き揚げの途中に仙台藩の江戸屋敷で朝粥をご馳走になった話です。
情けは人の為ならず、といわれるとおりですねぇ。そして、人の基本として、他の人の人生を大切に思うことは当然でありましょうが、内蔵助さんは偉いなぁ、真剣に丁寧に毎日を過ごした人物だったんだなぁ、と感じ入りました。忠臣蔵は学べます、ね…。
では、次回、来週金曜日に。

2013年02月01日

『第二章 泉岳寺へ』  -仇討ちを国政の問題に1-

【解説】
≪仇討ちを終えて、今、最後の目的地まで行進をする。
 沿道の人垣は進むほどに増えていきました。
 実は、江戸の住民たちと赤穂藩の人々は、毎日台所で使う赤穂産の塩で結びついていたことになります。

<続きを読む>

また来週金曜日に更新いたします!

2013年02月08日

『第二章 泉岳寺へ』  -仇討ちを国政の問題に2-

【解説】
≪仇討ちというものは、江戸時代の掟である武家諸法度では、藩の役所に届け出て“仇討ち免許証”を受けないと認められず、免状を持たずに行った場合は個人的な怨恨の犯罪と断定されてしまうものでした。

<続きを読む>

深い話、ですね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年02月15日

『第二章 泉岳寺へ』  -亡君の墓前にて-

【解説】
≪高輪・泉岳寺の門前は、黒山のような群衆。
 それを分けるようにして浪士たちは境内に入っていきました。
 ここは曹洞宗の名刹。浅野家はこの菩提寺に、米や供養料として毎年十二両を寄進していたそうです。
 住職の長恩和尚は、傑僧と人が呼んだほど学識も豊かな人で、内匠頭をはじめとして浪士たちの自刃後の戒名は、すべてこの和尚が付けたものだといいます。≫

<続きを読む>

芝居・ドラマとしましたら、まさに名ゼリフ満載の名場面のところ。

ですが、これは現実にあったことで、墓前での浪士ご一同さんの心中を想うと

悲喜混合とはいえ、物凄い達成感であったろうと…。

ではまた、来週金曜日に。

2013年02月22日

『第二章 泉岳寺へ』  -四家へ御預け1-

【解説】
≪浪士たちが集まった部屋には火桶(ひおけ)が多く置かれ、温かな朝食の用意が揃えてあり、般若湯(はんにゃとう)も並んでいたのです。
 浪士たちにとって、これほどうまい食事は初めてだったかもしれません。

<続きを読む>

討入りで本懐を遂げたあと、こんな具合に時を過ごしたなんて…、と、

父の話か原稿かで初めて知ったときには驚きました…。

なお、本文中の「阿部飛騨守」の騨の字のツクリは略字表記になってしまいましたが、

本来はツカンムリでなく、口が横に二つ並んだカンムリの旧字体です。

ではまた、来週金曜日に。

2013年03月01日

『第二章 泉岳寺へ』  -四家へ御預け2-

【解説】
≪ 大石は、仙石伯耆守が千代田の城でどんな協議を進めているやらと思いながらも、別に気にとめる風もなく談笑して刻をすごしたのです。

<続きを読む>

御徒士目付(おかちめつけ)のような役職の人々にも、丁寧に頭を下げた内蔵之助。

大きな人物だったんでしょうね。

お預け先や、浪士一人一人のプロフィールは、著書本文を全部ご紹介した後に、

こちらにも掲載いたしますので、お楽しみに。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年03月08日

『第二章 泉岳寺へ』  -忠臣蔵こぼれ話 “エピソード”について1-

 有名な物語には必ず、実はこういう話もあったのだというエピソードがあって、それはそれでまた楽しいものです。忠臣蔵ほど多数のエピソードに飾られた物語はないでしょう。しかし、エピソードはやっぱり今一度、本当のことだったかどうかを考えないといけないのではないでしょうか。
 この引き揚げについて、エピソードは語ります。

<続きを読む>

“舟を利用するか”についての会話は、昨年12月28日に掲載した部分です。

この続きは、また来週金曜日に更新します。

2013年03月15日

『第二章 泉岳寺へ』  -忠臣蔵こぼれ話 “エピソード”について2-

 用意周到な大石なら、舟の手配が必要とあれば、少なくとも十日ほど前から手を打っておいたはずです。そして、もしそれが実行されたとしたら、どんな形の引き揚げ図ができたでしょうか。

<続きを読む>

そうです、三波春夫は実戦体験があったわけです。
その体験の内容は、過去ブログの「すべてを我が師をして」に詳細に書かれておりますので、まだお読みではない方は是非ご覧くださいね。

 “戦場では空腹、そして睡魔との闘いでもありました。とにかく眠かった。ホフク前進中、止まると皆寝ちゃうんですから。寝るな、って後の奴のヘルメットを蹴っ飛ばして起こしたりしてね…”と話しておりました。極限的に疲労すると睡魔に襲われるのだという、この経験からも本日の本文にある“居眠り”という想定をしたのでしょう。

 ではまた、来週金曜日に!

2013年03月22日

『第三章 内匠頭と上野介』  -現代日本人が失ったもの1-

【解説】
≪ 私は忠臣蔵物語を書くのに、こともあろうにラストの討ち入り場面から始めましたが、それには理由がありました。

<続きを読む>

“自らの在りようを問いかけ続ける精神力”とありますが、大事ですわ、コレ…と思います。

身内が言うとナンですが、父は、歌手として唄う場面であればお客様の反応で自分の藝の在りようを見つめたのは当然でしょうが、若い時分に先輩から“普段の姿が舞台に出るのだよ”と教えられたことを生涯守り(笑)、舞台に立っていない間の自分自身は、どこがまだ足りていないのか、まずいところがあるのかを見つめていた人でした。

「いつでも、人に笑顔を向けられる人間でありたい。人生、色々なことが起こるけれど感情を顔にさらけ出しているのではなく、笑顔で人に接することが出来るように…。そんな考えで書いた詩が、『俺は藤吉郎』という歌の冒頭、“いつもあたたかな心でいたい”でした」という文章が、後援会会報に残っていました。

父に限らず克己の努力の方々は沢山いらっしゃるわけですが、その頻度と持続、正邪の振り分けがカギです、よね。

ではまた、来週金曜日に!!

2013年03月29日

『第三章 内匠頭と上野介』  -現代日本人が失ったもの2-

【解説】
≪ さて、大石内蔵助が一年九ケ月の時間をかけて、四十六人の武士たちを一つにまとめて武力を行使したことは、赤穂の国の『国権を発動した』、つまり、自らの藩の主権を発動して主張をしたと言えます。

<続きを読む>

 詳しい説明は、まだ続きます。
 来週金曜日に更新いたします。

2013年04月05日

『第三章 内匠頭と上野介』  -現代日本人が失ったもの3-

【解説】
≪ 当時は、“罪三代・九族に及ぶ”という法律があったのです。

<続きを読む>

 公にモノを書くことは素晴らしいことであり、また、実力を測られるので頑張り処でもあり。
 で…、超・我田引水ですが、「お客様は神様です」という言葉の出自を意識の外に置いたまま、間違った意味のままで、御著書等に引用されていることをたまに拝見いたしますが。
 翻って私自身が肝に銘じますのは、何方かの言葉の引用をする際は意味するところを再確認しましょう、と…。
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年04月12日

 『第三章 内匠頭と上野介』  -現代日本人が失ったもの4-

【解説】
≪ 人の生き方としても美しいと感じるのは、大石内蔵助の訓令の門限にも見えますが、仇敵・吉良義央に対しても礼儀心を欠いていないことです。

<続きを読む>

人の生き方として美しい。高い志。…私も努力せねばっ、と…。
また来週金曜日に更新いたします。

明日は、
午前11時~ 文化放送 『団塊倶楽部』 生放送 
午後8時~  BS11 『三波春夫と昭和の時代』 再放送
お楽しみ頂けましたら幸いです。

2013年04月19日

『第三章 内匠頭と上野介』  -年頭勅使参向の儀式1-

【解説】
≪ 元禄十四年(一七0一年)三月十四日、現在の暦では四月二十一日、この日は朝からの曇り空で、春といえども肌寒い日でした。

<続きを読む>

いよいよ、始まりからの解説となりました。
来週も金曜日に更新です。

2013年04月26日

『第三章 内匠頭と上野介』  -年頭勅使参向の儀式2-

【解説】
≪ 綱吉の生母はお玉といって京都の八百屋の娘で、三代将軍・家光の側室。お万の方について江戸へ下りましたが、その愛らしいところを家光に気に入れられて側室となり、綱吉を生んだという経歴の人です。綱吉はこの母親に、最高の贈り物をして喜ばせてやりたいと考えました。

<続きを読む>

続きは、来週金曜日に更新いたします。

2013年05月03日

『第三章 内匠頭と上野介』-勅使餐応役の費用は当の大名持ちだった1-

【解説】
≪ 年頭拝賀の儀式において、勅使を接待するのが“勅使餐応役”です。通称・御馳走人とも呼ばれるほどで、勅使に対する数々の進物、料理、その他すべての経費を本人が負担するというのが慣例でしたから、その経済的な負担は大変なもの。

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晩年、永六輔氏と『遠くへ行きたい』のロケで赤穂市立海洋科学館にうかがって、「塩作り体験」をした三波。塩田に立って、ひしゃくに汲んだ海水をバラリと蒔く作業はけっこう難しくて、なかなかカッコ良く出来ずに大笑い。
その後、塩田で塩分濃度を高くした水を鍋で煮詰めて塩の結晶にするのですが、時折コショコショと鍋をかき混ぜて「エヘヘー」と微笑んで楽しみ、出来た塩をなめてみて「あ、塩だね」。そりゃ、そうです…。

ではまた来週、金曜日に更新します。

2013年05月10日

『第三章 内匠頭と上野介』-勅使餐応役の費用は当の大名持ちだった2-

【解説】
≪ そしてまた、不幸なことの一つに、内匠頭長矩は六年前に重い『疱瘡』を患い危篤状態が続いて、阿久利夫人をはじめ、近習の片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門たちの必死の看護によってようやく立ち直ったのですが、それ以来、躰は本調子ではなく、持病の『おこり』に苦しんでいたのです。

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では、続きはまた来週金曜日に。

2013年05月17日

『第三章 内匠頭と上野介』  -吉良上野介義央という人物1-

【解説】
≪ “自分は足利源氏の出自である”と常に自慢していた吉良上野介。確かに足利源氏の出自というのは武家の血筋として堂々たるものです。

<続きを読む>

続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年05月24日

『第三章 内匠頭と上野介』  -吉良上野介義央という人物2-

【解説】
≪ しかし、緻密なものだと感心するのは、人脈と閨閥の作り方です。

<続きを読む>

  文中の“柳営”とは、“将軍の陣営、幕府のこと”だそうです。
  次回も金曜日(31日)に更新いたしますが、その31日の午前9時~NHKBSプレミアムで、『昭和歌謡黄金時代 三波春夫と村田英雄』が放送されます。
ご好評のため、今回で7度目の放送となります。どうぞご覧ください。

2013年05月31日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家の財政事情1-

解説】
≪ 饗応役を引き受けた浅野家では、ある日、江戸家老の藤井又左衛門(八百石)と安井彦右衛門(六百五十石)の二人が揃って主君の前に両手を揃えて、

<続きを読む>

浅野家の、悪い流れの始まり、であります。
では続きは、来週金曜日に。

2013年06月07日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家の財政事情2-

【解説】
≪ 内匠頭はこのとき、二人の家老の口ごもりがちの経済事情を聞いているうちに、痞が起きてきたこを知り、キリリと痛む肉体の感覚と共に、答えをはき出しました。

<続きを読む>

では、この続きは来週金曜日に。

2013年06月14日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家の財政事情3-

【解説】
≪ 三方に載せられたかつお節一台と絹物数疋一台、黄金……なし。

<続きを読む>

ただの遺恨ではない、刃傷の理由。
詳細に後述いたしますので、引き続きお楽しみくださいませ。
また、来週金曜日に更新いたします。

2013年06月21日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下1-

【解説】
≪ さて、勅使一行は二月二十七日に京都を出発、途中悠々たる旅をつづけ、三月九日、川崎へ着いて一泊。江戸の品川宿へ入り三月十日には将軍家の使者を待つという態勢でした。

<続きを読む>

このような、浅野家側の混乱状況は、映画やドラマでもお馴染みのシーンです。
それを観て、浅野さん側にドドッと同情が寄せられるところでもありますよね。

次回はまた来週金曜日に更新です。

さて、明日からは『特別シネマ公演』の公開です。
本当に、“三波春夫のショーを生で観ている”気持ちになる迫力画面、良い音響…。

ぜひ、劇場でお楽しみください!!

2013年06月28日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下2-

【解説】
≪ 吉良の方は命令するほうだから気安く言っても、内匠頭にはことごとに役職を笠に着て威張り物申す人、と思ってしまう。

<続きを読む>

では、この続きはまた来週金曜日に。

2013年07月05日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下3-

 内匠頭、明け六ッ(午前六時)には登城して鳥帽子、大紋の正装。勅使御登城の儀を正式に係官に報告して溜りの間に戻り、本日の儀式変更の有無を聞こうと思い、吉良殿を探すが見当たらない。

<続きを読む>

次回はとうとう刃傷のくだりです。
来週金曜に更新いたします。

2013年07月12日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下4-

「梶川殿、この吉良を差し置いてそのような者に何の相談じゃ、田舎大名に何が分かるか!」
 
 この一言、内匠頭の胸にグサリと来た。
 
『人の前で田舎大名とぬかしたな!』

<続きを読む>

これぞ、松の廊下における殿中刃傷の場面。
この場面を唄う長編歌謡浪曲は、『あゝ松の廊下』です。あらためてどうぞお聴きになってみてください。「離してくだされ、梶川殿!…」と、浅野内匠頭のセリフを語る三波春夫。うまいです。身内が申しますが。


さて、14日から、第一興商さんのライブ映像カラオケ「まま音」で、三波春夫のライブから6曲がリリースされます。『元禄名槍譜 俵星玄蕃』もございますから、本人と一緒のイキで演じられますときっと上達なさることでしょう。


17日には、45曲、配信曲が追加され、新譜もリリース。『三波春夫 歌の金字塔』です。近々、サイトに詳細をアップします。お楽しみになさってください。


ではまた、来週金曜日に。

2013年07月19日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下5-

【解説】
≪ 梶川は、内匠頭のその言葉がなんとも言えぬ悲痛の叫びに聞こえました。

<続きを読む>

この続きは、来週金曜日に。

22日(月)NHKBSプレミアム 16時~17時38分
 『昭和歌謡黄金時代 三波春夫と村田英雄』を、どうぞご覧くださいませ。

2013年07月26日

『第三章 内匠頭と上野介』  -あゝ、松の廊下6-

【解説】
≪ 浅野はけちで、師直番のわしを馬鹿にしていて、挙げ句に刃傷の沙汰。自分は浅野に対して何も悪いことはしていないと思い込んでいますから。

<続きを読む>

この続きは、また来週金曜日に更新いたします。

2013年08月02日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家断絶・内匠頭切腹1-

【解説】
≪ 殿中刃傷事件はこのときが初めてでなく、徳川時代に前後九回ありました。その最大のものは、今の総理大臣というべき大老・堀田正俊が、若年寄役・稲葉正休に斬殺されたもの。勿論、斬った稲葉もその場で斬り殺されたのですが、七年前の貞享元年の出来事でした。

<続きを読む>

この続きはまた来週、金曜日に更新いたします。

2013年08月09日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家断絶・内匠頭切腹2-

【解説】
≪ やがて綱吉は爽やかに身支度を整え明るい顔で出てくる。柳沢は、平伏したままです。

<続きを読む>

本日のこの将軍・綱吉の裁断がポイントです。これを起点として、“赤穂浪士の討入り”への道が始まるのでした。
では、この続きは2週間後の金曜日に更新いたします。

2013年08月23日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家断絶・内匠頭切腹3-

【解説】
≪ たしかに多門たちの言う通り、吉良は刀こそ抜かなかったとはいえ、言葉の暴力を浅野に与えているのです。それもそうだと、土屋が出羽守に、徒士目付当番たちの意見として取り次いだところ、柳沢は言下に、


「ならぬ。なりませぬ。
 上様の御掟であるぞ」

<続きを読む>

この続きは、また来週金曜日に更新します。

2013年08月30日

『第三章 内匠頭と上野介』  -浅野家断絶・内匠頭切腹4-

【解説】
≪ 多門伝八郎の声は、あくまでも優しさに溢れていたのです。
 内匠頭は静かに歩を進めて駕籠に乗りました。

<続きを読む>

家来の気持ちはどんなだったろうと思うと切ないですねぇ。
このあとの話の展開は、更に切なさ満々になってゆくかと思われます。
では、来週金曜日にまた更新いたします。

2013年09月06日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ1-

【解説】
≪ 田村右京大夫建顕は奧州一関、三万石の城主でした。邸のあった所は、寛永三馬術の名人と謳われた曲垣平九郎が乗馬のまま、愛宕山神社の急な石段を、三代将軍・家光の御前において登り下りしたとして名を残した名所の近くにありました。

<続きを読む>

 続きはまた来週、金曜日に更新いたします。

2013年09月13日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ2-

【解説】
≪ しかし内匠頭が、その挨拶人に対して、

<続きを読む>

従容として、とは、動じることなく落ち着いたさま、と
いう意味だそうですが…。

最期の様子というのは切ないものですねぇ…。

溜め息をつきつつ読む(?)この章…、

続きは、また来週金曜日に更新いたします。

2013年09月20日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ3-

【解説】
≪ このとき、庄田下総守と田村右京大夫との間に一問一答があって、田村は室内切腹を言上すれば、庄田は庭前にて行うと下命して、結局は、事もあろうに出合いの間の庭前において切腹と場所が決まりました。

<続きを読む>

このような言動、その人物の容姿や評判は、資料に詳しく書かれて残っているんですよね。松の廊下の刃傷については「梶川氏筆記」他。(そう、あの『離してくだされ、梶川殿!』の梶川さんです)切腹前の様子については、田村家の「浅野長矩御預之節控」や「江赤見聞記」他、のようです。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年09月27日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ4-

【解説】
≪ その才気を長矩もよく知って、重く用いたと言うのですが、彼は主君の殿中刃傷を、誰よりも身近に理解していたのです。

<続きを読む>

・・・・いくら拭いてもこぼれる涙…。今回も、切ないですねぇ。

   この続きは、来週金曜日に更新いたします。

2013年10月04日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ5-

 内匠頭、白装束の麻裃に着替え終え、案内役につき従って座敷を出た。廊下を通り、出合の間、その庭前へと進みゆく。

<続きを読む>

この名場面、この内匠頭のセリフを、三波春夫が『大忠臣蔵』の中の
「花恨 田村邸」で演じています。どうぞお聴きくださいませ。
ではまた、この続きは来週金曜日に更新いたします。

2013年10月11日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ6-

【解説】
≪ やがて昏れ六ツ。
 内匠頭が切腹の座に着くと、田村家の中小姓・愛沢惣右衛門が小脇差を三方に乗せ、内匠頭の前へと置きました。そして硯筥をそっと側近くに押しやりました。

<続きを読む>

とうとう、ご切腹…。
この場面も、『大忠臣蔵』の「花恨 田村邸」という曲で、
琵琶を伴奏として三波春夫がドラマチックに語っています。
お楽しみください!
ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年10月18日

『第三章 内匠頭と上野介』  -花恨・田村邸の別れ7-

【解説】
≪ 階級社会の悲喜劇とばかりは言えない。現在も日本の政治家は天皇を最大限に利用して、いや甘えていませんか。戦後作られたマッカーサー憲法の第一条から八条まで天皇と皇室のことを明記したことは、マッカーサー自身が天皇の歴史的価値を充分理解していたからだったと思います。

<続きを読む>

生涯を通じて「忠臣蔵」と向き合っていたと言っても過言ではない三波は、この本の中に長年の研究からの論説を沢山書き表しました。
しかし、文庫本一冊の中には書ききれていない、納まりきれなかったこともまだまだあったのではないかと思います…。
ではこの続きはまた、来週金曜日に。

2013年10月25日

『第三章 内匠頭と上野介』  -不思議な元禄時代1-

【解説】
≪ 『元禄』という言葉は昭和の時代になって繁栄の代名詞ともなりましたが、経済の活況は人間の心に新しい夢を呼ぶのでしょうか。

<続きを読む>

元禄時代についての考察、の前編です。
次回は井原西鶴の言葉から。
来週金曜日に更新いたします。

2013年11月01日

『第三章 内匠頭と上野介』  -不思議な元禄時代2-

【解説】
≪ 例えば『三井(越後屋)商法は、実におもしろいやり方だ。一文の値引きなしの正札で、商いを貫いているが大した人気である。“もしも三寸四角のビロードをお客様が欲しいとおっしゃるなら、その通りに切り売り仕ります”という』

<続きを読む>

 では、この続きは来週金曜日に。

2013年11月08日

『第四章 大石内蔵助』  -早駕籠は飛ぶ1-

【解説】
≪ 第一の使者は、早水藤左衛門と萱野三平の二人。前述しましたように、三月十八日の夜、赤穂へ着き、“殿中刃傷の事件”を知らせました。

<続きを読む>

比率を決めて“藩札”の処理作業を、ということは、藩が取り潰しになることを意味していました。


後半にある、“普段から駕籠屋さんに良くしていたから、一生懸命に動いてくれた”ということですが、いつの時代でも人の世は同じですね。
今、自分が働けること、暮らしていけることは、周囲のお陰様なのだ、と、忘れてはならないことなのですよね。
お・か・げ・さ・ま!(笑)で、参りましょう。


12日夜、NHK「歌謡コンサート」の中で放送される三波春夫の『東京五輪音頭』歌唱の過去映像を、どうぞご覧ください。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年11月15日

『第四章 大石内蔵助』  -早駕籠は飛ぶ2-

≪ 専門家の人足たちが走るのはいいとしても、使者として乗っていた武士たちは死に物狂いだったでしょう。

<続きを読む>


早駕籠に揺られて…、の状態では、私だったら生きて
赤穂まで辿り着かないのではないかと思ってしまいます。
到着したら、「“点滴”で栄養補給しよう!」とかはないですしね…。
第一の使者二人のうち、早水藤左衛門は、元気よく(?)討入りにも
加わったのですから、強い一念ですね。当時は40歳手前、だったようです。

次回からはいよいよ、「大石内蔵之助」が語られて参ります。
ではまた、来週金曜日に。

2013年11月22日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は1-

【解説】
≪ さて、通常、ドラマや浪曲では、“城代家老大石”と言っている場合が多いのですが、これは間違いです。『浅野家分限帳』を見ると、

<続きを読む>

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年11月29日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は2-

【解説】
≪ 大切なことは城下の人々の所持する藩札の比率。その当時の断絶、改易した各藩の状況をみると、良い藩で五割。普通は二割、悪ければ一割または踏み倒しです。

<続きを読む>

この後の詳細は、また来週金曜日に!

2013年12月06日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は3-

【解説】
≪ ところで、藩札の交換資格のある人々は、城下の人々だけで、取引上、手形として所持していた他国の商人たちには資格はありませんでした。

<続きを読む>

「別段おもしろくもないから書きません」は、三波らしくてちょっと笑えるところです。
本にせよ、長編歌謡浪曲の歌詞にせよ、くだらぬ人間の話を膨らますことは無く。
また例えば、人間の業の深さを書くのではなく、良心の気高さを描いて清清しさをお伝えして、皆様の明日の元気の素になりますようにと。そういう作家でありました。
ではこの続きはまた、来週金曜日に。

2013年12月13日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は4-

【解説】
≪ 『南部坂・雪の別れ』として有名な場面は、実際には一年早い元禄十四年十一月十四日のことで、内蔵助と未亡人瑶泉院(阿久利)との面会はこれが最後でした。

<続きを読む>

“時は元禄十五年”からは、三波春夫の浪曲『南部坂雪の別れ』の
歌詞を綴ってまいります。今回から数回にわたって掲載いたします。
この浪曲も、先月27日からiTunes等で配信となった『大忠臣蔵』に
ございますので、どうぞダウンロードしてお聴き下さい。

で、お聴きになるときに“爪掛けなしたる高足駄”のところ、ちょっとお耳を
すませてくださいますか?
「雪が降っているので内蔵之助は爪皮(つまがけ)を付けた高下駄を履いている」
様子を語る、このあたりのフレーズですが、意味を知らないでボーッと聴くと、
「妻が、ケナしたる高足駄」に聞こえます。笑。
『奥さんに、「趣味が悪いわね」とかってケナされた下駄なんだわ』と、私は何度か
父に冗談を言ったものでした。
真剣にこの浪曲を語っているときに本人は、そんなことはミジンも頭をよぎらないわけですが、
ハハハと納得して笑っておりました。

では、この続きは来週金曜日に。

2013年12月20日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は5-

【解説】
≪ 戸田の局がお出迎え
  いそいそと先に立つ
  通りてみれば正面に
  浅黄綸子のおしとねに
  白の綸子のお召物
  水晶の念珠つまぐりて
  この世を思い切り髪の
  花も哀れや 瑶泉院
  なつかしそうに大石を
  見つめてほほえむ労わしさ

<続きを読む>

 これは浪曲の台本ですので、演者である三波春夫は“前段のフシを歌い語り”、“内蔵之助のセリフを演じ”、“瑶泉院のセリフも演じ”ます。


 登場人物がいろいろ出てきても、落語と同じように浪曲も、瞬時にその人物になってセリフを言うのです。レコーディングの時も、人物によって別録りをしていることはないのであります。


“美しき瑶泉院”を三波がどう演じておりますか…。お聴きになりたい方は『大忠臣蔵』をお買い上げ、または配信でご購入のうえ、じっくりお楽しみくださいませ。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2013年12月27日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は6-

【解説】
≪ お側離れぬ局には
  心のうちは よう分かる
  あれやこれやと数多の女中に指図して
  俄に運ばす 酒下物
  瑶泉院は御自ら
  白き御手を差し延べて
  ついで下さる酒の味
  涙と共に呑み干して
  これ主従別れの盃かと
  口にゃ出さねど胸のうち
  実は今宵の討ち入りを
  お話し申し上げようと
  秘かに思い来たなれど
  最前よりも一人の女中
  その瞳の動き 只ならず
  敵の間者に違いなし
  無念なれども是非もなや
  うかと 大事は明かされぬ

<続きを読む>

亡き殿様の奥方に、本来ならば、「とうとう、仇討ち実施の日が決まりました!」と打明けて、「行ってくれるのか!」と涙で喜ばれたのだった、となるはずが、吉良サイドが送り込んでいたスパイの女が女中としてソコに居たので嘘を並べた内蔵之助でありました、というシーン。
この名場面の続きは、年を越して1月10日に掲載いたします。

本年もお世話様になりまして、まことにありがとうございました。
良いお年をお迎えくださいませ。
来年も、よろしくお願い致します。

2014年01月10日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は7-

≪ 意外の言葉に瑶泉院
  只 内蔵助を見つめるばかり

<続きを読む>

初春のお慶びを申し上げます。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。

さて、この本文は以前からご説明しておりますとおり浪曲の台本です。
今回の掲載の箇所は、浪曲では“愁嘆ぶし”といい、切々、または陰々とした内容等を声を張り上げず、明るくないフシで歌い語るところで、いわば、演者の力量が判るところ。
名優のごとき間合いで語れているか、お客様が唸るような良いフシを聴かせているか、妙味を楽しむところであります。
では、三波春夫はココをどのようなフシで語ったのでしょうかー!(笑!)
『大忠臣蔵』の中の「南部坂 雪の別れ」でお聴きください。
iTunesでのご購入も、是非!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年01月17日

『第四章 大石内蔵助』  -浅野藩・藩札の交換比率は8-

【解説】
≪ 瑶泉院はたまりかね
  内匠頭の仏壇に
  向かって忍び泣く様子
  余りのなげきに内蔵助
  胸も裂かれる想いして
  いっそ真実を語ろうか

<続きを読む>

“中は見ずとも読み取れた”その中身は、ご存知のとおり、仇討ちに参加する浪士全員の連判状だったわけですね。
万感の思いと共に、雪の南部坂を下る内蔵助…。
三波春夫のこの浪曲の大団円もまた、CDや配信でどうぞお聴きくださいませ。

次回は、赤穂城明け渡しの状況、です。

2014年01月24日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂城明け渡し1-

【解説】
≪ 幕府は浅野家断絶を命令した後、すぐに各地の浅野家に対して、赤穂藩士が暴動を起こさぬように取り締まるべく言い渡しました。

<続きを読む>

様々な事情で“突然、今住んでいる家に居られなくなった”はいつの時代も起こるわけですね。
これから先、この本に展開される「忠臣蔵」の人たちの生き方をどうぞ見つめてくださいませ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年01月31日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂城明け渡し2-

【解説】
≪ このころ、夫人・阿久利は武家の女としての決心も固く、即日髪を下ろして瑶泉院と名乗り、南部坂の実家、三次の浅野式部少輔の邸へ向かいました。年齢はこのとき二十八歳。

<続きを読む>

刃傷事件から約一ヶ月後には城を明け渡せ、というわけですねぇ。
では、続きはまた来週金曜日に。

2014年02月07日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂城明け渡し3-

【解説】
≪ 当時、百石に付き、戦闘のできる武士は十名と定められておりましたから、このときは両大名を合わせて五千名以上の武士たちが武装を整えて出陣。浅野藩士の暴発を抑えにかかったのです。

<続きを読む>

長広という人は、兄・内匠頭が刃傷事件を起こしたとき、すぐに木挽町の屋敷から鉄砲洲の浅野家上屋敷に駆け付けて、義姉・阿久利夫人に、事件発生と、家来たちが反射的に何事かを起こさぬようにと告げたそうです。そこで夫人が長広に、吉良上野介の生死を尋ねたところ、把握していなかったため、“あなたは弟なのに、命がけで兄さんが斬り付けた相手の生死も確認せず、「お目付役から言われたとおり、騒ぎをおこさないで静かにしてましょうね」ってことだけ言って、どういうことですか!”みたいなことを言われて叱られたことがあったそうです。阿久利は突然の事件直後であっても気丈に屋敷の引き払いの陣頭指揮をとり、早々と自らの懐剣で髪も下ろし、と、頑張った人だったようです。
父から聞いた話のご紹介でした。
では、この続きはまた来週金曜日に。

2014年02月14日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂の大砲事件1-

【解説】
≪ 城明け渡しの期日が迫ったこのころ、若い家臣三人が顔色を変えて、内蔵助の元へ駆け込んできました。

<続きを読む>

突然出て来た「萩原兄弟」や「大砲」については、この後に解説がなされて参りますので、また続けてお読みくださいませ。
家においても会社でも、コトが起こって大変なときに、本来なすべき事からはずれて私利私欲に走る者、混乱のうちに仲間同士を揉ませてしまうモマシ屋の出現など、本当に人間というものは種種雑多なのだなぁ、いつの時代も…と、思うようなお話です。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年02月21日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂の大砲事件2-

【解説】
≪ その日から数えて八年前の元禄六年十月。

<続きを読む>

三波春夫がペンネームの北村桃児として作詞した長編歌謡浪曲『赤穂城の内蔵助』という作品。その中に大石内蔵助の長いセリフがあるのですが、この松山藩のように徳川幕府が取り潰した実績について、内蔵助が語る趣向になっています。
それによりますと、5代将軍・綱吉の時代がスタートしてから赤穂藩が取り潰し命令を受けるまでの期間で、取り潰しや改易となった藩は大小48で、271万4千石が幕府に取り上げられ、3万人以上の浪人を生んだ、とあります。
藩の名を読み上げながら、内蔵助は腹の底から怒っているのです。
三波春夫扮する内蔵助のこの場面を、どうぞCDや配信でお聴き下さい!
ではまた、来週金曜日に。

2014年02月28日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂の大砲事件3-

【解説】
≪ その中に、萩原兵助は百五十石の鑓奉行。弟の儀佐衛門(百石)はその配下として、隊列に加わって行進しましたが、誰が見ても驚くのは萩原兄弟の私物ながら三門の大砲がこれを見よとばかり、威風辺りを払う如くに引かれ、まさしく隊列の要であることでした。

<続きを読む>

 大きな試練を迎えた時に、何を考え、どう動くか。
その思考と行動は、その人のそれまでの生き方、人生の学び方が出るところですね。

 日々是修業と心得ます。

 ではまた、来週金曜日に。

2014年03月07日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂の大砲事件4-

【解説】
≪ しかし、売った先がやっぱりこの場合は大問題。脇坂側もこの場合だから買ったわけですが、そこの微妙なところはさすがの大石は心得ておりました。

<続きを読む>

内蔵助という人の大きさは、「忠臣蔵」の魅力の一つとして光りますね。

さて、本日7日から、タワーレコードで限定盤CD『三波春夫 世界の国からこんにちはep』が発売となりました。
また、“三波春夫の初Tシャツ”が、オンラインショップで発売開始。実店舗では渋谷店、新宿店、梅田大阪マルビル店、タワーミニ東京八重洲口店、新潟店で販売されています。
そして、本日15時から、イオンシネマ新潟南で『三波春夫 歌藝~終り無きわが歌の道』が上映されます。
お出かけ、お買い上げ、是非よろしくお願いいたします。

ではまた来週金曜日に更新いたします。

2014年03月14日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂の大砲事件5-

【解説】
≪ 想像、推理の世界ですが、荻原兄弟は親代々金持ちだったし、勿論、連判状には名を記しておりませんが、殺されたという記録もないようです。これは忠臣蔵の裏話ですね。

<続きを読む>

 父のメモから拾いますと、赤穂藩は製塩業が主たる収入元で、5,000石の塩を産出していたそうです。


 藩が取りつぶしとなった時に、藩士への支払い、貸付金の回収や棒引きなど、もろもろを全部完了したら697両余が残ったと、昨年11月29日の本文にもありましたが、これをお家再興の
 資金にしようとしたら再興プランはNGとなり、結果、討入り用の資金に充てられたということでした。
 約650日の間、討入りを目指す人々を支えたお金にもなったわけですが、別にも、用立てられた道筋はあったでしょう、これまでのご恩返しの気持ちです、とか色々と、ということであります。


 では、来週金曜日に更新いたします。

2014年03月21日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂城の大石内蔵助1-

【解説】
≪ さて、赤穂城明け渡し当日。四月十九日早朝六時。

<続きを読む>

“おのれ!今にみろ!これが正しい日本の相(すがた)ではないのだぞ”。
三波の創作の、内蔵助の心の叫びの言葉です。
このような内蔵助の思いがあって、ここから、政道に批判の一矢を報いることでもある「討入り」に成就してゆくのだ、という三波論であります。

ではこの続きは来週金曜日に更新いたします。
今夜は、19時~TBS「爆報!THEフライデー」をご覧くださいませ。

2014年03月28日

『第四章 大石内蔵助』  -赤穂城の大石内蔵助2-

【解説】
≪ たとえ五万三千石が五千石に減らされても面目が立つなら、という大石の頼みの心底には、

<続きを読む>

「ほんとに、致しますね」と返事をしてしまいそうです。笑。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。
よろしくお願いいたします。

2014年04月04日

『第四章 大石内蔵助』  -元禄の繁栄を築いた河村瑞賢1-

【解説】
≪ 元禄の繁栄を作った河村瑞賢。この人物を私は、歌舞伎座などで花登筺氏作の「海を拓く男」という芝居で演じたことがあります。

<続きを読む>

ではまた、来週金曜日に更新いたします。
お楽しみに。

2014年04月11日

『第四章 大石内蔵助』  -元禄の繁栄を築いた河村瑞賢2-

【解説】
≪ 勿論、幕府からの要請で行ったのですが、このころの瑞賢は今で言うゼネコンで、材木商の巨商として江戸一の大富豪でした。

<続きを読む>

昭和61(1986)年の初夏、NHK「ひるのプレゼント」で“北前船の航路を、南から北へ追いかける5日間”という企画があり、三波春夫と私が父娘で一緒に各地をロケして廻り、レポートをしました。その折に本文にある“酒田の日和山”を訪れたのですが、天気が良い日で、海が良く見渡せる清々しい場所だったことを思い出します。この番組でのロケの旅は、歌の公演の仕事と一味違い、歴史・風土を見聞するもの。父にとっては興味津津の嬉しい日々で、いつもの笑顔がより、弾けっぱなしでありました。このときのレポーター・三波の“日本語の喋り方”と言いますか、話し方が丁寧で、明るい音調で、綺麗な言葉であったことを今、思い返し、私も普段からそうあらねば、と感じました…。
では来週また金曜日に更新いたします。

2014年04月18日

『第四章 大石内蔵助』  -元禄の繁栄を築いた河村瑞賢3-

【解説】
≪ 寛文八年(一六六八年)に東廻り、寛文十二年(一六七二年)には西廻りの航路を完成したのですが、これは元禄元年より二十年前でした。

<続きを読む>

 北村桃児(三波春夫のペンネーム)作詞・浜圭介氏作曲の『あゝ北前船』という歌。これは前回お話ししたNHK「ひるのプレゼント」の“北前船紀行”から生まれました。“高田屋嘉兵衛”さんも“西廻り・東廻り”も歌詞にあり、雄大で力のある歌ですから聴くと元気が出ますよ!(笑) ステージで歌唱する姿は、DVD『歌藝 芸能生活五十五周年リサイタル』に収録されています。また、今月29日18時~ CS「歌謡ポップスチャンネル」の『歌藝~三波春夫リサイタル~』でもご覧になれます!
ではまた、来週金曜日に。

2014年04月25日

『第四章 大石内蔵助』  -元禄の繁栄を築いた河村瑞賢4-

【解説】
≪ 瑞賢はその後、新潟県の上田銀山、福島県にまたがる白峯銀山の開発を手掛けました。これらも幕府の要請ですが、何という博識の人でしょうか。

<続きを読む>

次回はまた、来週金曜日に更新いたします。
29日は、18時~19時30分 
CS“歌謡ポップスチャンネル” 『歌藝 三波春夫リサイタル』を
是非ごらんください!

2014年05月02日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -地方政権の想い1-

【解説】
≪ この時代と現代は、やはり似ておりますね。

<続きを読む>

三波春夫さん、しっかりと批判しております!笑。
では、この続きは来週金曜日 に。

2014年05月09日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -地方政権の想い2-

【解説】
≪ こうした事例は地方の行政を担当する首長、局長らにとって頭痛の種でしょう。だからこそ真剣に、国の行政区分を変えようではないか、一国二制度というのではなく、全国を八つくらいの道州制として、地方の実情に合った行政をやらせてほしいと訴える人も多いのです。

<続きを読む>

道州制について少々書いています。
賛否有るところは承知のことだったと思います。
それにしましても歌手という仕事は地方によく伺い、土地ごとの景気や人々の気分とも密接です。三波春夫も東京に住まいはありましたが、地方の方々とともに人生を歩んでいたと言えるでしょう。マネージャー時代に一緒に旅をした車中で、「この街道の桜の、今年の色あい」 「この川の、この夏の水量」 と、長年にわたって訪れている場所を見つめながら話をするのをいつも聴きました。首都の真ん中へんで机の前にチンと座る人よりも、特定の区割だけを握手しながらマメに廻る人よりも、日本国中の顔色を観て過ごしていたのでありました…。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年05月16日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -浅野長直という名政治家-

【解説】
≪ 浅野長直は、赤穂の初代藩主で、官位は内匠頭。忠臣蔵に登場する長矩の祖父に当たります。

<続きを読む>

“赤穂・浅野家”の説明に入りました。
三波春夫は、「長編歌謡浪曲」をただ熱演していた男にあらず、と言うところでしょうか。
その主人公、その事件の、歴史的背景も人物像もその人々の心持ちも、すべて腹に入っていなければ聴き手を得心させる藝にはならないのだ、と。勉強、研究、創造、の人でありました。

まだまだ説明は続きます。
また来週金曜日に更新いたします。

2014年05月23日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -江戸湾の汚染が大問題1-

【解説】
≪ 徳川家康が秀吉の命を受けて、関東地方の開拓に乗り込んだのは天正十八年(一五九〇年)。信長が本能寺で殺された八年後のこと。その中心となったのが江戸城です。

<続きを読む>

復習しますと、「浅野長直」は刃傷事件を起こした浅野長矩のお祖父さん、
赤穂浅野家の初代でした、ね。
藩主として大変に活躍されたあと、63歳で江戸で亡くなったようですが、
“赤穂塩”を確立させた人だそうです。
本日は江戸の始まりの話でしたが、これから幕府と浅野家と塩の話になります。

続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年05月30日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -江戸湾の汚染が大問題2-

【解説】
≪ 長直は常陸笠間で五万三千五百石の大名ですが、父・長重の代から塩作りにかけてはオーソリティーでした。

<続きを読む>

儒者、兵学者の山鹿素行については、後日、後述部分をご紹介いたします。
会津生まれで江戸育ち。教えを願った人の数は三千人ともいわれる人物だそうです。
赤穂に移住したのちに、大石内蔵助も8歳から16,7歳まで師事しました。

ではまたこの続きは来週金曜日に。

2014年06月06日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -塩の歴史を辿ってみると1-

【解説】
≪ 人間にとって塩は欠くべからざる必需品で、給料を塩で支払ったという外国の古代の習慣があり、塩をサラリーと言ったことがサラリーマンの語源なのはご存じの通りです。

<続きを読む>

本日分は、塩分濃度の高い話でした。
話だけにして、塩の摂りすぎには気をつけましょう!!ね。(笑)
この続きは来週金曜日に更新いたします。

明日は、スカパー!『時代劇専門チャンネル』 の 「オニワバン 桃太郎スペシャル」にて
「桃太郎侍」の再放送スタート記念として、高橋英樹さんが出演。
三波春夫との思い出を語って下さいます。

詳細はコチラです。
http://www.jidaigeki.com/program/detail/jd11000684_0001.html
ご覧頂けましたら幸いです!!

2014年06月13日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -塩の歴史を辿ってみると2-

【解説】
≪ 宮城県には塩竈神社というお社がありますが、文字通りこの地では塩を竈で煮詰めて作っていたわけです。始まったのは建久二年(一一九一年)のようですが、意外にも江戸時代の仙台藩の生産高は十万石でした。

<続きを読む>

この続きは、また来週金曜日に更新いたします。

明日14日20時~21時30分 CS歌謡ポップスチャンネルにて
『歌藝 ~三波春夫リサイタル~』が再放送となります。
ぜひ、ご覧ください!

2014年06月20日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -塩の歴史を辿ってみると3-

【解説】
≪ 山鹿素行のことは後で申し上げますが、軍学者という名前がつかなければ、学問所を開くことができない当時を思うにつけても、素行はまさに経世済民を目指した歴史学者でした。政治、経済に対して一つの学説を持った巨人でもあった証拠は、幕府から十年間も学問活動を禁止された時期があったことをみても分かります。

<続きを読む>

この時代に各戸配水、というのは、ビックリしますよね。
“歴史研究家・三波春夫”(笑)は、テレビ番組のロケで赤穂に参りました折、この水道のことを「樋は鋳物で出来ていたんだそうですよ」などと、滔々と語りながらご当地に残る資料を拝見したりして、とっても楽しそうでした。
歴史のこととなりますと水を得た魚状態で、元気にグングン泳ぐのなんの。
各所での雑談時間は予定をオーバーしますし、ロケバスの中でも話は続き、それが即、長編歌謡浪曲になりそうなメリハリある語りっぷりでございました。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年06月27日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -赤穂城に天守閣はなかった1-

【解説】
≪ 長直は、塩作りの大成功によって、赤穂城の天守閣を造るための資金、数十万両を貯えました。

<続きを読む>

歴史の、奥の方に存在する、真実の話。
はー、そうだったのか、と、人の生き方を学べる有難さ、でありますね。

では、また来週金曜日に更新いたします。

2014年07月04日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -山鹿素行の奥義書は大星伝1-

【解説】
≪ ”赤穂浪士は、赤穂藩の威信を懸けて仇討ちを行った”と私は書きましたが、長直の思想と山鹿素行の学問がそのバックボーンとなっていたからこそ、堂々と四十七士が団結して実力行使を天下に示したのです。

<続きを読む>

大学者・山鹿素行さん。

もし、私がこの方にお会いしても、天気の話で終わりそうですが、

ウチの父がもし、こういう人物にお会いしたら、常々の研究を基に

たくさんの質問をして、話が長ーく盛り上がるのだろうなー、と…。

歴史の話にハジケる父の傍らで、いつもそんなことを思っていました。笑。

ではまた来週金曜日に更新いたします。

2014年07月11日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -山鹿素行の奥義書は大星伝2-

【解説】
≪ 素行が江戸へ出たのが寛永四年(一六二七年)、六歳のときです。七歳まで林羅山(幕府学問所の大学頭)の門下生となりました。

<続きを読む>

三波春夫の著述には、歴史上の人物、すなわち先人に対しての丁寧なる研究と、そこで生まれた“感動”が見えるときがあります。本日分の文章の後半などは、“大活躍”という言葉が2度も出ますが、そういうところです。ホントに根が素直な人で(笑)、嘘がつけない人でしたから文章もそのとおりに…。ワクワクしながら研究した結果は、歌や長編歌謡浪曲にして皆様に知らせたい、聴いて楽しんでくださったらいいなー、と、さらにワクワクして作品を書いてフシを付けて唄った、わけです。ですから、「三波さん、仕事の中で一番好きなことは何ですか?」という取材記者の質問に、「レコーディングですね!!」と。“常に新しい歌を、新しい藝を”がモットーの父らしい答えでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年07月18日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -山鹿素行の奥義書は大星伝3-

【解説】
≪ 内匠頭長矩が八歳まで、内蔵助は八歳から十七歳まで、恐らく素行の学問を直かに習うことができたでしょう。なにしろ素行の住居は大石家の隣にあったのです。

<続きを読む>

たとえば、血が繋がる関係でなくても、
確かな学問、太く大きな教えは、
教わった人たちからそのまた先へと、遺ってゆくのですよ、ね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年07月25日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  -山鹿素行の奥義書は大星伝4-

【解説】
≪ 前記の『先代旧事本紀大成経』を素行が五十七歳の秋に一日にして書き写したものは、長崎県平戸市の山鹿家に現存するそうです。おそらく大成経の中の太子の五憲法を抜き出したのだと、私は独り決めしているのですが、違うかもしれません。

<続きを読む>

「碁盤太平記」は、“吉良邸討入り”から8年後の1710年に初演。

「仮名手本忠臣蔵」は、四十七士の中で最後に生き残っていた寺坂吉右衛門が亡くなった翌年の1748年に初演といわれます。


大石内蔵助を大星由良之助とした、その姓の「大星」とは太陽のこと、でしたね。

ではでは、お天道さまが見ててもOKの生き方をしながら(笑)日々を過ごしまして、また来週金曜日に更新いたします。

2014年08月01日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  ≪元禄こぼれ話≫  -金を生かす天才・紀伊国屋文左衛門1-

【解説】
≪ 紀伊国屋文左衛門。この人物も「でっかい男」というタイトルで、花登氏の脚本で上演しました。

<続きを読む>

大石内蔵助の話が続くかと思いきや、この本は時々「こぼれ話」が入りますので、本日は“紀伊国屋文左衛門”の話になりました。

  

紀文が嵐の中に船を出して、故郷のミカンを江戸へ運んだお話は、三波春夫の長編歌謡浪曲『豪商一代 紀伊国屋文左衛門』を聴いて頂くとあらすじがお解りいただけます。

三波の独特の浪曲のフシと、語りの歯切れよさ、日本語の美。

たくさん楽しめる8分58秒です。どうぞお聴きになってみて下さいませ。

しかし、カラオケで朗々と唄い演じるには、かなりの力量が必要な難曲です。

“俵星玄蕃”よりも大変かもしれません…。

   

ではまた来週金曜日に更新いたします。

2014年08月08日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  ≪元禄こぼれ話≫  -金を生かす天才・紀伊国屋文左衛門2-

【解説】
≪ 文左衛門は瑞賢の商法に学んで、通常は、決して値段は安くない売り方でしたが、ひとたびこれが大量注文のときには、びっくりするような価格で入札に参加したそうです。特に紀文が大儲けしたのは、五代綱吉による上野・東叡山寛永寺の根本中堂の建立に際しての落札。

<続きを読む>

紀伊国屋文左衛門を題材にした三波春夫の歌は、『長編歌謡浪曲 豪商一代 紀伊国屋文左衛門』のほかに『文左たから船』 『文左衛門の海』 があります。

紀文の太く大きな生き方と、三波春夫の明るく豊かな声質がマッチして、皆様に愛された歌となりました。
“ちょっと勇気が必要なとき”に、お聴きになってみてください。

効き目がある、と思います!(笑)

では、次回は22日金曜日に更新いたします。

2014年08月22日

『第五章 赤穂浪士の武士道』  ≪元禄こぼれ話≫  -金を生かす天才・紀伊国屋文左衛門3-

【解説】
≪ ここで余談をひとつ。宝永四年(一七〇七年)十一月の”富士山大爆発”は忠臣蔵仇討ちの五年後にあたりますが、このとき関東一円は降灰のために作物の被害が甚大。これを補助しようという計画を幕府が立てて、各藩から農家救済の名目で四十八万両を集めました。

<続きを読む>

本日分はエピソードが一杯です。
まさしく、歴史というのはナマ身の人間の生きた姿だらけ、です、ね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。
お暑い毎日、ご自愛くださいませ。

2014年08月29日

『第六章 臥薪嘗胆』  -内蔵助の二面作戦1-

【解説】
≪ 大石内蔵助はひとまず城を出て尾崎村へ引っ越し、やがて京都の山科へ元禄十四年六月二十八日から住むようにしました。親族の進藤源四郎(四百石)の家も近くにあり、大石家代々にとって何らかの縁がこの土地にあったようです。

<続きを読む>

これからは、討入りに向かっての動き、

それを取り巻く人々の模様が描かれて参ります!

また来週金曜日に更新いたします。

2014年09月05日

『第六章 臥薪嘗胆』  -内蔵助の二面作戦2-

【解説】
≪ 十一月三日には江戸へ下りました。大石はこのころから池田久右衛門という偽名を使って旅をしています。

<続きを読む>

本文中の、「千坂兵部」(チサカ ヒョウブ)という人。
家老として優れた人物であり、名を残しているので、
討入りのときには亡くなっているのに、忠臣蔵作品には
“出演”するのですよね。
 
三波春夫の作品としては、『長編歌謡浪曲 その夜の上杉綱憲』
に、千坂が登場します。12月14日の夜、赤穂浪士によって実父の
吉良上野介が討たれてしまうのを阻止しようと、軍勢を率いて急いで吉良邸に
駆け付けようとするのを、千坂が止める物語です。歌詞もフシも編曲も、傑作ランク
の作品ですので、ぜひぜひお聴きください。
 
ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年09月12日

『第六章 臥薪嘗胆』  -内蔵助の二面作戦3-

【解説】
≪ 江戸の同志たちは、大石の悠々たる行動に、どんな気持ちだったでしょうか。勿論、すべてを納得したわけではないが、上席家老として過ごして来た人物の持っている大きな心、大きな視野を、否が応にも悟らざるを得なかったのではないでしょうか。

<続きを読む>

内蔵助は11月23日に京都へ帰って行ってしまいましたねぇ。
 

(出発前の11月14日には、東京都港区赤坂の氷川辺りに住んでいた内匠頭の未亡人・瑶泉院を訪ねた、と前回の本文にありましたが、記録によると同じ日に、泉岳寺の内匠頭の墓に詣でたそうです。月命日でもあったからでしょうね。内蔵助は、この江戸滞在中は今の港区三田にあった前川忠大夫という後援者の家に宿泊していたようですから…帰りは、品川から“のぞみ”に乗りましたかねぇ…と、馬鹿な冗談は言わないようにしまして…)
 

このまま12月になって討入りの日になった、のではないのでした。春3月に“松の廊下の刃傷事件”があったこの年を、内蔵助以下浪士たちは様々な思いを胸にしながら、越してゆくのでありました。
 

では次回はまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年09月19日

『第六章 臥薪嘗胆』  -内蔵助の二面作戦4-

【解説】
≪ 幕府の首脳には色部又四郎に近い考えを持った人もいたと思われるし、この厄介な事件の主役の一人が江戸城の府内に住んでいることは、いかにも目障りという話となったかどうかは定かではありませんが、それより前の元禄十四年の八月十九日に、吉良は府外の本所へ屋敷替えを命じられていたのです。そこは昔、旗本で横紙破りと言われた近藤登之助の屋敷跡でした。

<続きを読む>

 吉良義央は、松の廊下の刃傷事件から12日後に願い出て、“引退”したんだそうです。このときの年齢は61歳。そして8月19日に、呉服橋に住んでいたものを本所松坂町に移転させられたのでした。
 三波春夫の『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』の啖呵--浪曲では、メロディーがある「節(フシ)」以外のところを啖呵といいます--に出て来る“白雪を蹴立てて、目指す、行く手は松坂町”の松坂町です。

 
 ついでに、と言いますか、ちなみにこの際、“俵星玄蕃”をカラオケでなさるときの“注意点”(笑)を、申し上げます!
 上記の「松坂町~!」とキメるところまでの沢山の啖呵の部分。ここはこの楽曲の肝心かなめですが、これらは速く言えればウマイのでは決してありません。早口言葉、ではないのですから。いかに、語ることが出来るか、がキモです。歌詞を読み込んで、何を説明しているのかを、まずご自分がよく理解なさってください。その上で、聴かせたい言葉をツブ立てることも意識しながら演じ、聴き手に情景やストーリーを理解して頂くことが大事です。それが出来ると、この啖呵の部分の面白さを演者も聴き手も楽しめて満足、ということになります。
 ぜひ、そのようなことをお考えになりながら、演じてみて頂けましたら有難く存じます。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年09月26日

『第六章 臥薪嘗胆』  -里けしき、廓の大石1-

【解説】
≪ 大石が遊び呆けたことは有名ですが、内蔵助は我が心を疑う如く心底から女色に溺れていきました。

<続きを読む>

萱野三平の俳号はケンセンと読みます。
 
 以前にも述べましたが、三波春夫が書いた『長編歌謡浪曲 赤穂城の内蔵助』に、

*当時、徳川5代将軍・綱吉の名のもとに、取り潰し・改易となった藩は大小48。

*その石高を合わせると、271万4,000石。

*3万有余人の浪人を新たに生んだ。

とあります。

3万人とは、ひどいですね
 
 浪人となった赤穂藩の人々は、究極の選択を迫られました。忠義心と自らの思いをもって、たとえその後に死が待っていても仇討ちをするのか、

ものすごい大恥を覚悟で「やんぴ!」と言って、道を外れても生きたいのか。

悩み苦しむ人々のリーダーだからこそか、内蔵助、いろいろありましたのですね。
 
 もし、父・三波春夫がこの時の内蔵助だったら…。酒タバコをせず、夜の街に縁を持たなかった人ですから、

さしずめ“ゴルフとビリヤードざんま~い”だったかと…。(笑)
 
 ではまた来週金曜日に更新いたします。

2014年10月03日

『第六章 臥薪嘗胆』  -里けしき、廓の大石2-

【解説】
≪ ある日の内蔵助の姿を、残された詩の中から描き出してみることに致します。≫

<続きを読む>

三波春夫が創作したドラマ。
大石内蔵助が京都の「一力茶屋」で遊んでいるところへ、息子の主税(チカラ)が“仇討ちの心を失ったのか”と抗議に来る場面です。

セリフの中に、史実に基づいた状況、心理が描かれますので、面白くお読み頂けましたら幸いです。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年10月10日

『第六章 臥薪嘗胆』  -里けしき、廓の大石3-

「え?」
 
「浮橋よ、人が来ぬか見張っていてくりゃれ・・・・・・。
 去年三月十四日松の廊下の御刃傷を知るや、父の心は吉良殿を討って亡君・長矩様の御無念を晴らすことを決心した。だがこれは容易ならぬ一大事。
 吉良殿の嫡男は出羽米沢十五万石、謙信公以来の名家を継いで、上杉弾正大弼綱憲となっておられる。大勢の付け人も派遣して警戒を厳重にしているそうな。
 それはさて、一年四ヶ月前の家臣たちは城を枕に討ち死にだやれ切腹だと、騒ぐもあれば大野九郎兵衛の如く逃げ出す者もいた。さればこそ士民安堵が第一と、城受け取りの使者・大目付荒木十左衛門に対して、大学様をもって御家再興の願いを御公儀に出したのじゃ」

<続きを読む>

 三波春夫は、舞台上で浪曲を語るだけの人ではなく、浪曲の台本を書く人でもありました。
 

 作品としては“時代物”を多く書きましたから、上記の内蔵助のセリフなどは得意とするところです。心をこめて歴史を研究した結果と、忠臣蔵・愛(!?)が、ギュギュッとセリフに込められているように思われます。
 
 父の研究メモを見てみますと、浅野大学長廣という人はお家再興不成立ののち、広島に送られました。綱吉将軍が没すると御赦免となって江戸に戻されて旗本の身分となり、松の廊下の事件から33年後、65歳で亡くなったそうです。この義理の弟・大学を叱った義姉の阿久里(のちの瑶泉院)は、それより20年前の1714年に41歳で他界したといわれており、ファミリー皆様、高輪・泉岳寺に葬られたそうです。
 

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年10月17日

『第六章 臥薪嘗胆』  -里けしき、廓の大石4-

 父親の心中にこれほど大きな苦しみがあったことを初めて知った主税は、涙の声で父に呼びかけました。

<続きを読む>

 翌年の春、16歳で切腹となる大石主税です。
 
 16歳ツナガリ、で、三波春夫の話、といたしましょう。
父は16歳で浪曲家としてデビュー、初舞台は東京・六本木の交差点からほど近いところにあった寄席でした。
 
 13歳からの米屋に始まり、製麺所、築地の魚河岸と住込み奉公を続け、最後の魚河岸時代に「日本浪曲学校」というところに入って大大大好きな浪曲の本格的な勉強を開始。声の良さと熱心さが買われて、程なくデビューとなったのでした。
 
 芸名は『南篠文若』。“なんじょう ふみわか”とよみますが、“じょう”の字はよく間違われますが、タケカンムリにシノです。
父の話はまた、折に触れ、いたします。
 
 ではまた、来週金曜日に更新します。

2014年10月24日

『第六章 臥薪嘗胆』  -京の円山会議-

【解説】
≪ そして七月二十八日、円山の安養寺に安兵衛をはじめ、間瀬久太夫、武林唯七、大石瀬左衛門ら、十七名を集めて、仇討ち決行の一大事を明確に告げました。

<続きを読む>

 寺坂吉右衛門は、身分は武士ではなく足軽。吉良邸討入りに、ホントに加わったのか?直前に逃亡したのではないか?と議論になることも多いですが、以前、父から説明して貰ったことがあります。
 
 カンタンに言いますと…、この寺坂サンは義士の一人、吉田忠左衛門の配下で、討入り準備の期間は吉田サンにずっとくっついて一生懸命に働いたそうです。そして討入りにも参加し、完了後、自分は他の義士とは違って藩主・浅野サンのためにというよりも、ずっと主人・吉田サンのために働いたのである。ちょっと私は志が違っているので恐縮であるし、足軽の身分の自分が武士の方々と一緒になって残るのは遠慮したいです、ということの了承を大石以下に得ていた。そして、討入りの様子を伝える役目を果たしたのだろう、と。
 
 父の分析はこのようなことだったと記憶しています。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年10月31日

『第六章 臥薪嘗胆』  -大石の東下り-

【解説】
≪ 十月七日に京都を出発して内蔵助は、九人の同志とともに、まず鎌倉へ着きました。この際、母の実家の従兄弟に当たる池田左兵衛兄弟に、二百両の借金をしていましたから、軍資金としてはまず大丈夫という計算だったようです。

<続きを読む>

 『歴史とは、どこを切っても人間の血が噴き出すもの』と、父が取材を受けた折によく語っていました。“ですから、歴史を学ぶとは年号を覚えるだけではなく、その人達の生きた姿からたくさん学んで、私たちがこの先を生きる指針にしなければ”と。ダメなことは真似しない、良いことは勉強させてもらって行動のヒントにしよう、と。そのために役に立つように、との思いも伴いつつ、数々の歴史物を書いて唄っておりました。
 
 歴史上の人物で好きだったのは勝海舟、織田信長、高田屋嘉兵衛…。こちらの方々の歌は制作・歌唱致しましたが、歴史的偉人とはいっても『歌にならない人物もあるものです』とも言っておりました。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年11月07日

『第六章 臥薪嘗胆』  -いよいよ討ち入り目前 1-

【解説】
≪ 十一月五日、江戸日本橋の旅館・小山屋へ入ったとき、大石は垣見五郎兵衛と名乗りました。

<続きを読む>

 後半は、だいぶ長い“内蔵助の心中の思い”の表現です。
 
 「忠臣蔵」の物語に親しんでいる方々にとっては、「あの人物や、この人物のことなんだな」と、基礎知識が有られると思いますので、“おー、そうなのか” “そうだったなぁ”と理解して頂き易いですが、初めての方々にはちょっとムズカシイでしょうか。三波春夫の思い入れがググッと入って、現代調の語り方でもあるので、突然『千米(千メートル)』って! 笑。
 
 という私も、“一年十ヶ月が、己が一生の長さにも匹敵”などと読むと、オヨヨと胸が震える思いが…。しょうがない父娘でござりまする。皆様の中にもきっと同じような方が…!?
 
 ではまた、この続きは来週金曜日に更新いたします。

2014年11月14日

『第六章 臥薪嘗胆』  -いよいよ討ち入り目前 2-

【解説】
≪『そうだ、それにしても神崎与五郎の働きは素晴らしいものだった。禄高はわずか五両三人扶持の新参者であったが、よくあれだけの才能を持っていたことよ。神崎だけが、吉良殿の面体を確かめているのだ』

<続きを読む>

駕籠から顔を覗かせた上野介!
その面体をシカと見とどけ、目に焼きつかせた神崎与五郎!
ドラマ、芝居だったら良い場面ですねぇ。
 

はい!この続きはまた来週金曜日に更新いたします。

2014年11月21日

『第六章 臥薪嘗胆』  -気まぐれ五代将軍-

【解説】
≪ 近代国家は厳然たる法治国家ですが、考えてみますと、そもそも徳川幕府は武をもって日本を治めようとしたのです。それに真正面から立ち向かったのが赤穂の浪士たちでした。

<続きを読む>

 では、来週もまた金曜日に更新いたします。
 

 次回からは、『俵星玄蕃と杉野十平次』の物語です。
俵星玄蕃って、どんな人だったの?が解ります。
お楽しみになさってください!

2014年11月28日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次1-

【解説】
≪ 私の十八番、長編歌謡浪曲の主人公・俵星玄蕃の初出は、文化二年(一八〇五年)に『江戸名釈看板 雪の曙 誉れの槍』という題名で語られています。浪曲では、名人と謳われた桃中軒雲右衛門が明治から大正時代にかけて口演していました。

<続きを読む>

 “俵星玄蕃”のお話が、いよいよ始まりました!
 Facebookには、俵星に扮した三波春夫の写真を掲載いたしますので、
ご覧ください。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年12月05日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次2-

【解説】
≪「こんばんは。お蕎麦とお酒をお持ち致しました」
「おお」

<続きを読む>

 またまた、父の研究メモからご紹介しますが、杉野サン自身の“禄”は少なかったのですが、家は裕福で、討入りまでの期間に生活に困った同志に、援助をしたのだそうです。1676年の生まれで、享年は28歳でした。
 
 この続きは、来週金曜日にアップいたします。

2014年12月12日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次3-

【解説】
≪ その夜はそのまま刻限がきて、玄蕃は道場を出て居室へ戻り、門弟たちもそれぞれ言葉を交わしながら散ってゆきました。

<続きを読む>

 文中に出て参りました、「俵くずし」。

 『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』の2コーラス目に、「今宵名残りに 見ておけよ 俵くずしの極意のひと手~」 と唄っていますが、この「俵くずし」のワザとはどういうものなのか!

 次回のお楽しみでございます。


 来週、また金曜日に更新いたします!

2014年12月19日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次4-

≪ 話に聞いてはいましたが、”俵崩しの極意”とはどんなものかは、実際には見せてもらったことがありません。今夜それを披露してくださるとはどういうことかと思いながらも、全員が雪崩れ込んで庭へ出ました。

<続きを読む>

 『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』で唄われた、「♪たわらくーずーしーの、ごくいーのひとーてー」の場面です。どんなものなのか、お解り頂けましたか?
 
 “裂帛(れっぱく)の気合をほとばしらせた俵星は、山の形に積み上げられた16俵の砂俵を、「1俵ずつ、槍で差しては後ろに投げ飛ばし」を、16回。終ったときには、俵星の後ろに、その16俵がピタリと積み上がっていました”というものです。

 
 三波春夫は、この歌詞のところで、“槍をグサリと差して、跳ね上げる”所作をしておりますので、DVDの映像等で注視なさってみてください。

 
 東京・歌舞伎座で上演した芝居の、三波春夫扮する俵星の「俵くずし」の場面の写真がございますので、のちほどfacebookにアップいたします。

 
 どうぞ、ご覧ください。
 
 ではこの続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2014年12月26日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次5-

【解説】
≪ すると、静かに俵星は月光の庭に槍の石突きを立てて、にこりと笑顔を見せ、そのまま無言で道場へ入ってゆくのです。門人たちもぞろぞろと道場に入りましたが、まだ興奮さめやらずという有り様でした。

<続きを読む>

 “道場が真っ暗だったー”というところで、本年のブログはおしまいです。
 続きは、来年1月9日にアップさせて頂きます。
 
 今年もお読み下さり、まことにありがとうございました。

 
 『三波春夫の笑顔の秘密』。

 
 その笑顔の根本は、どなたでも辛い事の方が多い“人生”に、せめて楽しみをお送りしたいという気持ちでした。
 それを成すために、いつもお客様に笑顔を向けられるように、自分の心を鍛えることを怠けない人でした。
 怠けないで、研究して、たくさんの歌や物語を書きました。
 それらの、心をこめて創った作品をご紹介するのが、このブログです。
 
 来年も、よろしくお願いいたします。
 どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

2015年01月09日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次6-

【解説】
≪ 胸騒ぎを覚えて入ろうとしたが、勝手口が開かない。玄蕃先生はどこへ行ってしまったのかと、一回りしても分からないので、ままよと塀を飛び越えて入ったら、中に人の気配がします。そこで勝手口の錠をはずし、外に置いた蕎麦荷から明かりを持って再び台所へ。
 そこに、玄蕃が座っていました。痩せこけて、頬骨高く、ひげは伸び放題、あまりの変わりように、

<続きを読む>

新年初のブログ更新です。
今年もお読み頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。


玄蕃と十平次が二人きりで会話している場面でした。
このあとも、物語は続いて参ります。
また来週金曜日に、更新いたします。

2015年01月16日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次7-

【解説】
≪「でも手伝いのお婆さんがいたではありませんか」

<続きを読む>

この吉田綾部という人は、ナニモノでしょうか…。
“玄蕃の光る瞳”は、“すべてを理解した”この玄蕃の心の内を示しているのです…。
 
お分かりになりましたか?
謎解きは次回、来週金曜日の更新にてお伝えいたします!

2015年01月23日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次8-

【解説】
≪「先生のお言葉はありがたく、帰りましたら主君をはじめ一同に・・・・・・。いや、藩士の者どもに必ず伝えるでござりましょう。
 本来なら持参した金子を持ち帰るは失礼でございますが、お言葉に従いまする。この清酒一樽だけはお召し上がりくださるようにお願い申し上げまする」

<続きを読む>

 前回から本日分にかけての「仕官話」の“謎解き”。
 もう、おわかりですね。
 
 “加賀・前田家の江戸家老 吉田織部”と名乗ったのは、実は赤穂浪士の一員だったわけです。原惣右衛門、という話もあります。 
 
 なぜ嘘の仕官話が仕立てられたのでしょうか?
 
 その元はもちろん、夜鳴き蕎麦屋・当り屋十助こと杉野十平次です。
 
 “玄蕃のところへ吉良家の家老が直々に訪れて、吉良家の付け人になってくれと頼みに来た”と聞き、大石内蔵助と相談して一計を案じました。そして、原惣右衛門あたりが加賀・前田家からの使者に扮して玄蕃宅を訪問。仕官するように求め、「3月14日に」と言うのです。勘の良い玄蕃はハッと気付いて、「承りました…」と胸に迫る思いとともに返事をし、帰る使者を「さすが、大石…」と見送りながら、「ああ、赤穂浪士の方々はご苦労をなさりながら、討入りの計画を進めておられるのだなぁ」と感涙しました、というお話でございました!
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年01月30日

『第七章 俵星玄蕃』  -俵星玄蕃と杉野十平次9-

【解説】
≪ 時に元禄十五年十二月十四日寅の上刻七ッ頃。
 江戸の夜風を震わせて、山鹿流儀の陣太鼓、その名も忠義堅川の流れに響いて勇ましや。一打ち二打ち三流れ、武士は寒夜に霜降る音にも目を覚ますとか。がば、とばかりに跳ね起きて、耳をすまして指を折る。

<続きを読む>

 “寅の上刻七ツ頃”とは、午前4時頃。山鹿流儀の陣太鼓は鳴らなかったようですが、討入り開始時刻はこの時間でよろしいようです。そして、本懐を遂げて吉良邸から引き揚げたのは、2時間後の午前6時過ぎ頃。
 
 するってぇと、俵星玄蕃は「赤穂浪士に邪魔する者は、絶対に通さないぞ」と、橋のたもとで1時間以上は仁王立ち。そして、夜明け間近の5時半~6時頃に夜空に響き渡った「エイエイオー」という義士達の勝ちどきを耳にして、ひとり、歓びの涙を流したのでしょうねぇ…。フィクションでも泣けてくる、ほんとうに『俵星玄蕃』は、良い話ですね!(笑)
 
 『真髄 三波忠臣蔵』における「討入りの場面」は、冒頭にありました。2012年10月5日の連載開始の次の回からとなりますので、読み返して頂きますと幸いです。
 
 最近、オトナの方々と、“若い世代に、「忠臣蔵」の話を知らない人達が増えた”という話になりました。

皆様のお力もお借りしながら、私、三波春夫の歌やこの本を通して“伝え残す”ことに一段と頑張りたいと思います!
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月06日

『第七章 俵星玄蕃』  -赤穂義士伝と浪曲1-

【解説】
≪ 芝居に始まり、講談、小説、映画、そして、浪花節も忠臣蔵ものを口演して大人気を博したのでした。

<続きを読む>

 浪曲の舞台の、“富士の形に広げて布が掛けられたテーブル台を前に演者が立って、その背には金屏風…。演者は黒紋付に仙台平の袴…”といった様式美は、桃中軒雲右門さんによって確立されたものです。
 文中にあるとおり、トウヤマ ミツル、ミヤザキ トウテンといったプロデューサーと共に、舞台の藝に生きた雲右衛門さん。その陰に、曲師として一緒にフシを完成させ、彼を支えた“お浜”さんという妻が居ました。師匠の奥様だった女性でしたから、曲師として三味線を演奏する際に、屏風を立てて姿が見えないようにしたことから、浪曲の舞台では曲師は“屏風の陰で弾く”というスタイルが定まったというお話があります。近年は、曲師さんの様子、そのバチさばきの素晴らしさも楽しみたい、というお客様の思いもあって、屏風が取り払われることも多いようです。
 
 三波春夫は、歌手が座長の芝居と歌の一ヶ月の大劇場公演を史上初として始めた人ですが、一番最初に上演した芝居は「桃中軒雲右衛門とその妻」というタイトルの、雲右衛門の半生を描いたものでした。
 以前にもこのブログでお伝えしたことがありますが、その主題歌だった『桃中軒雲右衛門とその妻』という歌に、「たとえ形は夫婦(めおと)で居ても 藝のためなら死ぬ覚悟 泣いて鬼にも仇(かたき)にも」という歌詞があります。夫婦が藝のために、火花を散らすように情熱をもって生きる姿、ですが、コレはまさに三波夫婦のことを書いたものでもありました。
 夫婦喧嘩といえば、すべて藝のことがモト。30代、40代の三波夫婦のお互い一歩も引かない舌戦を前に、子供の私は傍らで見てるだけで心臓バクバクだわ、自動的に涙は出るわ。しかし、そういう異常なる“熱”があってこそ、“三波春夫”が磨かれ、出来上がっていったのでありました。
 拙著「ゆく空に」に書いたことですが、“藝に終わり無し”の信念から、母はいついかなる時も父を褒めたことはなく。母が初めて“力一杯褒めた”のは、父が亡くなる2時間前のことでした…。
 
 では、来週また金曜日に更新いたします。

2015年02月13日

『第七章 俵星玄蕃』  -赤穂義士伝と浪曲2-

【解説】
≪ この雲右衛門に遅れじと、関西の吉田奈良丸が義士を語って好評を博し、この人の節を生かした『笹屋ぶし』という流行歌が大ヒットしたこともありました。

<続きを読む>

小学5年生のときに、いわゆる「学芸会」で朗読を披露したわけですね。
 
 昭和7年頃のことですから茶の間にテレビはありませんので、夜、針仕事をする母親(継母)に本を朗読して聴かせていたようです。そして、聴いている母親の表情を見ながら「そうか、こういう所で力を入れて読むとウケるのか」などと工夫していたと言っていました。
 
 テレビもゲームもケータイもパソコンも無い夜…、そこに育つ人の心は、豊かでありましょうか…。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月20日

『第八章 討ち入りの顛末』  -国宝に従った浪士たち-

【解説】
≪ さて、本書の初めに書いたように、吉良邸討ち入りは見事本懐を遂げて、高輪・泉岳寺へ引き揚げました。

<続きを読む>

 父から聞いた話ですが、“大名家にお預けとなる”というのは、大名や旗本と同格の扱いなのだそうです。
 
 幕府が浪士の義挙に感じ入り、気遣いをした上での裁断だったようです。
 
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年02月27日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛1-

【解説】
≪ 松平隠岐守定直に預けられた大石主税は、父を想い母を恋い慕って、夜ともなれば人知れず涙を拭いたことでしょう。年が十六歳と記録にあります。
 父と子を別家に預けた大目付の計らいもよく分かりますが、あの堀部安兵衛と一緒にいたことが、主税にとっては嬉しいことであったと思います。安兵衛こそ、討ち入りに関してとても大きな精神的働きをしています。
 ある一日を私は想定して、次の一節を書いてみました。≫

<続きを読む>

 私は、コドモの頃、『高田の馬場の決斗』の堀部安兵衛イコール赤穂浪士の一人、だったことに「へぇー」っと ビックリしました。が、・・・イマドキの方々は、高田の馬場の決斗とは何ぞや?でしょうね。
その“決斗”の経緯と状況は、次回にございます。
 
 ではまた、来週金曜日の更新、どうぞチェックしてくださいますように・・・。

2015年03月06日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛2-

決斗 高田の馬場



江戸は夕焼け 灯ともし頃に 夢を求めて みなし子が 国の越後の 空を見る 顔も赤鞘 安兵衛が 何時か覚えた 酒の味

<続きを読む>

“堀部安兵衛の、高田の馬場での決斗”の顛末を、詩に書いたもの。 これを三波春夫が唄ったものが『長編歌謡浪曲 元禄桜吹雪 決斗高田馬場』です。

 

 三波春夫が書いた楽曲は、「歌で憶える日本の歴史物語」として役立つものもいろいろとございます。

 

 2時間25分の組曲アルバム『平家物語』も源平の歴史がかなり詳しく解りますし、長編歌謡浪曲では『天竜二俣城』『奥州の風雲児 伊達政宗』『豪商一 代 紀伊国屋文左衛門』『勝海舟』などなど沢山。『瞼の母』をはじめとする長谷川伸シリーズも、大作家の物語を味わうのに最適。

 

 日本人の心の良さを、歌で堪能頂けましたら幸いです。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月13日

『第八章 討ち入りの顛末』  -松平邸の大石主税と堀部安兵衛3-

「なるほどなあ、主税も見とうござりました。
 しかし結局、菅野殿は果たし合いに勝った後、自害なされたのですね」

「はい、深傷を負っておりましたので、叔父はにっこり笑って死んで行きました」

<続きを読む>

 「上締めに鎖を入れること」とありますが、このような武装の工夫は、2012年10月26日分に詳しく書かれております。ご再読いただけましたら幸いです。
 主税と安兵衛。切腹の日が間近なことを覚悟しながら居る二人の会話を、三波春夫が書きました。
 これを読みながら私が思うことですが、父は陸軍歩兵として戦場を駆け巡った経験をし「覚悟」を持ったことがあるからこそ書ける言葉があったのではないか、と。
 『平家物語』や戦国時代を描いた“長編歌謡浪曲”の作詞にもそのような箇所がありますが、ちょっとダイレクトな表現としては例えば「靖国の母」という歌は、戦争で息子を亡くす母親をこののち絶対に生み出すことは無いようにと願いをこめた詩、なのだと思います。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月20日

『第八章 討ち入りの顛末』  -大石夫人・理玖と、嗣子・代三郎について-

【解説】
≪ 浪士たちの最期を語る前に、大石内蔵助の妻・理玖と長男・主税を除いた子供たちのその後について触れておきましょう。

<続きを読む>

 内蔵之助の妻・大石理玖(りく)を主人公にした三波春夫の長編歌謡浪曲があります。タイトルは、「長編歌謡浪曲 赤穂の妻」。“山科の別れ”というサブタイトルが付いています。
 そのストーリーは、「秘密裡に主君の仇討ち計画を進め、実行後のわが身は天下に知られる罪人になることを見据えた内蔵之助は、万感の思いをこめた言葉を伝えて理玖を離縁します。そして、身重の理玖が幼い子供たちを連れて山科の実家に帰った日。父の石塚源五兵衛は、孫の吉千代、久宇(くう)との対面を喜びつつ内蔵之助のやり方に腹を立てて悪口を言いますが、孫からある物を手渡され…」
 その後の展開は、ノリの良いフシと音楽で語られています。
 iTunes等で配信にもなっておりますので、ぜひお聴きください。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年03月27日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹1-

【解説】
≪ やがて元禄十六年二月四日、まさに国論を二つに分けるほど激しい論争を巻き起こした赤穂義士に対する処分が決まりました。

<続きを読む>

 はー、そんなことがあったのかー、と思いますね。
 人間の生態をよくよく御存知の傑物のご判断の結果、赤穂浪士の誉れが現代までも在り続けた、というわけでした。


 では続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年04月03日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹2-

【解説】
≪  この、将軍から切腹を賜るという手続きは、当時の武士社会の常識としては破格の名誉。しかも、一地方大名である浅野家の家来たちが、将軍から直接死を賜るなどというのは、前代未聞の出来事でした。

<続きを読む>

 赤穂浪士は、例えば浅野内匠頭の墓前などで自決する道を選ばず、法を犯した者として法の裁きを受ける、幕府からの処罰を受ける、という道を選択したのでした。幕政への批判の意思も含むこの敵討ちが、公に向けてという姿勢で徹底されたことにも、多くの人が感銘を受けたのでしょうね。三波春夫もしかり、で、忠臣蔵にまつわるたくさんの歌や作品を創ることと相成ったのでした。

 では続きはまた、来週金曜日に。

2015年04月10日

『第八章 討ち入りの顛末』  -赤穂浪士切腹3-

 【解説】
≪ 内蔵助は、最後の時間を熊本五十四万石の大守・細川越中守綱利と二人だけで相対して過ごし、そのとき綱利は心安らかに黄泉の国へ旅立ちをされるようにと、さんざんと涙をこぼしながら内蔵助に語りかけたそうです。

<続きを読む>

次回からは、四十七士それぞれのプロフィールをご紹介してまいります。
その後に、和歌や俳句のご紹介をいたします。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年04月17日

『巻末資料1』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名

・大石内蔵助良雄
・吉田忠左衛門兼亮
・原惣右衛門元辰
・片岡源五右衛門高房
・間瀬久太夫正明

<続きを読む>

 『真髄三波忠臣蔵』は、巻末に付録資料として、赤穂義士各人の簡単なご紹介の“人物寸描”と、和歌・俳句のご紹介が掲載されております。本日は、“人物寸描”の始まりです。簡単なプロフィールとはいえ、人物が見えてきますね。

 では、この続きはまた来週金曜日に…。

2015年04月24日

『巻末資料2』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・小野寺十内秀和
・大石主税良金
・磯貝十郎左衛門正久
・堀部弥兵衛金丸
・近松勘六行重

<続きを読む>

 若い方もあり、熟年の方もある本日の5人。
「真髄三波忠臣蔵」の本文欄外に記されたメモと、三波の忠臣蔵研究メモから、数人のエピソードを以下に。

★大石主税:内蔵之助の長男。身長は五尺七寸あって当時としては大柄。若いながらも討ち入り時に、敵の一人を討ち取ったといわれている。
★磯貝:能と鼓が堪能の美男子。死後の私物の中に、大事に袱紗に包まれた琴の爪があったという。
★堀部弥兵衛:浪士中の最長老。その年輪を生かした知恵袋として若い浪士にもよく気を配った言動が、記録に多く残っている。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月01日

『巻末資料3』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名

・富森助右衛門正因
・潮田又之丞高教
・堀部安兵衛武庸
・赤埴源蔵重賢
・奥田孫太夫重盛
・矢田五郎右衛門助武
・大石瀬左衛門信清

<続きを読む>

 本日も、義士のご紹介でした。

 以下、前回と同じく、三波の本と研究メモから補足いたします。


★富森:討ち入り前に母に挨拶をした際に所望した、母親の白無垢の小袖を着て討ち入ったといわれる。

★潮田:大石内蔵之助、大石瀬左衛門と同じ師について剣を鍛錬したので、内蔵之助とも親しかった。いよいよ内蔵之助が切腹の場に向かうときに、「おっつけ皆で参ります」と

声をかけると、内蔵之助はにっこりと笑って応えたといわれている。

★赤埴:三波春夫の長編歌謡浪曲『元禄花の兄弟 赤垣源蔵』の主人公。本名は赤埴または赤羽。本当は”下戸”であり、”兄はおらず”弟妹のみ。(えーっ!?というカンジです…)

★大石:刃傷事件の折は江戸におり、内匠頭切腹後に原惣右衛門とともに早篭に乗り、その報せを国元へ伝えた。江戸から赤穂まで、4日半~5日という短時間で到着したといわれている。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月08日

『巻末資料4』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・早水藤左衛門満堯
・間喜兵衛光延
・中村勘助正辰
・菅谷半之丞政利
・不破数右衛門正種
・千馬三郎兵衛光忠

<続きを読む>

 以下に、「三波メモ」からの追加解説を申し上げます。

★早水:江戸から早籠に乗って刃傷事件の第一報を国元の赤穂に伝えた。弓術に長け、和歌や絵画もたしなんだ。
★間 :長男の十次郎、次男の新六とともに親子3人で討入りに参加。
★中村:奥州白川藩の家臣の子として生まれ、赤穂藩士の家の養子となった。刃傷事件の直後から義挙メンバーに率先して加盟。
★不破:元禄10年頃に内匠頭の勘気にふれて浪人となり、江戸に住む。いつか赤穂に戻れると思い暮らしている間に刃傷事件が起こり、義挙メンバーに加わる。討入りでは浪士の中で一番の健闘だったという。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月15日

『巻末資料5』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・木村岡右衛門貞行
・岡野金右衛門包秀
・吉田沢右衛門兼貞
・貝賀弥左衛門友信
・大高源五忠雄
・岡島八十右衛門常樹

<続きを読む>

 今回も、「三波メモ」からの補足を以下に記します。

★木村:祖父の代から浅野家に仕えた。好学の士であった。
★岡野:父親は、赤穂浪士の一人・小野寺十内の弟だが、義挙メンバーに加わった後に病死。金右衛門という名はその父の名を継いだもの。
★吉田:吉田忠左衛門の長男。
★貝賀:吉田忠左衛門の弟。
★大高:文武に俊才。茶の湯の心得があったことが役に立ち、12月14日の吉良家に於ける「茶会」開催の情報を掴んだ。
★岡島:原惣右衛門の弟。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月22日

『巻末資料6』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・武林唯七隆重
・倉橋伝助武幸
・村松喜兵衛秀直
・杉野十平次次房
・勝田新左衛門武堯
・前原伊助宗房

<続きを読む>

 恒例の、「三波メモ」からの人物ご紹介補足、です。


★武林: 炭小屋に隠れていた上野介を、一番最初に槍で突いたのは間十次郎、そのすぐ次の太刀は武林だった。
★倉橋:7歳で父が亡くなり、家を継いだ。刃傷事件の際には江戸詰めだった。
★杉野:親と縁が薄く、誕生した年に母を、10歳で父を亡くした。
★前原:赤穂藩取り潰しの後、呉服商を営みながら浪士としての役目を果たし、「赤城盟伝」という記録本も残した。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年05月29日

『巻末資料7』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・間瀬孫九郎正辰
・小野寺幸右衛門秀
・間十次郎光興
・奥田貞右衛門行高
・矢頭右衛門七教兼
・村松三太夫高直

<続きを読む>

 本日も、「三波メモ」から補足を記します。

★間瀬:父の間瀬久太夫とともに討入りに参加。槍で目覚ましい働きをした23歳。
★小野寺:討入り後、養父・小野寺十内が妻に宛てた手紙に、幸右衛門の活躍ぶりが詳細に書かれていた。
★間  :炭小屋に隠れていた上野介に一番槍。その殊勲で、首級をあげる役目も果たした。
★矢頭:刃傷事件の折は16歳。父親と共に義盟に加わったが、父は翌年夏に死去。討入りには、その戒名を紙に書き、兜頭巾に収めて戦った。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月05日

『巻末資料8』

【人物寸描】
表記内訳/氏名、(1)役職、(2)禄高、(3)討ち入り当夜の支度、(4)討ち入り当夜の武器と佩刀、(5)討ち入り時の配置、(6)御預け先、(7)行年、(8)介錯人、(9)戒名
・神崎与五郎則休
・茅野和助常成
・横川勘平宗利
・間新六郎光風
・三村次郎左衛門包常
・寺坂吉右衛門信行

<続きを読む>

 「三波メモ」からの解説、と私からの補足を記します。


★神崎:文武両道に優れ、吟詠も見事だったが47人の中で一番の酒豪ともいわれる。
★横川:三波春夫の「長編歌謡浪曲 元禄花の兄弟 赤垣源蔵」の啖呵に出てくる"横川勘平、武林が大門開けば赤垣は…"のとおり、3人とも表門から討ち入った表門組でした。
★間:当時の切腹は、小刀を腹に突き立てようとするところを介錯人が介錯をする型だったが、間新六は、小刀を手にした途端に自分で腹を切り、介錯人がそれを見て即座に介錯をしたという記録が残る。若く、血気盛んなことからか。印象深い最期を遂げようと思ったのか。新六の遺骸は46人中で1人だけ泉岳寺に無く、親族の意向で別の寺に埋葬された。
★寺坂:元禄16年の浪士切腹から44年後、83歳で江戸で没。


 本日で、プロフィールのご紹介は終了です。
次回からは、義士が詠んだ和歌、俳句などをご紹介します。


 ではまた、来週金曜日に。

2015年06月12日

『巻末資料9』 志魂歌心

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

 前回までの「人物寸描」は、まさに”人に歴史あり”で、各人の人生に思いを馳せて頂きました。

 今回からは、俳句などのご紹介です。

 三波春夫が本の中で『浪士たちの秘めた想いが感じられると思います』と書きましたが、日本語の美しさ、旋律の良さ、籠められた想いを味わって頂きたい、と巻末に掲載したのでした。

 なお、本文にルビが振れないため、以下に記します。

○「存命て」→ いのちありて
○「下艸」→ したくさ


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月19日

『巻末資料10』 志魂歌心2

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

大石主税(オオイシ チカラ)は、享年16歳。その辞世の句の秀作ぶりに驚きますね。
大高源五は、俳名を「子葉」とし、作家とも交流があったほど文雅に秀でた人物。
潮田の辞世は、「もののふの みちとばかりを ひとすじに…」と読みます。


ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年06月26日

『巻末資料11』 志魂歌心3

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

 本日の三波メモからの補足は、「小野寺十内と妻」についてです。

 小野寺の妻、「丹」は、夫と同じように和歌が上手だったそうです。
夫婦に子供は無く、大高源五の弟を養子にしました。

 仇を討つまでの間、家を留守にしたまま長く行動をしていた小野寺が、丹の気持ちをよく気にかけていた言動の記録が残っています。

 丹への遺言状は12月12日に出しており、「忠義に死ぬ姿を天下の武士たちに示し、人の心の励ましとなるのだから本望。こののち、丹は見苦しいこともなく、ちゃんと暮らしてくれるだろうと安心しているよ」というような内容のものでした。

 切腹の直前も、「妻にも、きょうの始末が伝わるように」と頼んだのでした…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月03日

『巻末資料12』 志魂歌心4

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

○武林の句の、「仕合せ」の読みは「しあわせ」です。

○富森の最後の句は、元禄16年の元旦に詠まれたものです。細川越中守の屋敷にお預けとなっていたのですが、「お預け中とはいえ、年の始めですから」と細川家から新しい小袖を全員が頂戴し、酒肴の膳も用意してくださったので、ちょっと呑んでの一句でした。


 以上、三波メモから、でした。
 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月10日

『巻末資料13』 志魂歌心5

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

○間十次郎の和歌の、「酣はに」の読みは、”たけなわに”です。

○早水藤左衛門は、弓の達人だったそうですが、辞世の句の意味するとことは、“自然界の中から私は生まれ出て、生きて、そしてまた元のところへと還るのです”でしょうか。
 まっすぐな思いの魂が、まっすぐに天に昇って行かれたのだろうな、と清々しささえ漂います。享年は40歳とも42歳とも言われています。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月17日

『巻末資料14』 志魂歌心6

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

 本日も”三波メモ”から、補足です。


 ☆原惣右衛門は、刃傷事件の直後、饗応役として揃えてあった器や調度品などの片付け・運搬に際し、素早く見事な采配をみせた。その後、早駕籠に乗って、赤穂に殿様の切腹を伝えた。討入りの折には、足をくじき、泉岳寺への引揚げの折は駕籠に乗ったという。


 ☆「活き過ぎた」と詠んだ弥兵衛金丸は、このとき76歳。
 「雪晴れて…」の句は、討入り当日の朝に詠まれた句。その日までの数日間、江戸に大雪が降り、困ったものだと思いながら就寝した討入り前夜、夢の中で浮かんだ句。起床して外を見たら、本当に日本晴れだったので、句を披露しながら仲間とともに喜び合ったという。


 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月24日

『巻末資料15』 志魂歌心7

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

「高田の馬場の決斗」で有名な堀部安兵衛については、2月27日からの『松平邸の大石主税と堀部安兵衛』の章に書かれておりますが、今回も「三波メモ」から補足のお話、です。

堀部安兵衛(享年36歳)は刃傷事件以来、常に"仇討ち急進派"としてバイタリティー溢れる働きをした。「浅野内匠頭家来 討入り口上書」には、安兵衛が21歳頃に堀内源左衛門道場で共に剣を学んで以来、交友を重ねた儒学者・細井広沢のアドバイスが入っている。

討入りを前に、安兵衛は、親戚や知人に遺書を書き残し、広沢には内蔵助をはじめとした同志との数十本の書簡を送った。それらの書簡を読めば、それまでの浪士たちの動向がうかがい知ることが出来る。これが、のちに広沢の手で「堀部武庸筆記」としてまとめられた。

吉良邸から引き揚げて泉岳寺に向かう道すがら、安兵衛は、深川八幡町にあった広沢の家に立ち寄って大声で、「仇の首級を討ち取り、只今泉岳寺に引揚げの途中でござる。日ごろの芳情は死後まで忘れませぬ。これが今生の別れ。さらば」と告げた。光沢は、すぐに表に出てみたが、すでに姿は見えなかった。

松平邸での切腹の日は、16歳でこの世を去る大石主税を最後まで慮り、切腹の場に向かう主税に「拙者も只今」と声をかけ、互いに笑顔を交わしたという。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年07月31日

『巻末資料16』 志魂歌心8

別冊赤穂義士事典より転載。
氏名の下、括弧内は俳号。

<続きを読む>

 では、「三波メモ」を元に、補足解説をば。

 ☆矢頭右衛門七:享年18歳。5月29日のブログの記載のとおり、刃傷事件の折は16歳で、父親と共に義盟に加わったが、父は翌年夏に死去。討入りには、その戒名を紙に書き、兜頭巾に収めて戦った。討入りまでの準備期間は、金銭的に困窮し、仲間の援助を受けた。

 ☆横川勘平:三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄花の兄弟 赤垣源蔵」の吉良邸討入りの場面の歌詞に、"横川勘平、武林が大門開けば赤垣は…"と登場する人物。史実としても、表門から討入り、その付近を守った。
討入り準備も佳境に入ったころ、横川が住んでいた家の近所に、吉良邸で催される茶会に招かれている人が居た。その人の返事を代筆して吉良邸に届けつつ、吉良屋敷の様子をつくづくと観察してきたという。その日は12月10日。そして、4日後には討入となったのである。享年37歳。

 ☆吉田忠左衛門:大石内蔵之助に次いでの副リーダー格だった。文雅の士として、多くの和歌・俳句が残っている。
討入りでは、裏門大将の大石主税のサポートとなった。上野介の姿がなかなか見つからない段には、「逃がすまいぞ。夜があけても探すべし」と大声で激励し、一同はそれを聞いて奮起した挙句、炭小屋に隠れていた上野介を見つけるに至った。

 さて、2012年10月から連載の「真髄 三波忠臣蔵」は本日で最後です。
来週からは、同じく小学館文庫として発刊された「聖徳太子憲法は生きている」をご紹介して参ります。
この本もまた、三波春夫は一所懸命、書いたのでありました!!

 ではまた、来週金曜日から、よろしくお願い致します!!

2015年08月07日

聖徳太子憲法は生きている まえがき

えっ!
あの、雪を蹴立ててサク、サク、サク、
先生!おう、そば屋か!

<続きを読む>

 本日から、「聖徳太子憲法は生きている」をご紹介して参ります。
 この本は、1998年に小学館文庫のために書き下ろしたものです。
 三波春夫75歳の折。
 歌手としての仕事の傍ら、この本を執筆しました。

 本文中にあるように、父は1944年に応召して陸軍歩兵として満州の戦場を駆け巡ったのち、シベリアで4年間の抑留生活を経験しました。
 その間、仲間にむけて語る浪曲の台本を、ひとりコツコツと睡眠時間を削って書き、30本近い新作をつくりました。
 歌手になってからも、いつも「研究のために本を読む」「原稿を書く」ことが並行している日々でした。

 それにしても、"聖徳太子憲法"という題材は意外な感じがございますね。
 日本と日本人の心を求めて…、という歌手・三波春夫の生き方は、最晩年にこの本の執筆の境地を迎えたというわけです。

 お読みくださる方々の、ご年齢やお考えによって、文章から色々なことを汲み取って頂けると存じます。
 読み辛いところもございますが、どうぞお付き合いくださいませ。

 なお、来週の金曜日の更新はお休みさせて頂きまして、次回は21日に更新します。
 酷暑が続いておりますので、くれぐれもご自愛くださいませ。

 三波美夕紀

2015年08月21日

生きている聖徳太子憲法 今なお新しい太子の憲法

 哲学の集大成とも言えるこの憲法は、推古天皇十二年(西暦六〇四年)五月に発布されました。聖徳太子が草案した憲法に天皇が承認を与えたのですが、爾来、太子憲法と人々は呼んでその価値の高さを評価したものです。

<続きを読む>

国家公務員、政治家、神職、僧侶、儒学の教師。
これら5つの職業に対しての17条ずつで、全部で85条ということですね。
この本では、それらをすべて解説し、歴史のエピソードもご紹介して参ります。
よろしくお願いいたします!!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年08月28日

生きている聖徳太子憲法 白鹿伝説1

 私が太子の憲法に思い入れを深くしたのには、もう一つ理由があります。

<続きを読む>

三波春夫は新潟県の出身ですので、"越後の鹿"というところにビビッと来たようです。
時代が何しろ"推古"のことですので、親近感が湧きづらい感じでございますが、
どうぞお付合いくださいませ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年09月04日

生きている聖徳太子憲法 白鹿伝説2

 ところで、伝説によれば献上された白鹿の角には、十七の文字が書かれていたと言いますが、もしかすると、文字とも読める模様があったのかもしれません。いずれにせよ、太子はそれを見ておもしろいと思われたのでしょう。その十七の文字に、十七条の心魂とも言うべき考え方の当てはめを試みられたようです。

<続きを読む>

コジツケではなく、この発想力、思想するチカラ。
日本人の持つセンス、能力とは、こういうものなのです、ね。
ゆめゆめ失いたくないものだと思います。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします。
よろしくお願い致します。

2015年09月11日

生きている聖徳太子憲法 白鹿伝説3

「龍」は大きくて霊体ながら小身になって身を隠す。大でありながら小となるは謙。ゆえに謙道。

「花」は開いて落ちて私心がない。私心なく賞罰を明らかにする事道に通ず。

「日」は天の主である。天子は国の主である。ゆえに主道。

「車」は両輪があって誤りがない。司たちの足である。ゆえに司道。

「地」は万物を育てながら決して嫉妬心がない。これを徳道とみる。

「天」は四時百刻、私心がない。ゆえに公道。

「水」は夏に解け冬に凍り、時々の事の処し方を知る、ゆえに時道。

「籠」は目盛りのついた器。品定めをして、大小も分かつ、ゆえに品道。

「鼎」は三本足で立つ。ゆえに三法に当たる神・仏・儒の尊きを説く、法道。

<続きを読む>

日本の国の人々のために、微に入り細にわたって生き方・暮らし方を教え導く、日本人・聖徳太子が作った憲法。

のちに、ひとつひとつの条文をご紹介していますが、その前に、聖徳太子についてのエピソードを書いています。

来週金曜日の更新では、その部分に入って参ります。

どうぞまたご高覧くださいませ。

2015年09月18日

生きている聖徳太子憲法 推古天皇の勅命

 ここで、憲法をお作りになられた聖徳太子の生涯について軽く触れておきたいと思います。

<続きを読む>

 今の世でも、お立場によっては参考となる人選の心得…。

 さて、この本文の欄外に、「摂政」についての解説がありますのでご紹介します。
 「摂政」:天皇が女性か幼少の場合、天皇に代わって政治を行う役職。
      推古天皇を補佐した聖徳太子がその始まり。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年09月25日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気1

 太子が摂政として日本のために大活躍したのは皆さん御存じの通りですが、太子がどのような姿勢で政治に携わったのかがわかるエピソードがあります。

<続きを読む>

東夷は、「とうい」と読みます。
西戎は、「せいじゅう」。中国の西部の民族たち。
南蛮は、「なんばん」。中国南部の民族たち。
北狄は、「ほくてき」。中国北部の民族たち。
不変の地理、不変の云々…。問題は永遠でございますね。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年10月02日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気2

 そこで煬帝は日本の国主にあてて怒りを顕わにした手紙を書き、小野妹子に渡したのです。さて困ったどうしようと、迷った末に、妹子は「国書を盗まれました」と天皇に報告したのです。しかし、正式な外交文書を無くしたとあってはただで済むはずもありません。当然、妹子の責任を追及する声が大きくなり、帝も処分を決しかねておりましたとき、太子は"何かおかしい”と感じ、小野妹子に国書の内容を訊ねたのでしょう。

<続きを読む>

「裴世清」はご承知のとおり、「はい せいせい」と読みます。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします!

2015年10月09日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気3

 太子が指摘した通り、隋の煬帝の経歴は、六〇四年(日本では太子憲法が発布された年です)、父の文帝を殺して即位しています。やがて南北に亘る大運河を建設しますが、おもしろいことに、南(江南)の地方で作るお米のおいしさを北京の方でも味わいたいという理由で、米を運ぶ運河を造ったのだそうです。当時も食料問題が重要だったのですね。

<続きを読む>

上記、本文にルビがふれないものですから、以下に記します。
○李淵:リエン
○朱全忠:シュ ゼンチュウ
○梁:リョウ
○肇って:ハジマって

ではまた、来週金曜日に更新いたします!

2015年10月16日

生きている聖徳太子憲法 偕老同穴の契り

 政治家として活躍される一方、太子は家族愛に溢れたお方でもありました。とくに、膳の妃とは同じ日に薨られるほどの仲むつまじさでした。

<続きを読む>

「膳の妃」は、かしわでのきさき。
「薨去」は、こうきょ、と読みます。

さて、本日の毎日新聞の夕刊に、"東京五輪"に関する特集記事が掲載されています。
三波春夫の話も出て参りますので、お読み頂けましたら幸甚です。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年10月23日

生きている聖徳太子憲法 天皇慟哭す

 このように素晴らしいお方でしたから、太子が薨られたときの衝撃ははかりしれないほど大きいものでした。

<続きを読む>

 父が、’97年~’98年にかけてこの本を書いていたときに、出来上がった分の草稿を受け取って読ませて貰っては、「こんなことがあったんですね」とか「ここの書き方が判りづらいです、練り直してください」とか(笑)、いろいろと話をしました。

 その中でも、この”黒駒”が自ら頭を打ち付けて命を絶ったという逸話には、『なんという馬だろうねぇ…』『悲しくて悲しくて、どうしようもなかったんだわねぇ』と、しばし感動を語り合う父娘でありました。

 本の後半に、太子ゆかりの奈良の”橘寺”を訪ねて、黒駒の像も拝見したことなどを書いておりますので、後日ご紹介いたします。

 ではまた、来週金曜日に。

2015年10月30日

聖徳太子憲法を読む 通蒙憲法十七条

 この憲法の正式名称は『日本国推古憲法』とまず記憶してください。

<続きを読む>

次回からいよいよ、憲法の条文の解説が始まります。

お楽しみに!

また来週金曜日に更新いたします。

2015年11月06日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 通蒙憲法 第一条

琴の和道 通蒙憲法 第一条

『和を以て貴しと為し、忤うことなきを宗とせよ。
人には皆黨有り。また、達る者は少なし。
是を以て、或は君父にも不順あり。また隣里にも違う。
然れども、上和ぎ下睦み諧て事を論めよ。
則は、事も理も、自ら通わしめ何事か成らざらん。』

<続きを読む>

 父が、“今日、身につまされる思いがしますね”と書いたのが1998年でしたが、2015年の今日の方が“身につまされる思い”が増しています…。

 次回は「第二条」、また来週金曜日に更新いたします。

2015年11月13日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 通蒙憲法 第二条1

斗の順道 通蒙憲法 第二条1

『詔を承りては必ず謹め。
君は之れ天に則り、臣は之れ地に則る。
天は覆い地は載せて、四時順り行き、萬氣、通ずることを
得せしむ、地もし天を覆わんと欲む則は、壊れ致すのみ。
是を以て、君言ば臣承り、上行さば下これに效うは
是れ天地の則なり。
故に詔を承りては必ず愼め、謹まざれば自ら敗ばん。』

<続きを読む>

聖徳太子の「三宝」は「三法」なのでした…。

次回は、三波春夫の解説の続きです。

来週金曜日に更新いたします。

2015年11月20日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 通蒙憲法 第二条2

 では、太子憲法の改竄はいつごろされたかと考えますと、仏教者、僧侶に真に勢いがついた、これより約百二十年後の第四十五代・聖武天皇の奈良大仏建立の頃・・・・・・。このあたりではないかと思われます。

<続きを読む>

 「われ三宝の奴…」の”奴”は、ヤツではなくヤッコと読みます。
家来、下に付く者、という意味です。

 父が、この宗教戦争について一言書いていますけれど、当然のことながら現在もこの問題は引き続いています。
この先も、終わりが見えない問題です。
宗教というものは人に真っ当な考え方を持たせて、幸せな道を歩むように導くために、始めの始めに生み出されたもののはずですのに。
人として真っ当ではなく、自分の利で勝手に物事を動かす人々は、昔も今もなんと多いことございましょうね。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年11月27日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 通蒙憲法 第三条

月の禮道 通蒙憲法 第三条

『群卿百僚、禮を以て本とせよ。
其れ民を治むるの本は要ず禮にあり。
上禮なくば下齋しまず、下禮なくば必ず罪あらむ。
是を以て、君と臣に禮あれば位次亂れず、
百姓に禮あれば國家、自ら治まらん。』

<続きを読む>

 日本はもちろん、地球上の人間すべてに「礼節」があったら…。
では、来週また金曜日に更新いたします。

2015年12月04日

聖徳太子憲法を読む 臺の政道 通蒙憲法 第四条

臺の政道 通蒙憲法 第四条

『餐を絶ち欲を棄て、訴訟を明らかに辨めよ。
其れ百姓の訟は一日に千事あり、一日にして尚爾り、況んや
歳を累ぬるをや。頃訟を治むる者、利を得を常となし、
賂を見て罪を裁き、これを聴す。便ち、財有の訟は石を
水に投ぐるが如く、乏の訟は水を石に投ぐるに似たり。
是を以て、貧民は則ち由る所を知らず、臣の道も亦ここに
於いて闕けむ。』

<続きを読む>

 人間は、野放しではいけないもので、教えなければ、学ばなければ、どうしようもなく愚かなものなのですね。
 今の日本も、教え上手がもっとたくさん居てほしい、学び上手に皆がなったらもっと良い、と思います。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年12月11日

聖徳太子憲法を読む 鏡の智道 通蒙憲法 第五条

鏡の智道 通蒙憲法 第五条

『悪を懲し、善を勧むるは之れ古よりの良典なり。
是を以て、人の善は匿すことなく悪を見ては必ず匡せ。
其れ、諂い詐りをなす者は則ち、國家を覆す利器なり
人民を絶る鋒剣とならん。
また佞ねり媚る者は、
上に對う則は、下の過ちを好説し、
下に逢う則は、上の失ちを誹謗す。其れ此くの如き人は
皆君に忠なく民に仁なし。是れ大亂の本ならん。』

<続きを読む>

 「こういうタイプのことを、太子も熟知されていらしたんですか!嫌な人種ですよねー」と、話しかけさせて頂きたい!?気分。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2015年12月18日

聖徳太子憲法を読む 竹の官道 通蒙憲法 第六条

竹の官道 通蒙憲法 第六条

『人には各任あり。掌るところは、宜しく濫れざるべし。
其れ、賢哲に官を任す則は頌音起こり。姦者官に在る則は
禍い亂れ繁んなり。世に生まれながらに知れる人は少なし。
克く念いて聖と作る。
事の大小にかかわらず、人を得れば必ず治まり、
時の緩急にかかわらず、賢に逢ば自ら寛なり。
此に因って、國家と社禝永久に危きことなし。
故に古の聖王は、官の為に人を求め、人の為に官を求ず。』

<続きを読む>

 優れた教え、ともいえる条文。本日の分は、父の解説にもありましたが、天下りのところも大いに納得させられます。

 そして、「生まれながらに賢い人など少数。よく学びよくよく考え、己を磨くことを重ねれば、物事を良く知り、良く判断できる人となる」の部分にも注目したいです。

 素晴らしい人が山盛りとなれば、天下りバンザイとは何たることか、という世の中になりましょうに。いまだ、なっていませんね…。

 ではまた来週金曜日に更新いたします。

2015年12月25日

聖徳太子憲法を読む 冠の位道 通蒙憲法 第七条

冠の位道 通蒙憲法 第七条

『群卿、百僚早く朝りて晏く退れ。
王事は靡?なし。日終盡くすも、盡くし難し。
是を以て、遅く朝は急ぎごとに逮かず、
早く退れば必ず事は盡くされず。』

<続きを読む>

 ”役所の皆さん、頑張ってください”の、通蒙憲法はまだまだ続きますが、
本年のブログは本日まで、とさせて頂きます。

 一年間お読み頂きまして、まことにありがとうございました。
 来年も毎週金曜日の更新で掲載して参ります。
 引き続きまして、よろしくお願い申し上げます。

 どうぞ良いお年をお迎えくださいませ!!

2016年01月08日

聖徳太子憲法を読む 契の信道 通蒙憲法 第八条

契の信道 通蒙憲法 第八条

『信は是れ義の本なり。
事毎に信を有せよ、其れ善悪も成敗も要ず信にあり。
群臣、共に信あらば何事か成らざらん。
群臣、信なくば、萬事は悉く敗われん。』

<続きを読む>

 新年、第一回目の掲載をご高覧頂きまして、ありがとうございました。
 「信」をもって仕事をしてまいりますので、本年もどうぞよろしくお願い致します!!

 では、来週金曜日に更新いたします。

2016年01月15日

聖徳太子憲法を読む 龍の謙道 通蒙憲法 第九条

龍の謙道 通蒙憲法 第九条

『忿を絶ち瞋を棄て、人との違うことを怒らざれ。
人には皆心あり、各心に執ることあり、
彼れ是の則は我れ非となし、我れ是の則は彼れ非となす。
我れ必ずしも聖に非ず、彼れ必ずしも愚に非ず。
共に是れ凡夫のみ。是非の理誰か能く定むべき、
相共に賢愚なること環の端めなきが如し。
是を以て彼の人は瞋ると雖も還って我の失を恐れよ。
我れ獨り得たり雖も、衆に從いて同じく擧え。』

<続きを読む>

 「人に優しく、自分に厳しく」、でござります。
 しかし最近は、父が上記のように思った頃よりももっと、他人に対して異常に高圧的な人が多くなりました。
 自分は未熟でーす、という姿を晒していることになりましょうに…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年01月22日

聖徳太子憲法を読む 花の事道 通蒙憲法 第十条

花の事道 通蒙憲法 第十条

『功と過とを明らかに察て、賞と罰を必に當てよ。
日、功あらざる者に賞し、罪あらざるに罰す。
事を執る群卿。
仰いで天に察い、俯して地に観い、
宜く賞罰を明らかにすべし。』

<続きを読む>

 この時代の、お役人に対する憲法の条文で、”信賞必罰になっていない、最近の状況”が書かれているなんて、びっくりですね。
 アホな人々、と言ってはいけないけれど、正しい人の道から転げ落ちて好き勝手にやってるヒトっていうのは、まぁなんと昔からいるんでしょう!

 また、次回、金曜日に更新いたします。

2016年01月29日

聖徳太子憲法を読む 日の主道 通蒙憲法 第十一条

日の主道 通蒙憲法 第十一条

『國司國造は百姓より貢を斂こと勿れ。
國に二君なく、民に兩主なし。
率土の兆民は王を以て主となす。
任所の官司は是れ皆、君の臣なり。
何ぞ敢えて、公擧て百姓に賦て斂むや。』

<続きを読む>

 税金を、ナンデそんなに取り立てるのか? ドコに使うっていう税なのか?
チャンと使われているのか?
 人民いうのは、ずーっと、ながーいことそう思って、数えきれないほど何代も何代も生きて来たわけです、ね。


 ではまた、来週金曜日に、次の条文をご紹介します。

2016年02月05日

聖徳太子憲法を読む 車の司道 通蒙憲法 第十二条

車の司道 通蒙憲法 第十二条

『司諸官を任う者、同じく通じて職掌を知れ。
或は病み、或は使いして事に闕くることあらん。
然れば日相和み之らを知り得て、曾て識れるが如くせよ。
其れ與かり聞くところに非ずということを以て、
公務を妨げること勿れ。』

<続きを読む>

 本日分もまた、思わずヒザを打ちたくなるような、「そうっ、それですよ」という内容でした。
 では、次回もお楽しみに…。

 来週金曜日に更新いたします。

2016年02月12日

聖徳太子憲法を読む 地の徳道 通蒙憲法 第十三条

地の徳道 通蒙憲法 第十三条

『群臣百僚嫉妬有くこと無れ。
我れ人を嫉まば既りて人もまた我れを妬まむ、
嫉妬の患い其の極を知らず。智己に勝れるときは悦ばず。
徳己に優れるときは嫉妬す。是を以て、良哲出ずることなし。
乃令五百歳の後にいたるも、
賢に遇わしむることなく千歳にして以て一の聖も得ること難し。
其れ賢聖を得ざれば、何を以てか國を治めん。』

<続きを読む>

 本日分も、金言の条文でした!
 そして、父の解説の中に、”女性の嫉妬より男性の嫉妬が…”とありますが、確かに確かに…。

 ではまた来週金曜日、心洗われる条文、ご紹介いたします!

2016年02月19日

聖徳太子憲法を読む 天の公道 通蒙憲法 第十四条

天の公道 通蒙憲法 第十四条

『私に背き公に向がうは、是れ臣の道なり。
凡そ人、私を有は必ず恨あり。恨あれば必ず非を作して、
非は固を失う。固あらざる則は私を以て公を妨げん
恨みを起こす則は、制に違き法を害う。
之に由り私を推う則は、君を君とし臣を臣とす。
故に古典に云く、夫子の道は忠恕のみと。
其れもまた、是の情ならむか。』

<続きを読む>

 ダイレクトに国の仕事をしている方々は、ココロしてくだされたし!!の、タイムリーな条文でした!
 …というより、やはり人間はこのように注意しないと、道を外れるものなのだよと、太子はお考えだったわけですね。

 さて、最後の部分で父が"反省"しておりますが、子供ではなく特に"妻に向かって"でござりましょう。
 妻なくしては『三波春夫』は生まれませんでしたから、ほんとうに良く働いた"妻"でした。
 この事はまた、後日の機会に詳しく…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年02月26日

聖徳太子憲法を読む 道の時道 通蒙憲法 第十五条

道の時道 通蒙憲法 第十五条

『民を使うに時を以てするは之れ古よりの良典なり。
故に冬の月は間あり、以て民を使うも可けむ。
春より秋に至るまでは農桑の節なり民を使うべからず。
其れ農ざれば何を食らい、桑ざれば何をか服とせむ。』

<続きを読む>

 そうです、そうです。頭だけで計算して考えた法律を作って、私達を振り回さないでほしいわー、と思う今日この頃…。

 では、来週も金曜日に更新いたします。

2016年03月04日

聖徳太子憲法を読む 籠の品道 通蒙憲法 第十六条

籠の品道 通蒙憲法 第十六条

『大事は之れ獨にて斷めざれ。
必ず衆と與に宜しく論すべし、
小事は是れ輕し必ずしも衆するに足ばず。
唯、大事を論めるに逮びては、或は癡かにして失あらむ。
故に衆と與に相い辭り辨あえ、則ち理を得べし。』

<続きを読む>

 自然の秩序、人の秩序…。
 そうあらねば成らぬこと、が、最近は甚だしくビックリするほど失われてゆくので、またビックリ…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年03月11日

聖徳太子憲法を読む 鼎の法道 通蒙憲法 第十七条

鼎の法道 通蒙憲法 第十七条

『篤く三法を敬え、三法とは儒釋神なり。
則ち、四姓の總の歸にして萬國の大宗なり。
何れの世、何れの人か、是のごとき法を貴ばざる。
人には、尤も悪は鮮し能く教かば之れに從う。
三法に歸せざれば何を以て枉を直さん。』

<続きを読む>

 『大きな事故が起きたりすると、実際には大事なツボが、まるで分かっていなかったのかと驚かされることがあります…』
 3月11日という今日に、この文章は心に響きます。

 第二条の解説にもありましたが、「篤く三法を敬え」は仏教を篤く云々…と言っているのではない、という解説をよく理解したいと思います。

 公務員に対しての条文は本日でオシマイです。
 次回からは、政治家に対する条文です。

 来週金曜日の更新を、お楽しみに!

2016年03月18日

政家憲法十七条

 太子が政治家に対して述べられた条文は、さながら現代の政界の動きを見通しておられるように感じます。

<続きを読む>

 「政家憲法」ご紹介に入る前の序文です。
 昔々の国の政治・行政について、と、太子の心。
 注釈も含めて、よく読み返しておこうっと…と思う本日分でした。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年03月25日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 政家憲法 第一条

琴の和道 政家憲法 第一条

『政を為す道は、獨り天の理に止どまるべし。
志を孤なして好嫌を絶ち、我を孤なして黨讐を離れよ。
好む黨の非は、耳之れを理と化し、悪む讐の理は
口之れを非と化す。
故に好と悪を絶って、物と融を致し黨讐を離れて、
政を和に歸すべし。
物と政に融和すれば兆民理まらむ、兆民理まりて、
天下平なり。』

<続きを読む>

 上記の文章を、国会議事堂のロビーに貼って置いてくださいませんか、ね…。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年04月01日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 政家憲法 第ニ条 (1)

籠の品道 通蒙憲法 第十六条

『辰宿星は天の君なり、公に位し公の度となって
天に仁く轉る。
幹支禽は地の臣なり、忠しく列り忠しく行って
地の義と定まる。
是れ人君人臣の理なり。故に王者は公政に仁を化す。
臣連は忠義に事え奉れ是れ天の道なり。是を以て下の事は
命を守るにありて私に過る則は定んで刑被れむ。
上の政は天に宛うしかれども過る則は匹夫にすら負かれむ。
故に過ちはすみやかに改めよ、改めざれば逸の政になり
驕の法とならむ。』

<続きを読む>

 この続きは次回に…。

 また来週、金曜日に更新いたします。

2016年04月08日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 政家憲法 第ニ条 (2)

斗の順道 政家憲法 第ニ条 (2)

 怒りの原因は、新羅国への遠征軍二万六千人を天皇の名の許に筑紫国まで宰相馬子が進めたことです。この遠征軍については、太子の弟君が二人、後に総大将に任命されていますから、国家の方針として決定されたものでした。結果としては筑紫港から渡海する前に取り止めとなりましたが、新羅に対する威圧の効果は大でした。しかし崇峻帝は、心の中ではおもしろくなかったようです。

<続きを読む>

 「心の無い政治を行えば、国が乱れる」という条文でした…。
 では次回は第三条へ。

 来週金曜日に更新いたします!

2016年04月15日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 政家憲法 第三条

月の禮道 政家憲法 第三条

『天は尊しといえども旋りつつ地を包んで譲なす。
若それ高きに亢ぶりて、上に昇る則は天の度に非ず。
地は元より卑して定まり、天を仰いで節をなす。
然るに、定めに反きて下、反す則は地の方を失う。
人は中に在りて、天地の倫に應を法となす。
故に、王者は節を丈て政を底す。
臣庶は敬い格し命に降うべし。』

<続きを読む>

良い、「上」の人でありたいし「下」の人でなくては!
ドコにあろうと、謙虚に頑張りましょうっ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年04月22日

聖徳太子憲法を読む 臺の政道 政家憲法 第四条

臺の政道 政家憲法 第四条

『人情は先に聞くに偏く、故に其の片を先とせざれ。
上と下の訴は、其の罪大底上に有り、
下をのみ囚る則は上は驕り罪は絶ず亂れ茲に發る。
縁を便の訴は、非は必ず政者に有り、
頼に傾く則は政の正を失う。
貧と富の訴は、其の誠の諸は貧に有り、
規さざる則は悲嘆は一に止どまらず。
非政發らば、天下皆晦み何ぞ以て萬機を理めん。』

<続きを読む>

聖徳太子の時代~勝海舟の時代~この本が出版された1998年~現在。
この長い年月の間、不変の真理であり、まだ全面的には適わぬ真理です…。

では、次回は5月13日に更新いたします!
が、その前の5月10日20:00~20:54 BS11「あのスターにもう一度逢いたい」は、
三波春夫の巻、です。
ぜひ、ご覧ください!!

そして…、5月11日頃から書店に並び始めますが、
三波美夕紀 著
『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』
(しょうわの うたげいにん みなみはるお)
が、さくら舎という出版社から発売となります。
「三波春夫」をより知って頂きたいと思い、書きました!
お買い求めくださり、お読み頂けましたら有難く存じます。
よろしくお願いいたします。

2016年05月13日

聖徳太子憲法を読む 鏡の智道 政家憲法 第五条

鏡の智道 政家憲法 第五条

『政を為すは寛大を善とせよ。
佳美の法度は尚これ無きに如かず、況んや苛荐の法度に
於いておや、愚豪なる主宰泰平に為さんと欲んで、
蒼思いに任せて、恣に数の條を設く。
民は其の法に迫られて勞て、事は其の制廉に自り出ず、
遂には異積りて風塵を起こすにいたる。
唯、箇の仁と恕のみ泰平に致さむ。』

<続きを読む>

政治家の方々にぜひ知って頂きたい太子憲法。
まだまだ続きます!

来週はまた金曜日に更新いたします。

2016年05月20日

聖徳太子憲法を読む 竹の官道 政家憲法 第六条

竹の官道 政家憲法 第六条

『法度を立つるの道は、先ず上の罪を断つにあり。
上、仁 を盗むときは、下 財を盗まん。
上、公を枉るきちは、下 訴をを枉まん。
上、盗に居りて、下 の盗を刑すれば、日、千頭を刑
ると雖も賊の竭ること無し。
上、枉に居りて、下 の枉みを制えれば、月、萬口を獄
ぐと雖も罪は絶えること無し。』

<続きを読む>

 タイムリーな気がフトいたします。役人を束ねるトップの人は特に心すべきことで、この時代にもう、書いてあるじゃありませんか、ねぇ。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年05月27日

聖徳太子憲法を読む 冠の位道 政家憲法 第七条

冠の位道 政家憲法 第七条

『正政の要は良哲を尋ね索して用い得ることにあり。
仁徳無き者は、諸の好に偏れん。
勇徳無き者は、諸の威に怖れん。
義徳無き者は、諸の賂に迷わん。
智徳無き者は、諸の巧に幻らまされむ。

是れ四徳、有るは賢なり。賢は得ること難し。故に一徳に
合う者を賢に代えよ。主上、賢を好みて一徳の者を得うる
は賢もまた来たらむ。』

<続きを読む>

仁・勇・義・智を持った良哲が、政治を、是非是非。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年06月03日

聖徳太子憲法を読む 契の信道 政家憲法 第八条

契の信道 政家憲法 第八条

『刑を行うは、政で重きことなり。
以て、之を輙くおこなう則は、先皇の道を失う。天の瞠る
所は専ら、此れ政者にあらむか。刑は、
不孝を一と為し、不梯を二と為し、
不忠を三と為し、不義を四と為せ。
孝悌すたれ、忠義亡ぶ、忠義亡んで亂賊満つ。無道の君者
は、亂賊を悪んで乃れを刑するも、之れ不孝を赦し置くは、
刃を折と雖も治を得ず。あに本亂れて其の末治ま
らむや。』

<続きを読む>

不孝は、親に対して。不悌は年長者、不忠は君主、不義は人の道、それぞれに反することを言うようです。
分かりづらいですが、条文の意味するところを噛みしめてみると、ちょっと分かって来ます…。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年06月10日

聖徳太子憲法を読む 龍の謙道 政家憲法 第九条

龍の謙道 政家憲法 第九条

『國を安んずるの本は、五圖の多にあり。
其れ、厥の多きことは米粟の多きにあるなり。
人の世は、衣食木器財の圖に立つ、
然るに食らうに粟少なくば何を以て、田を耕し、蠶を養い、
木を伐り、金を堀り、器を造らしむるや。
悪ぞ、之れを豊かに作らしめ戸に足らしむることをえんや。
米の直銭多ときは、五の直も之れに随て多からむ。
鮮きを以て多を買うときは世の立つ所を失い、民はここに困しみ、
國もここに危うし。』

<続きを読む>

昔話の世界ではなく、現実の日本の姿がこうだったんですよね。
まったくもって何も足りてはいないのだけれど、自給自足で一所懸命な状況が、ふと羨ましい気がしてしまいました…。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年06月17日

聖徳太子憲法を読む 花の事道 政家憲法 第十条

花の事道 政家憲法 第十条

『米粟を多くする本は、之れ五事の非無きにあり。
これ、君に畜臣無く、民に遊族無く、
國に荒圃無く、政に苛性無く、祭に悋修無きことをいうなり。
畜臣を要るときは廻寶を促り。
遊族を置くときは殻功を費す。
荒圃を捨るときは田畠を徴す。
苛制を下すときは逋れて耕す。
悋修を行うときは風雨に変む。
焉んぞ米粟多からんや。』

<続きを読む>

『腹黒い役人を用いると、国に通用する財宝を、自分の倉にばかり集め…』ですって。
そんな人、多く、思い当たるところ、ありますねぇ。

『荒地を放っておけば 田畑少なく、厳しい法律を出せば、人民は逃げて耕さず…』
放っておかざるを得ない農地、の問題もありますねぇ。

太子憲法の条文は、「そうしないと、人間社会というものは、悪い結果になるよ」の含みがありますが、どの条文を読んでも、その「結果」が、現代のような気がして…。
聖徳太子憲法が発布されて以来、きちんとやって来ていればよかったのに、ですねぇ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年06月24日

聖徳太子憲法を読む 日の主道 政家憲法 第十一条

日の主道 政家憲法 第十一条

『叛乱の本は國の乏しさと、民の貧しさあり。
國を乏しくし、民を貧しうするはこれ財を官庫に秘し
米を官蔵に蝕しむるにあり。
夫れ、蓄欲の國に住まんよりは寧ろ驕誇の國に住まわむ。
蓄欲の世には貸上って都宮に隠れ、驕誇の世には貨下って
郷扉に流る。
富める民は、己の躬、子孫の樂さを惜む。
故に、愼みて制命を畏れるも、貧しき民は恨みて
我れ尚、惜しむに足らずとなす。なんぞ制命を畏れむや。』

<続きを読む>

「人の誇りに生きよ。特に上に立つ政治家は……」ですと!
本当に、声を大にして”頼みますよ!”と言いたい私達、ですよね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年07月01日

聖徳太子憲法を読む 車の司道 政家憲法 第十二条①

車の司道 政家憲法 第十二条

『主上政を為すは、仁に止めて我れを無となせ。
學ぶに、天の度、地の行、人の法を以てし
之に理て、吾が先皇の蹟を践み、臣を先賢の蹟に導き、
天の天下を安んじ、
天の兆民を樂くす。
天は自ら御し無為に歸らん。
かく虚莫を御すれば王道隆えん。』

<続きを読む>

このあとの永六輔さんの御様子については、次回に。

また、来週金曜日に更新いたします。

2016年07月08日

聖徳太子憲法を読む 車の司道 政家憲法 第十二条②

「咄嗟にどうしたらいいのか分からなくなって、頭を下げることも手を動かすこもとできなかったんですよ」

と、その出来事を語る永さん。

<続きを読む>

次回は、政家憲法第十三条です。

また来週金曜日に更新しますので、よろしくお願い致します。

2016年07月15日

聖徳太子憲法を読む 地の徳道 政家憲法 第十三条

地の徳道 政家憲法 第十三条

『宰職政を奉るときは、義に止て己を無になせ。
 學ぶに禮樂を以てし、勤めるに奉行を以てせよ。
 天皇の治御にあらざれば原く所なく、
 國家の安全にあらざれば議る所なし。
 道心あらざれば腹に實すこと無く、
 忠心あらざれば體に實ること無し。
 慮う所は宗廟の危うきにありて、我が家のことにあらず。
 顧る所は黎民の苦しみにありて、我が身のことにあらず。
 公を實じ、私を虚して、其の果を案ざれ。』

<続きを読む>

本日の条文を読んで、私達の心にグサッと刺さる思い…。
いや、何もしていない私達がグサっと来なくていいわけですのにね!
政治家の方々、よく読んでくださーい!

ではまた来週、金曜日に更新いたします。

2016年07月22日

聖徳太子憲法を読む 天の公道 政家憲法 第十四条

天の公道 政家憲法 第十四条

『王者、政を為すは吾れの政にあらず是れ天の政なり。
 宰職、政を奉るは吾れの政にあらず是れ帝の政なり。
 吾れに非ざるを以て吾れに非ずと為し、
 敬みを致し誠を致すときは己なく罪はなし。
 吾れに非ざるを以て吾れに有りと為し、恣に作い卒り作すときは、
 上の一の恣下っての千の痛みと成り、
 上の一の卒降って下の萬の困みと成る。
 災は是れ自ら起る。』

<続きを読む>

 ラストの方の「役人たちの一つのタワケゴトが、万人の苦しみとなる」は、今、目立って見える一文ですね。
 タワケゴトをしている自体に腹が立つ上、マスコミを通じて毎日毎日繰り返して聞かされ、見させられるのは、ホント苦しいですよねぇ!
 皆様、まっすぐ生きて、仕事して頂きたいぞ!です。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年07月29日

聖徳太子憲法を読む 水の時道 政家憲法 第十五条

水の時道 政家憲法 第十五条

『造士は政を蒙らばこと敬を止として、以て高こと無かれ。
學を為すに、之の理に止まりて忠征を以てせよ。
忠はこれ、仁にして己なく、征はこれ、義にして貧なし。
以て、叛逆と好を同ばざれ。己の恨みを以て、
敵と戦わざれ。勅命の於て進み退き、忠義に生死せよ。』

<続きを読む>

「心の美しさ」、忘れたくはないことですね!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年08月05日

聖徳太子憲法を読む 龍の品道 政家憲法 第十六条①

龍の品道 政家憲法 第十六条①

『兆民は政を畏み、誠を止として欺くこと無きなり。
農者は、耕し培いやしなって稼ぎ休を知らず。
工者は、法に存め美ものを作り厭を知らず。
商者は、駄に荷をのせて渡り歩き倦を知らず。
蔓者は、問い習えし練り案えて投を知らず。
於て慣みて御令に盡くし、命用に於て勤め盡くさせるべし。 』

<続きを読む>

現代の世の中でも言えましょうね。
自分の人生を一所懸命生きること!ですねっ。

上記の、「三波春夫の解説」には続きがございますが、
来週金曜日の更新はお休みを頂戴し、次回の更新は19日(金)となります。
どうぞよろしくお願い致します。

2016年08月19日

聖徳太子憲法を読む 龍の品道 政家憲法 第十六条②

龍の品道 政家憲法 第十六条②

 太子は、歌舞音曲は人間社会に絶対に必要なものであると考え、奈良県三輪桜井に「土舞台」という名の屋外劇場を作り、上演のための大道具・小道具の工房も設けました。そして、百済の帰化人で大名人と称された、味摩之・己中芳・加多意を教師にすえて、全国から美男子を集め、歌や踊り、芝居、音楽を習わせたのです。

<続きを読む>

 三波春夫はラストに、先週ご紹介した条文の一つの”藝を競い見せる者は、問い習い繰り返し、練り考えて投げ出す事を知らず”について書いています。この、投げ出さずに努力する根性が肝心なのは、どんな仕事でも、なにをするにしても、いつの世でも真理ですね。リオ五輪の選手の姿を拝見しても、感じられますね。

 暑さが厳しいですが、日々、ガンバリましょう!

 次回は、来週金曜日に更新いたします。

 そして、お知らせです。
20日に発売される「月刊カラオケファン」10月号には、『三波春夫、ここにあり!』という特集が掲載されています。
ぜひ、お買い求めください!

2016年08月26日

聖徳太子憲法を読む 鼎の法道 政家憲法 第十七条①

鼎の法道 政家憲法 第十七条①

  『政は學非らざれば立たず、學の本は儒釋神なり。
  然るに、其のーを好む者は、各其の二を悪い、
  而も其れ在ることを妬み其の亡ぶことを欲う、
  これ我が知るを理となし知らざるを非となす所以なり。
  故に、政者は宜しく三に通じて、一を好むべからず。
  其の、一を好むことを成す者は、恐らく、政を枉げん。
  政を枉げる則は、王道廢れ騒動發らむ。 』

<続きを読む>

宗教・考え方など、ただひとつのみを盲信しすぎると、他を認めなくなるものですね。大きく広い心持ちで、いろいろなことを見聞きして、生涯が勉強、なんですよね。

三波春夫の解説の続きは、また次回に。
来週金曜日に更新いたします。

2016年09月02日

聖徳太子憲法を読む 鼎の法道 政家憲法 第十七条②

鼎の法道 政家憲法 第十七条②

 ここで私は江戸時代の終わりに大活躍をされた二宮金次郎尊徳のお言葉を思い出します。校庭の銅像でおなじみの金次郎少年が、成人してどんな働きをされたのか。ほとんどの日本人がこの偉人の業績を知らないのは、教えることを忘れた教育界の責任ですが、あの銅像は薪を背負って売りにゆく姿と、肩の荷を下ろしてこんどは本を読みながら帰る姿を一個の芸術品としたわけですが、この方は物凄い勉強家でした。

<続きを読む>

二宮金次郎像は、そうなんですよね、
★薪を背負っている働く姿
★本を読んで勉強する姿
を同時に表現しているので、「歩き読みをしているのか!?」という銅像なのですね。

このことを、父がトークショーのステージ上で永六輔さんに説明しているのを観て、初めて知りましたが、永さんも初耳だったようでした。
18年ほど前のことでした。
報徳仕法については、三波春夫の著書『熱血!日本偉人伝』にも詳しく書かれています。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年09月09日

聖徳太子憲法を読む 儒士憲法十七条①

儒士憲法十七条①

 儒士とは儒学を教える人たちのことです。日本に儒学が伝えられたのは太子の時代よりずっと以前のことで、太子憲法が発布されたころにはかなり普及していました。そのため、こうした憲法が必要になったのでしょう。

<続きを読む>

 儒士憲法の条文のご紹介に入る前の、解説の始まりです。
 今回を含め、4回にわたって解説を掲載します。

 さて、9月15日深夜(日付は16日ですが)午前1時台、NHKラジオ『ラジオ深夜便』にて、”三波春夫”を三波美夕紀がお話させて頂きます。
 ご都合が合われましたら、どうぞお聴きくださいませ。

 次のブログ更新は、その16日金曜日です。
 よろしくお願い致します!

2016年09月16日

聖徳太子憲法を読む 儒士憲法十七条②

儒士憲法十七条②

 この地に根を下ろすにしても、民族の風習は意識して守っていたのは新旧ともに同じでした。

<続きを読む>

 なぜ末子相続とされたのか、の理由は後述がございますのでお楽しみに!
 各地からいろいろな民族が渡来してきた日本列島。だからこそ、皆でうまく暮らせるように”和を以って貴しと為し”の精神を基本として、心遣いしながら生きて来たのだ。と、聞いたことがあります…。
 皆が皆、心遣いと気遣いを持つ余裕があったらいいです、ねぇ。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年09月23日

聖徳太子憲法を読む 儒士憲法十七条③

儒士憲法十七条③

 さて、時代はずっと後のことになりますが、十五代応神天皇は、百済から帰化した王仁博士を、次男で末子の皇太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師とされました。しかし、そのために大変な事件が起きてしまいました。

<続きを読む>

 このあとの展開は、来週金曜日の更新までお待ちください!

 では、よろしくお願い致します!

2016年09月30日

聖徳太子憲法を読む 儒士憲法十七条④

儒士憲法十七条④

 弟の自殺を知った兄君の驚きと哀しみは、どれほどだったで しょうか。兄君は涙の中で即位され、第十六代仁徳天皇となられました。そして、弟皇子の住んでおられたところに神社を建立、弟皇子の名にちなみ「字治神社」と名付けられました。お茶で名高い宇治市という名は、この皇子の名前に由来します。さらに四国へ行幸されたとき、高松市に鶴尾神社を建てて弟君を祀ったのを筆頭に、日本各地に身を捨てて長幼の序という人倫の道を貫いた皇子の神社が建てられました。

<続きを読む>

 末子相続とは?が、本日説明されました。
 この本を書いた頃、永さんと父は度々お仕事を御一緒していたのですが、雑談はすべて歴史や日本文化についてでした。
 永さんが知らないことを父が説明し、上記の本文のようにその逆もあり。アカデミックな友人関係でございましたー。

 さて、
本日30日の読売新聞夕刊に、「三波春夫」についての記事が掲載されます。

 そして、来月6日の深夜といいますか「7日の3時台」ですが、NHKラジオ「ラジオ深夜便」で、三波春夫の歌がたくさん放送されます。 起きてますよー、というご状況でしたら、どうぞお聴きくださいませ!

 次回はまた来週、金曜日に更新いたします。

2016年10月07日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 儒士憲法 第一条①

 琴の和道 儒士憲法 第一条①

『儒はこれ五常の宗、五倫の源なり。
五常は身を修め倫を理す、
五倫は身を立て世に達す。
人、之を學ばざる則は禽獸の消息に落ち、永く君子の
威儀を失なわせむ、其の學ぶ所は人の和を先とすべし。』

<続きを読む>

  五常は、いっぺんに出来な~い!です。(笑)
先日、父のお知り合いでもあった方から、「お陰様です、という考え方が出来るのは、日本人独特の長所」という話を伺いましたが、 “おかげさま”という心持ちを忘れなければ、五常に近づく早道かもしれない…と思いました!

  ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年10月14日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 儒士憲法 第一条②

 琴の和道 儒士憲法 第一条②

 また、五倫という意味は、人生五つの道あり、と説いた孟子の教えによるものです。

<続きを読む>

1923年生まれの父が育った時代は現代よりも、親が親であった時代だったでしょう。
今の煩雑な世の中であっても、辛抱努力、がんばりましょう…。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年10月21日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 儒士憲法 第一条③

琴の和道 儒士憲法 第一条③

 次の”君臣に義あり”は、現代社会の会社組織に当てはめてみますと、松下幸之助氏の話の中に、

<続きを読む>

“人間社会に生きる者として、立派な行いをしなければならない”…。
シ、シビレますねぇっ。笑。
たしかに、正々堂々、明快な気持ちで日々を過ごしたいものですし、
それが、リッパに、通じることだと思います。

夫婦の話がありましたが、エピソードをひとつ。
ある時、父が、ご結婚カップルへの祝電を打った中に、このような言葉がありました。

『愛の深さとは、時間の長さです』

“だから、長い人生を二人でね。山や谷は二人で一緒に越えるんだぞ、と努力していってね”という思いをこめたのでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年10月28日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 儒士憲法 第二条

 斗の順道 儒士憲法 第二条

 『儒の宗と為すは、理を天極に取り、法を天度に尋よ。
 是れ古の聖は學を河洛に立て、天を崇め神に通す、
 人は天地の霊に曉る所以以て人倫と和し日用に應う。
 或るいは、天を捨て唯、日用と云い、神を捨て純ら人常と云うは
 學あって治むること無し、近きに似るも即ち遠からむ。』

<続きを読む>

 三波春夫で「神」となりますと、”お客様は神様です”の言葉を思い起こす方も多いかと…。
 この言葉の真意は、「歌うとき、あたかも神前で祈るときのように雑念を払って真っさらな心にならなければ、完璧な歌は歌えないのです。ですから、私はお客様を神様とみて、歌を歌うのです」という意味で、歌手としての思いが表れた言葉です。この言葉の中の”お客様”は、お店のお客様ではなく、三波春夫の歌を観て聴いていらっしゃる客席のお客様のことです!! 詳しくは、ホームページの「”お客様は神様です”について」にて、また、三波美夕紀著『昭和の歌藝人 三波春夫』に記載がございますので、ご興味アリの場合はご覧くださいませ。

 さて、「三波春夫没後十五年企画 山内惠介 市川由紀乃 三山ひろし スペシャルコンサート」は、25日に初日を迎え、本日は神戸国際会館。来週は4日に香川レクザムホール、5日に岡山市民会館に参ります!お近くの皆様、ぜひお出かけください。

 では、また来週金曜日に更新いたします。

2016年11月04日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 通蒙憲法 第三条

月の禮道 通蒙憲法 第三条

 『儒の學は禮樂にあり。禮は人の儀を道め樂は人の和を調う。
 禮を學んで天の節文に諧い、
 樂を學んで天の運度に諧う。
 我を節するは禮なり、是れ儀は天にありて即ち我にあり。
 我を節するは樂なり、是れ調は天にありて即ち我にあり。
 禮樂、天我、皆教えはーなり。維則ち一に至る道なり、
 是れ人倫の常たるを訓え、纔にも撩る則は禮にあらず、
 何ぞ道にあらむ。』

<続きを読む>

礼節と、人との和。
大人として大事なことが、今の時代、だいぶ軽視されていますね…。
憲法条文とはいえ、ホント、深くて厳しいですよね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年11月11日

聖徳太子憲法を読む 臺の政道 儒士憲法 第四条

臺の政道 儒士憲法 第四条

 『儒は是れ博識強記なり。
是れ致知機物を要とす、其の要は夫子の一貫たり。之を得るは則わち道なり。其の體は明徳。其の位は中庸。其の蹟は忠恕。曾子の忠恕を謂うは、空を謂うに非ず。王者は、尭、瞬、禹を師となし、臣者は周、孔、孟を師とせよ。
學ぶ所は徳にあり、故に徳なき賓は師となすに足ず。』

<続きを読む>

徳のある人…。そうですね、いらっしゃいますね。
徳ですからね、得のある人、じゃないですからね。笑。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年11月18日

聖徳太子憲法を読む 鏡の智道 儒士憲法 第五条

鏡の智道 儒士憲法 第五条

『學問は是れ習いてさとるのみ。
學ぶに先聖の蹟に習い、問うに先聖の理を?にす。
文以て之を乗せ、 或は蹟をすて、理を取り之を用いるを學と謂う。
蹟なきの理は空理。理なきの文は空文。
なんぞ周孔の道となさむ、故に人の先にありて人従わず或は従えども利なし。 』

<続きを読む>

自分が携わっている仕事や活動において、先人が開拓したことを見直してみて気付くこと、身に付くことってありますよね。
先輩の志を引き継いで工夫を重ねて、夢を実現させてゆく…。
それがいくつも出来たら、素敵です!
私めも、「三波春夫」の思いを継いでガンバルゾ、です。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年11月25日

聖徳太子憲法を読む 竹の官道 儒士憲法 第六条

竹の官道 儒士憲法 第六条

『儒の由るところ身を修むるのみ。
上古は、易暦遁甲あって修め、
中古は、本草内經あって修め、
下古は、詩書禮樂あって修む。道徳無為にして三古にわたり、
上は神を煉り眞に致り、中は心を煉り至に致り、
下は理を練り聖に致る。頃の儒は三皇を捨て三子を執る
此の間に偏我ありて、仁者の眉を密る所、
智者の唾を吐く所にして其の練る所を失う。
尚、遠きに下って當に、詩書禮樂を棄て、唯、理を後儒の
佞子に取り、周孔、於りも崇び道の廢れ制えられず。』

<続きを読む>

何事も、ハショってはいけないのですね。
学ぶ順序を端折ってしまっては、身に付いた気になっていても、偽物なんでしょうね…。

ではまた、来週金曜日に更新いたしますが、思えば来週は師走になりますね。

気忙しい季節、どうそご自愛くださいませ!!

2016年12月02日

聖徳太子憲法を読む 冠の位道 儒士憲法 第七条

冠の位道 儒士憲法 第七条

『儒を學ぶ者は異國園を貴び、異の先王に歸す。
故に吾國を卑しめ吾が先皇を放す、是れ唯異法を知りて
吾を知らざるに依るなり。
異王、吾に讐せば必ずや彼に黨を計らむ。
故に學を為さば先ず、吾の儒を學びて吾が先皇を知れ。
何ぞ誤りて自らを棄て他に憑らしむるや。』

<続きを読む>

今こそ、胸にズシンと来る内容です。
…聖徳太子がその当時に書かれたものなのに、と、あらためて思います、ね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年12月09日

聖徳太子憲法を読む 冠の位道 儒士憲法 第八条

冠の位道 儒士憲法 第八条

『大學を講ずるに、主上に非ざれば平天下を唱うる莫かれ。
宰職に非ざれば治國を説かざれ。恐らくは、庶民をして州邦を望ませしめ、造士をして天下を望ましめん。
これを齋元を破り、寶祚を危うくせむ。吾國の法は欲なく邪なきなり。其の望みを促す誨は悉く停止せよ。』

<続きを読む>

平和の尊さ、自由の尊さをしっかりと感じ考え、
各々が、これらを失うことのないように守る気概を持たなければならない、ですね。

さて、13日の20時からはBS11「あのスターにもう一度逢いたい」の三波春夫特集を、どうぞご覧ください!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年12月16日

聖徳太子憲法を読む 龍の謙道 儒士憲法 第九条

龍の謙道 儒士憲法 第九条

『儒士は湯武を以て聖となし師となす。
異國は理を尊ぶが故に咎なくも、吾國に臨みてはこれ齋元の
罪人なり。齋元の法を尊び、君の理を立てざるときは、
寶祚を危うくし以て天をも亡ぽすに當るなり。』

<続きを読む>

国の文化の違いは、永遠に課題ですね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2016年12月23日

聖徳太子憲法を読む 花の事道 儒士憲法 第十条

花の事道 儒士憲法 第十条

『異國を撃つは孔子より言あり。
孟子に於いて名あるは、是れ聖道に於いて害あればなり。
楊墨苟告は其の人なり。未だ曾て黄老西方に及ばず。
今の凡儒は恣逸にして、必ず黄老佛神に及ぶこと
孟子に足らざること無し、外に眞至佛神までも撃つ、
即ち聖を破り、政を破る。その罪、叛逆よりも甚だし。』

<続きを読む>

立派な条文、儒士の話のあとにナンですが、
他人をソシルのは、自分にきちんとした自信がないからではないか。
人には優しく、自分には厳しく、を自戒しなければ、ね!
というようなことを、父と話したことがあります。

新しい藝の形を追求していて、作品づくりをする日々で、父は、孤高であることを良しとすることも必要だったかと考えます。
心が強くないと、やり抜けないことであったろう、と身びいきで思う私です。恐縮です。

そういう、三波春夫の歌藝の宣伝マンでもあるハルオロイドが来週あたりに、音頭風「PPAP」をリリースします。

なかなか面白いんですよー。
You Tubeで、ご覧になってください!

さて、本年のブログは本日までとさせて頂きます。
この1年も、お読みくださいまして、ありがとうございました!!
来年は1月13日にスタートします。
よろしくお願い致します。

良いお年をお迎えくださいませ!!

2017年01月13日

聖徳太子憲法を読む 日の主道 儒士憲法第十一条

日の主道 儒士憲法第十一条

『孔子は怪力亂神を語らず。
其の欲む所は、常道の治倫にある故に語らず。
是れ異儒なるのみ。
吾國は彼の方と同じからず、怪は神の功用なり。
説かざるときは神徳を無みせむ、神は吾國の徳盤なり。
説かざるときは齋元を無みせん。強いて此の句に依る者は
吾國の罪人なり。』

<続きを読む>

本年第1回目のブログです。
この1年も、よろしくお願い致します。

小学館文庫から1998年に発刊された三波春夫の著書『聖徳太子憲法は生きている』をご紹介していますが、本日は、「通蒙憲法17条」「政家憲法17条」につづく「儒士憲法17条」のうちの第11条です。
本日の条文も、聖徳太子の作られたもので当時のものですが、父の解説にありますように、現代だからこそ、素直に深く読み取りたいものだと思います。

ちょっと非日常で、ムズカシイ条文を、また来週からご紹介して参りますが、お読み頂けますようお願い申し上げます!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年01月20日

聖徳太子憲法を読む 車の司道 儒士憲法 第十二条

車の司道 儒士憲法 第十二条

『神在ますが如しと謂うはここに亡きを以て、
ここに在りとなす句の氣なり。
是れ幽精冥霊を紫に歸し黄に歸すを祭る國の方なり。
吾國は、天降ります神、地生れます衹。
開闢このかた鎮座すは、幼児と雖も知らざることなし。
頻説施さば、恐らく鎮座を疑わしむ。
齋元国に於いて講説すること勿れ。』

<続きを読む>

自分の国の元々からの姿勢は、そんなの古いよ~と言わず、知っておくべきで、それを学んでおこうという意識は大事。
そういう考え方を、父はしておりました。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年01月27日

聖徳太子憲法を読む 地の徳道 儒士憲法 第十三条

地の徳道 儒士憲法 第十三条

『古儒は知りたるなり。
天に帝神ありて變あり、地に后衹ありて化あり、
人に霊魂ありて奇あり、物に精霊ありて怪あり。
皆天有なり、聖人は天有を立て人常を治む、
故に泰平を致して宗源に差わず。
頃の儒は神佛の通妙を損て虚す。
又、有に如って有りと為す則は、法も立ち人も伏がわむ、
有を劫めて無しと為す則は、法も揆れ人も逸ならむ。
故に皇制を弱め神力を抜く、
是れ政を知らず、只己を立てるなり。』

<続きを読む>

三波春夫の神仏への心構えは、「敬って恃まず」。
敬うけれどもアテにしない、自分の人生は自分の責任、というものでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年02月03日

聖徳太子憲法を読む 天の公道 儒士憲法 第十四条

天の公道 儒士憲法 第十四条

『學を為す者は須らく先儒に學んで後儒に依らざるべし。
先儒は鬼人に見えて黄泉を知る。これ古史の載する所なり、
故に人は伏って逸ならず、吾が神に背かず。
然るに後儒は鬼を歸と曾わせ野土と謂い、神を申すと解き空虚と言う、
未だ歸極の鬼と申と元神を察かにせず。
しかも大いに鬼魂冥府を發く。ああ、唯古史を破るのみに非ず。
天有を破り、人極を破り、鎭實を破り、政元を破る。
是れら傍に排けて政を顧みざるなり。』

<続きを読む>

「もともと」のもの、が、そのままに伝わるのは、とても難しいと思います。条文の大きなテーマから、急にワタクシゴトになりますが、私が『三波春夫』を皆様にお伝えする仕事をする上でも、よくそう思うのです。お伝えする機会ごとに、許される範囲で私が監修させて頂くのは、ウソやマチガイが伝わってゆくのを防ぐためです。ですから、三波春夫の歌藝を知って頂くために働いて貰っている「ハルオロイド・ミナミ」の歌についても、エクシングのスタッフと、テイチクの三波春夫担当のディレクターと私で、『三波春夫』を伝達出来るクオリティーにこだわって、制作しております。しかし、これも時間が限られたことでございますが…。
どんなことでも、改ざんされる以前のものに触れ、知っていくべきだと実感します。

そして、関連させてお知らせします!
三波春夫の「長編歌謡浪曲」を歌い継いでくださるので、私もアドバイスさせて頂いている歌い手さんが、5日夜のNHKBSプレミアム「新・BSにっぽんの歌」で、「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」をフルサイズで歌われます。
ぜひ、ご覧ください!!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年02月10日

聖徳太子憲法を読む 水の時道 儒士憲法 第十五条①

水の時道 儒士憲法 第十五条①

『後儒は神を陰陽の霊と謂う。
故に常の弱に鎮座することなしと云い、又、
魂は氣血の精なりと謂う。故に議りて死魂は散滅すと思う。
是れ人間の理量にして、神悌仙の見知に非ず。
鎮座を無みする則は、三輪 五瀬の立つ所を知らず。
魂、散滅する則は芳野、蒐挟、ここに何ぞ立たむ。
然るときは神に誓い、祇に服うも並び立たず。
政は其の堅きを失わむ。 』

<続きを読む>

このように、神様、御霊の在り方などが太子憲法に明記されているのですね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年02月17日

聖徳太子憲法を読む 水の時道 儒士憲法 第十五条②

水の時道 儒士憲法 第十五条②

 では、ここで少々、大物主という人のお話を致します。

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天照国照大神彦天火明奇甕玉饒速日尊は、あまてらす くにてらす おおかみひこ あめのほあかり みかくしだま にぎはやひのみこと と読みます。
この続きの解説は、次回に続きます。
また来週金曜日に更新いたします。

来週21日夜のNHK「うたコン」では、三波春夫の長編歌謡浪曲『元禄花の兄弟 赤垣源蔵』を山内惠介さん、三山ひろしさんがお二人で歌い語られます。

ぜひご覧ください!

2017年02月24日

聖徳太子憲法を読む 水の時道 儒士憲法 第十五条③

水の時道 儒士憲法 第十五条③

 後に日霊女女王が天照大神と尊称されたのは、神武天皇のお祖母さまで皇室の御先祖に当たるからですが、饒速日尊の娘・ 伊須気依姫が神武天皇の皇后となっておられますので、この御祭神も皇室の御先祖です。現に宮中祭記の行事の中には命日の十一月二十二日の夜、この尊の御魂を鎮めるお祭りがあるそうです。

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遥かな昔といえど、そこに人が生きて暮らして、代々の歴史が築かれて来たのですよね。
三波春夫いわく、「歴史とは、どこを切っても人間の血が噴き出すもの」。
歴史に大いに学びましょうよ、と、本を書いたのでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年03月03日

聖徳太子憲法を読む 籠の品道 儒士憲法 第十六条

籠の品道 儒士憲法 第十六条

『孔子は西方の聖人をたたえり、老子を龍なるかと美る。
然るに儒を學んで非るを以て務めとなし、或は寓言と言う。
孔子は聖人なり。列子は眞者なり。何ぞ餐に娩いて詐らむや。
老子は古儒にして沖莫の聖なり。無為の道體を説えり、
釋佛は天服い神も伏う尊なり。人間の測るに下ず、
誹るは是れ諍いは即ち騒の根なり。』

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ハッキリ、キッパリとした条文でした…。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年03月10日

聖徳太子憲法を読む 鼎の法道 儒士憲法 第十七条

鼎の法道 儒士憲法 第十七条

『神學は竪に三部ありて三元を総え、横に五鎭ありて六合を摂め、
汝の始めを明し、汝の今を治めむ。
佛學は竪に三學ありて五乗を導き、横に三諦ありて萬法を束ね、
汝の終えを教え、汝の今に應えり。
儒学は竪に五倫ありて人世を立て、横に五常ありて人道を修め、
神佛の始終に背かず。
共に理の絶極にして、挑み絶つべきに非ず。』

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ムズカシイ条文ですね。
三波春夫は、太子の思想の根本なのだと言っていますが、学問は偏らずに広く大きく学んで真実を掴むことが大事なのでしょうね。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年03月17日

聖徳太子憲法を読む 神職憲法十七条①

神職憲法十七条①

 神職憲法に入る前に……、私が「神様」と言いますと、『お客様は神様です』のフレーズを思い出す方がいらっしゃるようなので、少々脱線をしますが、これについてお話をします。

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補足いたしますと、”お客様は神様です”の”お客様”というのは、三波春夫の歌を聴いてくださっているお客様、聴衆のことです。
飲食店やコンビニのお客様でもなければ、タクシーやバスの乗客でもありません。
”お客様は神様です”は、三波春夫がお客様の前で藝を披露するときの信条を表現したもので、三波春夫と聴衆との関係に限ってのこと、です。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年03月24日

聖徳太子憲法を読む 神職憲法十七条②

神職憲法十七条②

 ところで、一万年前の人骨を調べたデータをみますと、日本人は三十歳以上生きた人はいないそうです。その頃の人々は生きていることの厳しい条件に耐えねばなりませんでした。想像を絶するものだったでしょう。静かな朝が来て、輝き昇る太陽に手を合わせ、拍手打って今日の無事を願い、タ陽に感謝の祈りを捧げたのは自然の形でした。

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日本のもともとの神道は、宗教ではない、理屈なく自然に仰ぐ、ということなのでしょうね。
次回から条文のご紹介です。

また来週、金曜日に更新いたします。

2017年03月31日

聖徳太子憲法を読む 琴の和道 神職憲法 第一条

琴の和道 神職憲法 第一条

『神道は三才の本にして、萬法の根なり。
宗源は天地を成し、齋元は日祚を立て、霊宗は心姓を明かにす。
三部の道はーなるも施を異にし、之を以て體となす。
大社は天下を衛り、國社は國家を護り、懸社は群民を守る。
三社は風雨を領し禍福を掌る。之を以て用となし、
體用は其の治をーにして、吾國の基となす。
祭るに禮を以てし、祈るに理を以てし、事るに信を以てす。
則ち神我、一に和す道は茲にあり。』

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全国にたくさんいらっしゃる神職の方々には、この太子憲法をあらためて深く読み込んで頂ければ、またよろしいかと存じました!!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年04月07日

聖徳太子憲法を読む 斗の順道 神職憲法 第二条

斗の順道 神職憲法 第二条

『神は正直を以て體となす。
霊験を以て用きと為すに、天を御し地を鎭す。
故に神職は、己の正直眞善の性を認得て敢えて放遺さず、
神の妙怪霊験の徳を信崇せよ。
更に馴れ慢らず神我一に住め事え奉り拝ずき陪るべし。』

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まだまだ、神職への条文は続きます。
付いて来てくださーい!! (笑)

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年04月14日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 神職憲法 第三条①

月の禮道 神職憲法 第三条①

『奉幣の法は愼み敬いに止まるべし。
日心を神極に安き、重手に玉串を取り、以て斜にし心に中て、
左足は陽天を踐み、右足は陰天を践む。廣前を渡るに静静然、
巌巌如し、而して内門に陪り敬しく蹲踞せよ。
自己は神の霊躬、寶幣は神の表識、
祝言は神の性理、正殿は神の徳宮、奉供は神の氣生。
五法の正は一つ、之を奉るに禮を以てせよ。』

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この条文の、三波春夫の解説は、次回に掲載いたします。

さて、4月14日は三波春夫が逝去した日付です。
毎年のこの日も、そしていつも、「三波春夫」を想ってくださる皆様に、心より感謝いたしております!!
本日、テイチクレコードから『三波春夫大全集』がリリースされました。CD2枚組で、楽しい歌、じっくり語る歌、満載です!!
また、三波春夫の歌藝の宣伝マンである「ハルオロイド」は、英語版の、『世界の国からこんにちは』を発表しました。動画や配信でお楽しみください!!

これからも「三波春夫」の歌と心とその人生を、大勢の方がお伝え出来ますように努力して参ります。
改めまして、これからもどうぞよろしくお願い致します!!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年04月21日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 神職憲法 第三条②

月の禮道 神職憲法 第三条②

 私たちが神社参拝をするとき、なんと言っても神主さんの動きはとても大切な意味を感じます。堂々としていて謙虚に、厳かに、礼を尽くすという姿が理想です。

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 確かに、年齢に関係なく、ヒョロヒョロとしたお声の神主さんもいらっしゃいますので、そういう方にはゼヒ、三波春夫の長編歌謡浪曲など聴いて頂き、腹から声を出そう!と思って頂けないでしょうか…。
というのは冗談ですが。

 次回、神社の御祭神の話が続きます。
 また来週金曜日に更新いたします。

2017年04月28日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 神職憲法 第三条③

月の禮道 神職憲法 第三条③

 東京・赤坂の山王日枝神社は、素佐之男尊の第五子「饒速日命」で、前に書いた大和王朝の初代です。徳川将軍が江戸の鎮守様としてお祀り申し上げましたが、おそらく奈良の三輪山から勧請したものと思います。

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文中の、「国津神」は「くにつかみ」  「天津神」は「あまつかみ」  「宇迦」は「うが」  「牛頭」は「ごず」  「弥栄」は「いやさか」  「大日霊女貴尊」は「おおひみこむちのみこと」 と読みます。

では、次回は5月12日に更新いたします!!

2017年05月12日

聖徳太子憲法を読む 臺の政道 神職憲法第四条

臺の政道 神職憲法第四条

『神に事るの道は誠信に止どまり、神境を測らざれ。
之を測るは聖人すら尚、能わず況んや凡夫をや。
故に愚の如く誠信に止どまるべし、
妄に測らば神意に稱わず。』

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謙虚に本分をわきまえて、ですね。

さて、明日は18時半~のBS-TBSの特番を是非ご覧ください!!
稀なる演出で見応えある「大忠臣蔵」の歌絵巻、と、ヒットパレードの2部仕立て。
どうぞお楽しみに!!

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年05月19日

聖徳太子憲法を読む 鏡の智道 神職憲法第五条

鏡の智道 神職憲法第五条

『社の行法は恭敬に止まれ。神は是れを眞明の境なり、
之に由りて社事の百箇は皆く
霊事なり。等簡の仕方は焉んぞ之を能くせしむ。
故に、崇尊を致し、敬恭に格せよ。』

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神職に限らず、ですよね。
真摯な心、真心を大切にして仕事をする、暮らすことは、父も心掛けていたことだったと思います。
毛筆で書く色紙の言葉の中に、”真心”もありました。
色紙は、例えば駅頭や劇場の楽屋口などで急に「お願いしまーす!」と頼まれる以外は、出来る限り毛筆で書いて落款するタイプでした。
「サイン色紙は残るものでもあるので」と、真心こめて書いていました。

では、また来週金曜日に更新いたします。

2017年05月26日

聖徳太子憲法を読む 竹の官道 神職憲法第六条

竹の官道 神職憲法第六条

『齋の方制は、五齋を調えるにあり。
いわゆる、五齋とは火食行水則の是れなり。
火は生死血獣に同ぜず。食は毛畜臭菜は食わず。
行は婬血産尸に触れず。
水は嚴く流沐連齋を行う。則は重く祓除祝言を修う。
職者は常の行い、詣者は限りての行い、忽せにして神を、
誑す則は身を亡ほさむ。』

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精神統一、邪心無く。気合いを入れて何かをするとき、それで参りましょう。
三波春夫の「お客様は神様です」の心も同じく、です。
「舞台という神聖な場所、真剣勝負の場所で、いかに雑念を払って歌うことに集中するかが大事だと思います。ですから、聴衆というお客様を神と観て、神前に立った時のように澄み切った心で藝をおこなわなければ、良い歌も芝居も出来ないと思うのです」という心境なのでした。

では、また来週金曜日に更新いたします!

2017年06月02日

聖徳太子憲法を読む 冠の位道 神職憲法 第七条

冠の位道 神職憲法 第七条

『祭供の由るところ常者は神恩に謝し、別者は災禍を祓う。
故に祭る則はむかしの若くし、略して残をもちいず、軽疎に
為ず。供儀は、法の如くし供に悋惜を以てせざれ。倹約を
加えず。供除を蓄えず。黨從に別けず。供具は納めず。
之れ皆、河流に随し、喜悦と軟和を以て之を行い、荒しく
威かし瞋らざれ、是れ神祭なり。』

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 伊勢神宮のお話が出て来ましたが、三波春夫は1967(昭和42)年に「第60回式年遷宮の歌」として『伊勢神宮奉賛歌 日本の祈り』を奉唱しています。また、『お木曳音頭』も歌っていて、現在でもご当地で踊って頂いています。
 この2曲は同年の5月に全国発売されていますが、『日本の祈り』は三波の逝去後も神宮から再プレスのご注文があり、式典での記念品のひとつとして配布されました。
 格調のある、清々しい歌で、配信もされていますので、一度お聴き頂けましたら幸いです。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年06月09日

聖徳太子憲法を読む 契の信道 神職憲法 第八条

契の信道 神職憲法 第八条

『神事を説くは文に如うべし。事を演るに義解を以てせざれ、
神代は正直の時なり。史を造るに文に義を含むことを為さず、
後生は異典に効いて義解を發す理曾は神文をして異文と成し、
寓説と造言は免れず』

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条文を読んで思いつく言葉は、「虎の威を借るキツネ」。
世の中に、たくさんいらっしゃいます、ね。
私、三波春夫のマネージャーとして傍で仕事をしているときに、
それになったらイカン、と、心掛けました。苦笑。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年06月16日

聖徳太子憲法を読む 龍の謙道 神職憲法 第九条

龍の謙道 神職憲法 第九条

『神の行いは、信を先とし理を次ぎとせよ。
理はこれ賢に非らざれば徹らず。聖に非らざれば盡さず。
徹らざる則は知を差え、盡さざる則は邪に悟り、還って神を
無し、乍ち咎に當らむ。信を堅め、宗を堅め、實に依って理を
明らかにせよ。達らずと雖も過ちは無からむ。』

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仕事でもスポーツでも同じように、素人同然の頃は、「理屈を言わずに、まずやってみなさい」と言われますものね。
頭デッカチはダメだよ、と親にも言われた気がします。笑。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2017年06月23日

聖徳太子憲法を読む 花の事道 神職憲法 第十条

花の事道 神職憲法 第十条

『本蹟縁起の齋は社祠に依って異なるなり。
陰屋、出郷は限に屈い還り入りざれ、
自詣、他詣は理を用い赦し納れざれ。
忌齋は厳秘なれば以て神鎮まり社立つ、職者は倦み泥みて
忽せに為すときは、神は去り社も廢れる。』

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そうなりますと…今や、神様が去られていて空っぽの神社、に、知らずに参拝していることも、有るのでしょうね!?

ではまた、来週金曜日に更新いたします。