著書 アーカイブ

2007年04月16日

「すべてを我が師として」について

三波春夫の最初の著書「すべてを我が師として」のご紹介です。

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はじめに

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

<八島>
この「はじめに」から自叙伝が始まります。
一生に一作の心で“えいやっ”と書き上げた初めての著作です。 
しかし、三波はこの本のほかに生涯で7冊の著作を出版しました。
それにつきましては、またの機会にご紹介させていただきます。

2007年04月17日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より


 大正十二年七月十九日、つまり関東大震災の一ヶ月半ばかり前、新潟県三島郡越路町塚山という田舎町に、一人の男の子が生まれました。

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<八島>
自然の幸ゆたかな故郷で遊んだ少年時代。
「夏休みの間、朝、遊びにでかけるときに塩を持って家を出るんだよ」と、
私に話してくれたことがありました。「汗をかくから、塩分補給?」とききますと、
「違うの。畑でなってるキュウリとかトマトとか失敬して、その塩をかけて食べたわけ。
ハハハ。当時の子どもはそうなんだよ、知ってる家の畑だもの」
・・・大らかなものだったようです。

2007年04月18日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 わりにおマセだった私は、実家が本屋だったせいもあって、七つ、八つのころから本を読むのが好きで、店の棚から手当たり次第に本を引っ張り出して、読みふけっていました。

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<八島>
“本屋の文ちゃん”と呼ばれた三波は、
本屋の息子の特権で週刊の少年誌をいち早く読んで、
(あとで売り物になるように、ページに傷をつけないように読んで・・・)
それをクラスの皆に話して聞かせて喜ばれていたそうです。

2007年04月19日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和五年九月九日、私が七つの時でした。「世界中でいちばん好きな人」と、私が口ぐせのようにいっていた母が、私たち三人の子供達を残して、とつぜんこの世を去ったことです。病名は腸チフス。
 幼い私は、教えられたとおり「南無阿弥陀仏」と口で唱えながら、母のなきがらを湯かんする祖母の姿を、うつろな目で見つめていました。うつろな目-というのは、そのとき私もまた、母と同じ病に犯されていたのでした。

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2007年04月20日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私が病院で、生死の境をさまよっているうちに、母の葬儀は
終わりました。
 父は、母を失った私たち三人の子供たちのために、これまで以上に商売にも意欲を燃やし、強く生きる決心をしたようでした。

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<八島>
当ブログは、月~金曜の毎日更新、土・日曜と祝日は更新を
お休みさせていただきます。
続きはまた来週にご高覧くださいませ。

2007年04月23日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その淋しさからか、父は夜になると、姉、兄、私の三人を茶の間に集め、民謡を教えてくれました。『佐渡おけさ』『江差追分』『米山甚句』『三階節』『安来節』など。
私はまだ、民謡のよさなんか分かる年ではありませんでしたが、父のうたう民謡が、ひどく悲しいものだと感じたことを覚えています。

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<八島>
 民謡を父親が教えてくれたことについて、「歌手になる道を父がつけてくれたのです」と語っていました。
民謡を習ったのをきっかけに、すっかり歌うことが好きになり、当時全盛の浪曲にも夢中になりました。
 故郷は米どころでしたから、田植え、稲刈りの時期には近所総出で農作業となりますが、そんなときには文司少年ははりきって畦道に立ち、ラジカセ代わりとなって民謡、唱歌、浪曲と、知っている限りの歌を唄いました。
「おお、きょうも文ちゃん、いい声だのう」「唄ってくれると作業もはかどるのう」とおじさん、おばさんが喜んでくれる。“ボクが唄うとみんなが喜んでくれる。
人を喜ばせるのは、いいなあ。歌は、いいなあ”これが歌手・三波春夫の原点でした。
 “人気者だった子ども”としての余談ですが、文司が赤ん坊の頃のこと。
両親が出先の列車の中、腕に抱いた文司を隣の人が見て「まあ、なんと笑顔がいい子だこと」、と、後ろの人が覗き込んで「まーあ、ほんとにねえ」。と、また次の人が抱き取って。
次々にカワイイと言われて送られて、とうとう車両を一周して戻ってきたそうです。
三波春夫の笑顔はその時すでに確立されていた、のでしょうか・・・!?

2007年04月24日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私はワンパク坊主だったけれど、末っ子だったせいか、母にはずいぶんかわいがられて、母はその死の直前にも、
「文司、文司」
 と私の名前を呼びつづけていたそうです。いまでも姉は、会うたびに、
「お母さんは死ぬまぎわまで、お前のことを心配していたのよ」
 といいます。
 

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<八島>
 私が三波の娘に生れて以来、ずっと見て来た経験上、三波春夫は礼儀に篤い常識人でした。
ですから“小学校時代はいたずらっ子でワンパクで”というのは「ホントですか?」と思います。
が、この特別に元気だった子どもというのが当人の本質であり、それがあっての三波の生涯の仕事量の盛大さ、猪突猛進型なエネルギーの溢れ具合だったのか、と合点が行きます。

2007年04月25日

“第二の母”とともに その1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 母がこの世を去って以来、ひっそりと淋しく、ともすれば暗い雰囲気の漂いがちだったわが家へ、叔父たちや、見知らぬ人たちの出入りがはげしくなり、なにかあわただしく、華やいだ空気がただようようになりました。

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2007年04月26日

“第二の母”とともに その2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 この母は、隣町の刈羽群七日町の生まれで、名前はハナ。その名前のように心の優しい人でした。
東京の日本橋へ嫁いでいたのですが、夫君に死別して郷里へ帰っていたところを、父との縁談がまとまったわけです。

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<八島>
 君子さんは私の伯母にあたりますが、伯母と父がこのときの思い出話をするときは本当に大笑いをして、良い風景でございました。

2007年04月27日

“第二の母”とともに その3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、新しい母に対して、なにひとつ気兼ねなどしないどころか、
わがままいっぱいにふるまいました。
母もまた、そんな私を心からかわいがってくれました。
 それは私が、“第二の母”を“ほんとうの母”として甘え、またひとつには、私がいちばん年下だったせいもありましょう。

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<八島>
 24日にも書きましたが、後年の三波春夫の仕事のエネルギーは十二分なものでしたが、その本質が出てしまっていたのか、子ども時代は本当に元気すぎて力が余っていたようです。

2007年05月07日

“第二の母”とともに その4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 最近私は、舞台や映画、テレビでときどき、あまりうまくもないチャンバラをお見せしていますが、母は私のチャンバラを見るたびに、あばれものだった少年時代の私に泣かされたことを、思い出しているに違いありません。

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<八島>
 家計が傾いた原因は、三波の父親が商売人として上手ではなかったということです。しかし、この時代の、豊かではない村の一地区だったことも遠因だったと、当時を知る人から聞きました。
そのためもあってか、社会経済的にお金がまわっている東京に出る決心をしたようです。

2007年05月08日

“第二の母”とともに その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和十一年、ちょうど私が中学一年生のときでした。秋も終わろうとする十一月二十日。私たち一家は、夜汽車に乗って、逃げるように故郷の町を発ったのでした。

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2007年05月09日

“第二の母”とともに その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 小学生時分の私はスキーと相撲の選手でした。背は大きいほうではありませんでしたが、わりあいにからだががっちりしていて、クラスの中でも力の強いほうだったので、全校から十人選ばれて、県下の対抗試合に出たこともあります。

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<八島>
 夜逃げ同然の上京の予定を事前にクラスメイトに話せるはずがなく、その“決行”までの何日かの間で、自分の持ち物の筆箱や本などを少しずつ友達にあげたそうです。「なんだよ文ちゃん、気前がいいなあ」と言われても理由は説明出来ず、別れのあいさつも出来なかったそうです。

2007年05月10日

“第二の母”とともに その7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 夜汽車は、ひっそりと生れ故郷の駅を離れました。


もちろん、誰ひとり見送りに来てくれる人もなく、淋しい旅立ちでした。

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2007年05月11日

“第二の母”とともに その8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 車窓に流れ去る夜景を、ぼんやり眺めている私の目に、広々とつづく畑の中にポツンと一軒、明るく灯をともした家が映りました。あたたかそうな灯の色でした。

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<八島>
 夜、列車の窓から明かりのついた家々の景色を眺めていると、ちょっとセンチメンタルな気分になったりしますよね。マネージャーとして三波と一緒に、夜の列車に何度も乗りましたが、窓から見える景色が物悲しいことについて話したことがあります。三波は、この上京のときの夜汽車の思い出を話しながら、「いやー、なんっともいえないさみしさだったよ。こどもだったから、これからどうなるのか想像も出来なかったからね…」。
暗い雰囲気、というものが大嫌いな人でしたし、さぞかし辛い思いの列車の旅だったと思われました。
 では、また来週月曜日に。

2007年05月14日

“浪曲に悲しみを忘れて” その1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 東京に着いた私たち一家は、いったん京橋・八丁堀の母方の叔母の家に落ちつきました。


 しかし、一日も遊んでいるわけには行きません。私もさっそく"他人のメシ"を食う生活にとびこんでいかなければなりませんでした。

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<八島>
親が作った借金を返す手助けのために、住み込みの奉公暮らしが始まりました。13歳のこのときが、社会に出て働く道のスタートでした。

2007年05月15日

“浪曲に悲しみを忘れて” その2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、自転車でお米の配達をしながら、いつも好きな米若節(よねわかぶし)や虎造節(とらぞうぶし)の浪曲をうなっていました。


 そのころの東京は、現在のような交通地獄ではなく、広い大通りを、大きな声をはりあげてうなりながら、自転車で走るのは、私のいちばんの楽しみでした。

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<八島>
三波から聞いた、このあたりのエピソードをひとつ。
築地場外の天婦羅屋さんにお米を配達するときに、店の前で不覚にも自転車ごと転んで、荷台のお米の袋が破けて道路にザザーッ…。それを見て天婦羅やのご主人は怒ることもなく一緒に米を拾ってくれて「これ、食べていきな」と天丼をご馳走してくれたそうです…。

2007年05月16日

“浪曲に悲しみを忘れて” その3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 自転車の上や、公休日に公園でうなった浪曲。まだ浪曲で身を立てようという、はっきりした考えを持っていたわけではありませんが、当時はただ、浪曲をうなっているだけで、辛いこと、悲しいことなどが、霧のように消えて行ったのです。それほど私は浪曲が好きでした。

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<八島>
文中に、「各人各様の生活を裏から眺めた体験」とありますが、本日も三波が話していたエピソードをひとつ。 
『米を配達するのには、お得意様の玄関からは入らず、勝手口から「こんちはー、毎度」と入るわけだけれども、その勝手口で目に入るその家の人たちの履物。それがきちんと並んでいる家は勘定の支払いも良い。しかし、履物があっちを向いていたりこっちに脱ぎ捨てていたりと、散らかっている家は代金の支払いも滞る。不思議ですがホントのことでしたよ』

2007年05月17日

“浪曲に悲しみを忘れて” その4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 とにかく、米屋の小僧時代は、いまにして思えば、辛かったけれども、ほろ苦く、またほほえましい思い出となっています。


 そして私は、第二の勤め先の製麺工場へと移って行ったのです。

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<八島>
 少々話が逸れますが、製麺所に関連して麺類の話。三波の生まれた所は米どころでしたが、ハレの日の祝い膳は麺類だったそうです。そのせいかは解りませんが、三波の好物のひとつが麺類でした。大阪へ伺えば“きざみうどん”、長崎では“ちゃんぽん”、ロサンゼルスのビバリーウィルシャーホテルのラウンジではエンゼルヘアーのパスタを毎日!?
でもやはり、故郷の新潟の十日町蕎麦が一番のお気に入りでした。「へぎそば」という「ふのり」入りののど越しなめらかなお蕎麦です。当地に伺った時には必ず、仕事の合間にツルツルと戴いていました。あるときなどは、帰京して体重を量ったらしっかりと増加していた、というくらい堪能しておりました。

2007年05月18日

“浪曲に悲しみを忘れて” その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その後、台本を前にして新しい節づけ、セリフのメリハリをつけることが、私の勉強法となりました。従って先輩からの口伝というものは後にも先にも一席きりでした。

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<八島>
 物凄く集中力があったようですが、この気質は後々、いろいろなことを成し遂げていくことに結びついて参ります。
 では、また来週月曜日に。

2007年05月21日

“浪曲に悲しみを忘れて” その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、私は工場の仕事を怠けていたわけではありません。夏の忙しいときなど、朝の六時から深夜の二時までぶっ続けに働きました。その過労で、あるときなど、脳貧血を起こして倒れ、人事不省になったこともあります。或る時、左手に十六針も縫うような大怪我をしたこともありましたが、そのときは、母がえらい見幕で、主人のところへどなりこんで来ました。

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<八島>
 このときのケガの痕は、三波の左手の甲にごく小さく残っていました。
歌手・三波春夫のステージでの大きなアクションは特徴的でしたが、手の動きも注目されるものでした。ファンの方々はよくご覧になっていて「三波先生の手が分厚くて丸目でいいわぁ!」と、その手までも気に入ってくださっていました。三波春夫の手はマイクを握り、ファンの方々と握手をし、筆を常に使い色紙や原稿を書いて過ごしたのでしたが、たまの息抜きにはゴルフクラブを握ったものでした。ゴルフは昭和30年代後半から始めていて、大好きでした。腕前ですか?ハンディは13でした。

2007年05月22日

“浪曲に悲しみを忘れて” その7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そして、私はついにある日、おもいきって寿々木米若先生に入門願いを出したのです。『佐渡情話』が大好きだったこと、米若先生が私と同じ新潟県出身で、浪曲界で一番に尊敬している方だったからです。

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<八島>
 当時の大人気の浪曲家のおひとりである寿々木米若さんは、「佐渡へ佐渡へと草木もなびく」の『出世佐渡情話』でお馴染みでしたが、少しだけ新潟訛りが音調にあり、それが何とも言えぬ味がある名人でした。のちに三波春夫が歌手として世に出たあとも、米若さんとは交誼を重ねさせていただいておりました。

2007年05月23日

“浪曲に悲しみを忘れて” その8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 魚のセリというのは、たいへんむずかしいもので、私はとても正面からじゃ駄目だ、うら口からと考えて有利にセリを落としてもらおうと、市場のセリ人が近所の銭湯へ来るのを待ち伏せして、いっしょに風呂へはいり、背中を流したり、お湯をくんでやったり、いろいろサービスにつとめたあげく、翌日のセリを頼むのです。

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<八島>
 三波が取材などで半生を語る折に、この頃の話になって、符丁を使ったセリの様子を再現して話をすると、皆さん驚かれていました。「え、そんなこと、やってらしたんですか」…。
意外な過去のひとつでした。

2007年05月24日

“浪曲に悲しみを忘れて” その9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そのころ、浅草の金竜館に、米若先生が出ておられたので、私は友だちを誘って聞きに行きました。
 舞台の熱演に聞きほれ、見とれているうちに、私は気がつかなかったのですが、まわりの人がじろじろ私を見ていました。

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<八島>
 ものすごい熱情だったわけですね。客席にいたとき、の話で思い出しましたが、私がマネージャーだった時期のこと、三波夫婦とともに歌舞伎座で市川猿之助さんの歌舞伎を拝見。母と私が三波を挟んで三人並んで観劇。そして見つめる舞台の猿之助さんの見事な早変わりに三波が大喜びとなり「オオッホッホ」と声を上げ、その声が響き渡るほど大きい上にまさに三波春夫の声。・・・母と私は同時に三波の脇腹をこづいたものでした。

2007年05月25日

“南篠文若の誕生” その1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 それから間もなくのことです。不幸にも叔父が死に、川悦の店も閉めなければならない時が近づきました。
 夜おそく、叔母と二人で、帳簿に赤インキで、十円、二十円、と書きこなまければならない辛さ。私は叔母が気の毒でなりませんでした。

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<八島>
  この学校にめぐり会ったことで、三波はずっと師匠を持たずで、どなたの門下・派閥に入ることはありませんでした。
 では、また来週月曜日に。

2007年05月28日

“南篠文若の誕生” その2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 学校は、当時本郷にあった日本大学芸術学部の建物の地下にあったように思います。生徒はぜんぶで三十人ほど。私は魚河岸のひけが早いので、いつもいちばん先に行って、先生も生徒も、だれもいない地下室の教室で、みんなが来るまで毎日三時間ぐらい、ひとりでうなっていたものです。

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<八島>
 毎日3時間は自主トレという熱の入り方。三波らしいと思います。歌づくり、歌うことについては本当に何時間でも、時を忘れる人でした。

2007年05月29日

“南篠文若の誕生” その3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 初舞台は、入学してから一ヶ月もたたない十月の十五日。麻布六本木にあった新歌舞伎座という大きな寄席でした。
 前座にあがって二十分。なにしろ親戚の連中や友だちが、大勢聞きに来てくれたので、たいへんな拍手でした。ところが、二つ目にあがった人が、まるで下手なので、二日目からは私を先生が二つ目に変えてくれました。

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<八島>
前座、二つ目、三つ目…モタレ、トリという具合に、高座が深くなるというのは出番が後の方になり、実力・人気が認められて看板さんになるということです。
 もちろんこの頃はまだ実力もなく、駆け出しの浪曲家でありました。

2007年05月30日

“南篠文若の誕生” その4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 三ヵ月ほどたったとき、前記の小峰甚太郎さんのお世話で魚河岸有志がテーブル掛けを贈って下さいました。
八丁堀の住吉亭で、その披露をし、私はモタレを読ませてもらいました。

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<八島>
 昨日の続きですが、モタレとはトリの前。良いポジションの出番です。テーブル掛けの披露ということで南篠文若のお客様も多いので、席亭さんのご厚意もあったのです。
 “テーブル掛け”はお判りになりますか? 浪曲のステージングは、浪曲の発展途上に桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)という名人が演出して確立された独特のスタイルがあります。それは、《舞台中央に金屏風を背負って演者が立ち、演者と屏風の間には背もたれが高い椅子。演者の前に演台のテーブル。その下手(しもて:舞台に向かって左)横に湯呑みを置く背の高い台。上手(かみて)下手にも屏風が立てられ、その前に各々小さな台。演台や台に、富士山の形に台形に裾を長くしたテーブル掛けがかけられる。演者の演台のテーブル掛けの正面には絵柄が描かれ、○○丈江(芸人に敬意を込めて、○○さんへ、という意味)と名前が入り、贈り主の名前も入る。両脇のテーブルも連動した絵柄が書かれている》という具合です。
 このような舞台は日本らしい様式美です。一度ご覧になりたい方は、「三波春夫 芸能生活55周年記念リサイタル」DVDまたはVTRの冒頭場面に登場いたしますので、是非ご覧下さい!その場面では、三波が半生をコンパクトに浪曲で語っているので面白いですよ。

2007年05月31日

“南篠文若の誕生” その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 小さな町や村の、大小さまざまな劇場。ときには大きな農家の座敷で口演したりしましたが、芸の反響が手にとるように分かりました。が夢中で演ったという方が当っておりましょうか。
その後は、学校の先輩である雲井、上村、落合、堀井の四氏は、年端の行かぬ私に、いろんなことを親切に指導してくれました。

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<八島>
 この時代、浪曲は娯楽の王者のうちのひとつです。今のように家に居ながらにテレビで娯楽を観られるのとは違い、料金を支払って客席の人となって、初めて観覧出来るわけです。ですから、当時のお客様の見る目はたいへん肥えていて怖かったそうです。
ダメな浪曲だと上演中にお客様が舞台に上がって来て「あー、ダメだダメだ、こんなの聞いちゃいられねえ!」と、サーッと幕を引いてしまうそうです。
三波は幸いそんな羽目にはならなかったそうですが、若い時分に目の前で先輩がその目にあったのを目撃した時には身震いがしたと言っていました。
特に、漁師町のお客様は反応がハッキリしていて怖い場所だったとのこと。一人がリーダーとなって「あーあ、まっずい浪花節だねえ。おい、やるかい、そーれっ!」と声をかけ、大勢が下足を預けた時に受け取った木札を手に、客席の床や齧り付きから手を出した舞台の板の上で、“チャッチャカ、チャッチャカ・・・・・”と音を鳴らして、リズムを揃えた全員の木札パーカッションが始まり、演者は顔色もなく恥じ入ったまま舞台をおりる、ということが展開された土地もあったそうです。
 演者とお客様の丁々発止。現代よりも厳しいものだったように思えます。

2007年06月01日

“南篠文若の誕生” その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私はそれ以来、洋楽の楽譜を無視しては、浪曲の発展はないというふうに、考えるようになりました。
 しかし、発声法を改めた当時の声は、まるで傷だらけの声帯から細々と出るような、情けないありさまで、半年間というものは、私の口演に対して拍手の音ひとつ聞くことができず、身の細る思いをしました。

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<八島>
 文中の“先輩の言葉”は藝界ではよく言われていた言葉でした。「芸人は金の事を考えるな」は、“金銭感覚を失くしてよいです、芸人は特別な職業だから”などという意味では勿論ありません。もうひとつの格言もそうですが、言わんとしているのは“頭で物を考えて、こまごまとソロバンを弾いてみたり、目先のことへの欲に囚われてはいけない。藝の向上を一心に念じて研鑽し、心でものごとに当たるべし。
そのためには確かな心構えを築いていく努力をしなさい”の意だと思います。
よく言われることに、藝は人なり、という言葉がありますが、三波自身も「昔から『楽屋が舞台に出るよ』と言われるとおり、普段やっていることや考えていることが自分の藝に出ます」と話し、それを肝に銘じて努力を続けた人でした。
 これに微妙に付随する?話とお聞き下さい。私が以前聞いたときに、思わず吹き出した話があります。三波がゴルフ場で、初対面の中年男性と一緒にラウンドしたのですが、終った後でその方が漏らした感想は「三波春夫はどんな性格なのやら、と思っていたら、まぁ実に性格がいいんですねえ、マナーもいいし」。
それまで三波春夫はどんな横暴者と思われていたんでしょうか。
それにしても、この感想をおっしゃった方はまた随分正直な方ですよね。言われたその時に三波は明るい苦笑。皆で大笑いをしたそうです。

2007年06月04日

“南篠文若の誕生” その7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 それから七ヵ月。飛騨の高山の劇場に出ていた私は、ほんとうに久しぶりで客席の拍手を浴びました。
やっと、声が思い通りに出るようになっていたのです。あの高山の拍手を、私はいまでも忘れることができません。それほど嬉しかったのです。

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<八島>
 まさに修行時代という日々。当時の交通機関の状況を考えると、旅廻りは肉体的にハードだったでしょうが、若かったのでそれも乗り越えられたのですね。
私がマネージャーになりたての頃、三波に「今回の旅公演の移動は、ここからここへの列車の乗り継ぎがうまくなく、時間もロスします。また、結構気ぜわしい移動もあります・・・」と説明しましたら「大丈夫だよ、僕は。旅は憂いもの辛いものってね。慣れてますよ」とニッコリ。
申し訳ないスケジュールだと恐縮して説明していた新人マネージャーはとてもホッとしたことがありました。

2007年06月05日

“南篠文若の誕生” その8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

  おん僧のきょうも留守なり山ざくら
 これは歌舞伎の大御所、故中村吉右衛門先生が、伊豆の修禅寺の監守(一山の支配人)黙雷和尚に贈った俳句です。

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<八島>
「吉右衛門先生」とは、大名人と謳われた初代・中村吉右衛門さんのこと。現在の二代目・吉右衛門さんのご祖父(ご養父)にあたられる方です。

2007年06月06日

“南篠文若の誕生” その9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「貴君はいま、何の勉強をしてますか?」
「はあ?…」
「どんな勉強をしていますか?」
畳みこんでの質問に、私はちょっとどぎまぎしながら、
「はあ、一生けんめい浪花節の勉強をしております」
と、答えました。

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<八島>
芝居の一場面のようですね。ご人格・芸格備わった名人は、一目見ただけで南篠文若がまだまだ若い考えの人間だと見抜かれたのてしょうね。

2007年06月07日

“南篠文若の誕生” その10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 人生を知れば、おのずから自分の芸に、より広い幅と、より深い磨きがかかって来るという教訓なのです。
みじかな、お言葉の中に含まれている大きな意味、私は、ますます体が固くなって、この偉大な名優の前に、頭を垂れるだけでした。
 このことがあった後で、叔父は、吉右衛門先生の芸に一分のスキのない話。
さらに、自からスキをこしらえる話などを聞かせてくれ、自分でお経を唱えながら、浪曲の節廻しについて教えてくれたのです。

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<八島>
  スキの無い藝と、またあるところではスキのある藝。それでお客様は心を強く掴まれたり、緩やかに気持ちよく心を囚われたりして大満足となるわけですね。ですねと言ってもこれは誰でもが出来るわけではないですけれど。
でも、仕事や人づきあい、話し方などでも、その色一辺倒ではなく、色々な色の呼吸で出来るようになればいいですよね。誠実というものを心に据えながら。
 さて、私たちでもお経を聞いていて「いい声で上手だなあ」と思ったり「ノリが悪くて聞きづらいなあ」と思うのもありますよね。昔、“説教節”の辻説法の人々は、民衆に立ち止まって聞いてもらわなければならないので語り方を工夫した、語り藝の修行をなさったものだそうです。
三波は中年以降に特に、語り藝の歴史の研究を深めました。
そのことは、また後日くわしくお話しさせていただきます。

2007年06月08日

“南篠文若の誕生” その11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

ところで黙雷和尚は、やはり親交のあった安田靱彦先生や川端龍子先生の絵を見せて、いかにその絵がすぐれているかというようなことも、私に教えてくれました。
とりわけ、修善寺の住職、丘球学師の南画の傑作「寒山拾得」を示して、私もそれにたとえようのない人間味を感じたものです。

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<八島>
 三波は仏教という宗教に傾倒した人ではありませんでした。父親の弟であった叔父・黙雷さんはお坊さんでしたが仏教にある哲学を充分に理解した市井の哲学者であり、ものごとを分かるように説いて聞かせられる人だったそうです。
黙雷さんから教わったことは一生を通じて有り難いことだったと肝に銘じ、心に置いて戒めとしていた三波ですが、それらのエピソードは他の著書でも様々に書いております。
後年には、これまた凄い、藝の上の家庭教師(?)のような人間が妻として三波に助言をしながら支えていくのですが、三波春夫の大きな長所は「人の話を素直に受け止めることが出来ること」だと思います。
聞く耳を持っていなければ良い話も無駄になってその人も成長しませんものね。三波は良いアドバイスを吸収する人でした。
でも、黙雷さんの前で頷いていた若い頃ならまだしも、三波春夫として大ヒットを飛ばしてスターダムに乗った後に、芸能界の先輩とはいえ妻の意見や他所からの批評を素直に受け入れるのには、自我を捨てる努力と覚悟が必要だったでしょう。
しかし、ここが器が大きいか、大きくなれるか否かの境目だと、ぐっとこらえて素直に前向きに実行していたのが三波の姿だったと、傍にいた者として思い返します。
 ではまた来週月曜日に。

2007年06月11日

生と死の彷徨 その1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和十九年正月。私はいよいよ軍隊へはいることになりました。
満洲へ(即ち、現在の中華人民共和国なんですが、私の話しの進め方としてば、その当時の言葉で語らせて戴きたいと思います)
直接入隊ということで、集合地は大阪。

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<八島>
 ここからは、三波春夫の歌う姿からは想像しがたい軍隊、戦争の話に入ります。本当に経験したことが書かれてまいりますので、太平洋戦争の話をあまり聞いたことのない若い方々にも読んでいただければと思います。
 文中の“天津羽衣さん”は浪曲家です。後年、同じレコード会社のテイチクに三波も所属してご一緒になりました。

2007年06月12日

生と死の彷徨 その2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 大阪駅を出発するとぎ、父は、かくれるようにして見送りに来ました。
緊張した表情で、汽車が動きだすまで、涙をこらえながらホームの柱に姿をかくすようにして私の顔を目ばたきもせずに見つめているのです。私は心の中で「死ぬものか!死ぬものか!」と叫んでいました。

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<八島>
 ホームで見送る父親の姿が描かれていますが、三波自身の積極性が強い性格とは相反するような面のある人でした。それが子どもの頃から三波には歯痒いところであり、父親を大切に認めながらも、違う風に生きようという意志を持っていたそうです。

2007年06月13日

生と死の彷徨 その3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 満州に着いた私たちは、ジャムス地区の屯営で初年兵教育を受けることになりました。
 入隊してまもなくのころのことです。ある時、不寝番勤務で兵舎を回っていたとき、非常呼集のラッパが鳴りました。
 営庭にとび出して整列した私は、左腕に時計がないことに気づきました。

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<八島>
「藝の世界で何年かを過ごして、すっかり身も心も芸界の人となっていたところ、いきなり違う世界に放り込まれて目を開かされた。厳しくて、大変だった。後から考えればとても良いことだったのですが・・・」と、インタビューなどで話していました。
 その真っ只中では、良いことと思える余裕もなかったでしょう・・・。

2007年06月14日

生と死の彷徨 その4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、時計はついに見つからず、私はほかの班の班長から、目の玉のとび出るようなビンタをくらって帰営しました。
 ところが、その夜の内務班検査で"練兵休(れんぺいきゅう)"で寝ていた同年兵の一人が、私の寝台の上に落ちていた時計を失敬して、そのまま整頓箱の中に入れていたことがわかったのです。

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<八島>
この頃からニコニコしていたのか、持って生まれて雰囲気が漂っているのか、三波は結構「ひとがいい」ことを小利口な人には見破られるタイプのようで、後にもまたそんなエピソードが出て参ります。
 騙すより騙される方がいいなどと言われますが、それにしても迷惑な話、凄く痛そうな話です。

2007年06月15日

生と死の彷徨 その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

その制裁が終ると、こんどは私の番です。
「お前の不注意から」というわけで、たちまち往復ビンタの雨。
次には、三十人ほどの全員が、帯革(たいかく)ビンタです。

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<八島>
 三波は「私はそれでも余りビンタを喰らわなかった方でした」とインタビューで話していました。
そして、「ビンタされる時のコツは、叩かれるまま流れのままに顔を向けていってはダメ。来る鉄拳にグンッと自分の頬を出す。そうすると、叩いた方が痛いんです!」
不謹慎かもしれませんが、これには記者の方々も私も大笑いでした。
 ではまた来週月曜日に。

2007年06月18日

生と死の彷徨 その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

それよりさき、第一期の訓練中、内地からきた慰問団の中に、浪曲家がいました。その人は、私の知らない浪曲家でしたが、曲師の方は顔見知りのあいだがらだったので非常になつかしく、つもる話もしたかったのですが、なにしろ私は初年兵、ゆっくり話などすることは許されません。

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<八島>
15日の文中にもありましたように、三波は軍隊生活でも早速、周囲の方々に乞われて浪曲を語ることとなり、それが帰国するまで続きました。皆の娯楽となり少しでも気力が出る源にしてもらいたい、そして自分が希望を持つためにも、という気持ちでの口演だったのだと思います。

2007年06月19日

生と死の彷徨 その7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

班長との約束も忘れてしまって、ただただ浪曲がやりたさに、とうとう舞台に出てしまったのです。
ひびく三味線の音〆めは三ン下がり。久しく聞かなかったこころよいひびきに、われを忘れて熱演していました。

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<八島>
 上官の命令を守れないようでは戦場で命を落とすことにも繋がる、ということもあったでしょう。叱責をされることへの予想能力は誰にもあるはずですが、三波は浪曲となると我を忘れる思考停止状態が起こるようでした。人並みはずれた情熱の表れですが、イノシシ年生まれのせいなのか、本当に猪突猛進型だなぁと私が見受けたことがまことに多々ありました。後日、またお話しさせていただきます。

2007年06月20日

生と死の彷徨 その8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 好きな浪曲が、思う存分やれるようになったのは、富綿(フウキン)地区へ移って間もなく、部隊長の前で口演するようになってからです。
 その日は、各中隊長、小隊長が集まる"将校会食"のときで、私は"公用"の腕章を巻いて今日だけは大いに胸を張って出かけました。『義士外伝・俵星玄蕃』を語り終るや、盛んな拍手。

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<八島>
 「ギッチョンチョン」とは、明治時代の流行歌の一節です。ステージで歌っているときに部隊長のことを思い出すなど、どういうことなのかと思われることでしょうけれど、三波と他の歌手の方が雑談の中で“歌うことに集中しながらも、ゆーっくりとした悠久な時の流れを感じたり、ふと何かを思い出したり思いついたりすることもあるね”と話していたことがありました。

2007年06月21日

北満戦線の戦い 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和二十年八月九日の未明、まっ暗な兵舎のしじまを破る非常呼集のラッパ。
 寝床をけって起きあがる戦友たち。にわかにざわめく兵舎の中。下士官が、
「おい、本物の戦争だぞ。あわてずに落ちついてしっかり支度をしろ!」
と、どなりながら走って行く。

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<八島>
 満州にいる日本人たちを無事に祖国へ帰らせるために、ここでソ連の攻撃を食い止めなければならない。それが100日間陣地を死守する目的だったそうです。

2007年06月22日

北満戦線の戦い 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

私たちは、かりあつめた馬車(マーチョ)で、どんどん食糧をトーチカの中に運びこみました。
 敵機が頭上をぶんぶん飛んでいるのに、私はのんきなもので、砂糖袋の上に腰かけ、指を袋の中につっこんでは砂糖をなめながら、満人の苦力(クーリ)をせき立てていました。

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<八島>
 満人の苦力を…とは、まことに時代を映していますが、有無を言わさぬ厳然たる上下規律の団体では、上の悪いところをそのまま下が実行する愚かさ、それが普通である怖さがあると思います。
では、また来週月曜日に。

2007年06月25日

北満戦線の戦い 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そのころ、上等兵に進級していた私は、部隊本部付の伝令でした。刻々出される命令を伝えるため、私たち伝令兵は四方八方に飛び廻り始めました。

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<八島>
 「『敵襲!』の声で、とうとう実戦となったわけですけれど、ついに来たか!という感じでした。・・・怖かったですかって?いや、もう、それは怖かった。戦争そのものの怖さよりまず、仲間が上げる悲鳴が怖かったですねぇ、身震いがしました・・・」取材を受けた時に、三波が話しておりました。

 さて、お知らせをいたします。
現在、“日本直販”で三波春夫の『平家物語』を販売中です。購入をご希望の方は、0120-03-1100 へ、携帯やPHSからは 0800-111-8888にお電話にてお願いいたします。『商品番号 5R2588 三波春夫の平家物語』と、ご注文ください。価格は9,800円プラス送料930円です。

2007年06月26日

北満戦線の戦い 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 武者ぶるいなどという、りっぱなものではない。ほんとうにこわかった。たとえようもない恐ろしさでした。
(ああ、もう二度と、故国へ帰ることはできない…)
 私は、覚悟をきめました。

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<八島>
 異国の戦地で、雨に降られて…どれだけ辛いことかと思います。死が目の前にある状況下、三波は家族や故郷のことを思い出したと書いていますが、南方の島で戦った方々は「ここで敵を食い止めなければ、敵は本土に上陸してしまう。そんなことになったら、故国にいる母や弟妹たちがどんな目に合うか」という思いを強く持たれて戦われたのだと、経験者の方からお聞きしたことがあります。

2007年06月27日

北満戦線の戦い 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 秋雨は降りつづいていました。私たちの頭上を、シュウシュウシュウシュッと不気味な音を立てて通りすぎた砲弾は、後方でものすごい轟音をあげて炸裂する。伏せている前方の枯草を、ポキポキなぎ倒して行く機関銃弾。息づまる緊張の数刻―。

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<八島>
 三波は、取材の時に戦争体験について話して欲しいと言われたときに、この時の話をすることが多々ありました。「その仲間は佐々木って言ったんですが・・・」。佐々木さんというひとりの兵士の死を、何十年間にも亘って三波が繰り返し語りました。「佐々木、きょうも話しているよ、君のことをね」という思いが、三波の胸にあったのだと思います。

 さて、お知らせを申し上げます。
本日、三波春夫の『東京五輪音頭』がシングルCDで発売になりました。そうです、昭和39年の東京オリンピック当時に全国で大ヒットし、皆様揃って踊っていただいた、あの歌です。東京に再びオリンピックを招致したいという声もありますが、「またみんなで三波さんの東京五輪音頭で踊りたい」とテイチクに要望の声が寄せられて、急遽“輪踊りの振り付けの図解付き”で“ジャケットも当時のとおり”という復刻盤CDがリリースされました。若い頃、または子どもの頃に踊ったことがあるという方々も、この歌を新鮮に聞いていただく若い方々も、この夏から是非歌って踊ってください。

2007年06月28日

北満戦線の戦い 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 佐々木は、『佐渡おけさ』が得意で、いつも歌っていました。明るい、気性のいいやつだったのに……。私は、もう一人の戦友の手をかりて、彼の小銃と弾薬倉から弾をとりだし、
「佐々木の仇うちだ。みんな五発ずつ持とうぜ」
 と、同年兵と分けあいました。

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<八島>
 このときの三波は22歳になったところ。このような年齢の若者たちが、亡くなった仲間の弾を持ちあって仇討ちだと言い合うとは、切ないことですね。

2007年06月29日

北満戦線の戦い 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その日の夕方、まる一日ぶりで、握り飯が一つ配給されました。味わっている余裕もなく、一個の握り飯はどこへはいったか、わかりませんでした。

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<八島>
 配られた握り飯がどこへ入ったかわからなかった、と書いていますが、後日三波が『日本人と米』という演題で講演をしたり取材を受けたときに、このときの“白米の握り飯”の話をしていました。「その時に食べた握り飯で、ぐわんと力が出ました、腹が座ったと言いますか…。やっぱり日本人には米の力は偉大ですね」
 さて、ここでお知らせをさせて頂きます。
来週月曜日午後7時45分~8時30分、NHKBS2「蔵出しエンターテインメント」で、1976年に放送された三波春夫の「ビッグショー」が再放送されます。是非、ご覧下さいませ。
 ではこのブログはまた、来週月曜日に。

2007年07月02日

北満戦線の戦い 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ところが、浪曲できたえあげた私の声が、ドンピシャリ役に立つときがやってきました。
 戦斗指揮所を取りかこんで円陣を作り、一中隊から四中隊、山砲、野砲隊ががっちり陣地を守っていたのですが、戦争が激しくなると、つぎつぎに戦死者がふえ、部隊長の命令を伝える大事な伝令兵がなかなか集まらないのです。

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<八島>
  「あとでよく考えると、私が浪曲で三味線との間(ま)をとって、語り藝をしていたことが役に立って、戦場の騒音が低くなる瞬間をはずさずにパッと叫んだこともあって、声が通ったんでしょうね」と話していました。
 さて、本日の夜は、19:45~20:30 NHKBS2『蔵出しエンターテインメント』“三波春夫のビッグショー”をぜひご覧下さい。

2007年07月03日

北満戦線の戦い 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、戦況は明らかに不利でした。この陣地を百日間守りぬかねばならぬといっていた部隊長も、ついに三日目、撤退命令を出したのです。

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2007年07月04日

北満戦線の戦い 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「一、二、三、四、五……」
 心の中で数えながら、ソ連兵の一団の中へ投げつけると、その場に伏せた。耳をすますことおよそ一秒。「ビューン」という腹にこたえるような独得の炸裂音が、暁の戦線のしじまを破ったのです。

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<八島>
手榴弾を発火させて投げるのも勇気がいることと聞きました。「1,2,3,4,5!」の5で投げないと成功しない。早目に投げたら効果がなく、投げるのをぐずぐずして握っていたら自爆なのだというのです。討たなければ討たれるのが当然の場。まさに修羅場をくぐる戦場ですね。

2007年07月05日

北満戦線の戦い 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 首をあげて敵の陣地を眺めた私は、思わず「あっ!」と声をあげました。ソ連兵が、野砲をこちらに向け、何の偽装もせずに、悠々と攻撃態勢をとっているのです。

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2007年07月06日

北満戦線の戦い 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「バカ野郎!」
 思わずどなった私は、壕の中へ倒れこんだ彼を、引きずるようにしてトーチカの中へ運び、衛生兵を呼びに走りました。

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<八島>
 涙が出ます。たしかに教わっただろう、戦場でのルール。しかし、民間から徴集された人間が、にわかながらも訓練されたからといって、実戦上で間違いなく実行できるはずはなく。このような切ない実例を戦争経験者から伺うたびに、本当に悔しくて悲しい思いがこみ上げます。戦争を、国の指導者は避けなければならないのに。いまだに叶えられない夢になっています。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年07月09日

北満戦線の戦い 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 衛生兵と一瞬顔を見あわせた私は、その兵隊をしっかり抱きよせ、耳もとに口を当てて大きな声で叫びました。
「おい、しっかりしろ。お前のお母さんが来たぞ。死ぬんじゃないぞ」

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<八島>
三波はとっさに「お母さんが来たぞ…」と嘘を言ったのですが、人間というものは不思議なものだと思います。初めて経験する場であっても何か知恵を出して、相手を救いたい、楽にさせてやりたいと思うものなのですね。もちろん、日常をどう送っているかが問われますが。
 このような緊迫した戦争の話のさなかですが、三波が講演で話していたことをご紹介します。「戦争中、亡くなった戦友はみな『お母さん、お母さん!』と言って息を引き取りました。・・・日本の兵隊はお母さん、ロシアの兵隊はママ・・・。誰一人『おとっつぁーん!』と言う人はいませんでした・・・いやはや、母親、女性というものは偉大であります」
 なお、文中のトーチカというのは、コンクリート作りの防御陣地のことです。

2007年07月10日

北満戦線の戦い 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ふと前方を見ると、火焔放射器(かえんほうしゃき)を背負ったソ連兵が二人、弾丸のように走ってくる。わが陣地を焼き払うつもりだろう。
「くそったれ!」

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2007年07月11日

北満戦線の戦い 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ところが、つぎの瞬間、私のトーチカの銃眼めがけて、三方から機関銃の一斉射撃。唸(うな)りを立てて撃ちこまれる弾丸が、私のしゃがんでいるうしろの壁に当って、みるみるうちにうず高く積もって行く。

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<八島>
三波が話していたのですが「爆弾が横長の形に見えていればよいが、まん丸に見えた。
ということは、自分にまっすぐに向かって来ていたということなんですよね」

2007年07月12日

北満戦線の戦い 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 幾時間か経ったのち、私は何かのはずみで、昼寝から覚めたように、ポッカリ目を開きました。だが、口の中は土と砂でザラザラ、ペッと唾をはいた私は、そのとき、自分の両耳が正常でないことに気づきました。

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<八島>
 耳が聴こえなくなってすぐに、浪曲が出来なくなったとドキリとし、絶望したことは哀れな話だと思います。文中、聴覚の不具合を初刊当時の表現がございます。ご了承くださいますようお願いいたします。

2007年07月13日

北満戦線の戦い 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 部隊本部は、予定通り撤退してしまったのでした。私は、すでに戦死したものと見なされて、置き去りにされたのだろう……。

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<八島>
 地獄のような風景の中でも決然とした意志をもって動かなければ生き残ることは出来ないのでしょうが、どの方向に行けばよいのか全く見当がつかないというこの時の心境は、どれだけ心細いものだったかと思います。
 ではまた。来週は火曜日に更新いたします。

2007年07月17日

わが退却の記(1) 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 泥と血の入りまじった壕の中を、戦友たちの死体をまたぎながら、耳の聞こえない哀れな兵隊は、とぼとぼと歩いて行きました。
 日はすでにとっぷりと暮れた北満の戦場。初秋の風が背すじを冷たく吹きぬけて行きます。

<続きを読む>

<八島>
6月27日掲載の本文にもありましたが、銃弾の通り道どおりにパパパパッと枯れ草の頭が飛ばされていくものであるということ。それを見て、耳が聴こえなくても、まだ銃弾が飛び交う戦闘が少し離れたところで続いていることが分かったと言っておりました。

2007年07月18日

わが退却の記(1) 2

「すべてを我が師として」より

 相手の銃剣の切先きが、スーツと現われた。とたんに私はホッとしました。味方だった。
 ソ連兵の銃剣は、細くとがった剣か、さもなければ、マンドリンとアダナした七八連発の自動小銃です。私たち日本軍のは悲しいかな、やっと五発の弾丸がはいる単発式の小銃です。

<続きを読む>

<八島>
銃ひとつとっても、いかに非力な武器で戦わなければならないかを知っている兵隊は、どれだけ心細いでしょうか。しかし、ここで出会ったのが味方であり同県人であったとは運のいいことだったわけですね。

2007年07月19日

わが退却の記(1) 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「藤田、俺は耳が聞こえないんだよ」
 私が先に口を開いた。
 すると彼は、何ともいえない顔をしたが、私の耳もとに口を寄せ、
「たいへんなことになったなあ」
 と、どなりました。

<続きを読む>

<八島>
本文からは脱線しますが、今日の日付は三波が誕生した日です。1923年生まれですから在世でしたら84歳。もし歌手として唄い続けていたとしたら、皆さんの記憶にあり、今も親しんで頂いているとおりの明るい声かもしれません。三波の声を「邪気を払うような声」と言った方がおられました。また、作家の水上勉先生は「福音」(ふくおん)、福のある声の音だとおっしゃってくださったそうです。

2007年07月20日

わが退却の記(1) 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「仕方がないや、とにかく歩こう。壕を伝って行けば、なんとかなるだろう」
 こんどは彼も何か答えたが、その声は私には聞こえませんでした。


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<八島>
雲が垂れ込める空であったなら、どれだけの夜の闇だったかと思います。
ではまた、来週月曜日に。

2007年07月23日

わが退却の記(1) 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しばらく行くと、また一人の戦友にぶつかりました。
「おい、お前も迷い子か」
 と、いうと、
「じょうだんいうな。迎えにきてやったんだぞ.」
 どうやらそういったらしいのです。

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2007年07月24日

わが退却の記(1) 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私はふと、壕の中に座って、うめき声を出している兵隊に気がつきました。見ると、頭は血のりでべっとりおおわれて、手をやると、その血のりはすでにガバガバに乾いてしまっている。座っていると思ったのは、腰を撃ち砕かれて動けないのです。

<続きを読む>

2007年07月25日

わが退却の記(1) 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「ここで待っていろ。きっと迎えにくるからな」
 班長も、
「よくやった。お前の手柄は金鵄勲章(きんしくんしょう)ものだぞ。必ず連れに来てやるから安心しろ」
と。

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<八島>
 戦争とはむごいものであり、自分の身すら守れないかも知れないのに人のことまでは、ということになります。戦場でも、戦地ではない筈だった国内でも、このようなことが山ほどあったことが語り継がれています。が、これからも皆で語り継いで、戦争という行為の愚かさを心にしっかりと刻まなければならないと思います。ましてや、平和のもとで、人を殺すことの言い尽くせない愚かさをも、ですが。

2007年07月26日

わが退却の記(1) 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ハッと気がつくと、前の兵隊は、はるか彼方(かなた)を進んでいます。空腹と疲れのため、いつの間にか、眠ってしまっていたのです。

<続きを読む>

2007年07月27日

わが退却の記(1) 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「しまった!発見されたら、皆殺しにされるかも知れんぞ!」
 弾丸が飛んでくるより早く走るなんてことは、できるわけもありませんが、とにかく“宙を飛ぶように”という言葉がピッタリするほどに、走りました。

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<八島>
 昨日と今日の掲載の戦場の様子について、三波が実際に話していたことがありますが、聞いていた私も周りの若い記者方も、ほふく前進中に寝ることや、命からがら逃げた後に可笑しくなったなどは、「えー、そうだったんですか…」と言いながら実感出来るはずがなく。やっぱり寝るものかな、やっぱり可笑しいかな、自分は生き残ることが出来ただろうかと、後から各々が考えてみることしか出来ませんでした。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年07月30日

わが退却の記(1) 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 さあ、こうなったらとても腹ばいのほふく前進などという、悠長なことはできません。一秒でも早くという気持ちで、走っては伏せ、立ち上っては走り、八百メートルも走るとやっと敵の包囲網から脱出したらしいのです。

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<八島>
 戦争で落とさずにいられた命を大事に、亡くなった戦友の分も、と、生きて帰ってこられたたくさんの方々が、その後の人生を全力で生き抜かれたことでしょう。三波も然りだったと思います。永六輔先生が三波のことを「真面目に日本人をやった最後の男」と言ってくださいましたが、真面目に日本人をやった最後の世代なのでしょうか…。


 さて、今日から4日間にわたり、NHK教育テレビ「知るを楽しむ~こだわり人物伝~三波春夫編」が再々放送になります。時間帯は22:25~22:50です。
是非ご覧下さい。

2007年07月31日

わが退却の記(1) 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 敵の包囲を脱出、さらに四キロほど逃げたあたりで、私たちは三十分ほどの眠りをとりました。そして、また歩きだしました。
 目的地はウリクリ山というところで、だいぶ遠いけれど、そこは日本軍の陣地になっているのです。夜がほのぼのと明けてくる中を、一刻の休みもなく、歩きつづける兵隊たち。

<続きを読む>

<八島>
 平和な社会の中でも「仲間が居てくれる」ということは嬉しくて心強いものですが、この戦争の最中での「あいつもいる、こいつも生きていた」ことを発見出来る嬉しさは、比較にならないほどでしょうね。


 では、昨日からスタートしましたNHK教育テレビ22:25~『知るを楽しむ』三波春夫編再々放送。
今夜も是非ご覧ください。

2007年08月01日

わが退却の記(1) 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そのとき私は、おや?と耳を澄ませました。聞こえるのです。兵隊たちが、水をかきわけて進むザブザブという音が……。話し声も聞こえます。風の音も聞こえるではありませんか。
(ああ、これでまた浪曲がやれるぞ……)

<続きを読む>

 今夜も、NHK教育テレビ22:25~の『知るを楽しむ』。是非ご覧ください。

2007年08月02日

わが退却の記(1) 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「散れ!」
 班長の号令を待つまでもなく、全員は水しぶきをあげて散開しました。かなわぬまでも翼に一発撃ちこんでやろう、私たちは銃を構えて空を見上げました。「射ったらいかんぞ!」と班長の声。しかし、敵機は頭上を右旋回で一回りしただけで、そのまま彼方に飛び去りました。

<続きを読む>

<八島>
 かなわぬまでも敵の翼に一発撃ちこんでやろう…先手を打っていかなければ命を取られる殺し合いの場では当然の意志、そして同胞の仇討ちの意志も強くあったでしょう。国の指導者でもない民間人が敵対して、お互いが同じ動機で殺し合うとは、どうしようもなく切ない話です。


 今夜22:25~の『知るを楽しむ』は、私も出演しております。どうぞご覧ください。

2007年08月03日

わが退却の記(1) 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そこで私たちは、ようやく食い物にありつきました。それが何だったか、記憶にありませんが、何かがのどを通って、腹の中へはいって行ったことはたしかです。
 隊長たちは、作戦を練るというよりも、退却の進路をあれこれ相談していたようですが、私たちの分隊の同年兵たちは、これまでの戦闘の話に花を咲かせていました。

<続きを読む>

<八島>
「戦争中も捕虜生活でも、極限におかれた人間のいろいろな姿を見ました。実に様々でした。盛大にビンタをするのが日常茶飯事、強気なことを言って威張りぬいていたのが、いざという時に部屋の隅でブルブル震えていたなどという上官もいましたし…」と、取材のときなどに話していましたが。さて、この伍長に対してはどうなりますか。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年08月06日

わが退却の記(1) 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「あの野郎、ビールを飲んで赤い面(つら)をして、それでふるえていやがった」
 口々に○○伍長を攻撃する。その中の一人が、殺気立った声で叫んだ。
「よし、あの野郎を射とう!」

<続きを読む>

<八島>
 北詰、と呼びかけられている三波の本名は北詰文司。三波の父親は、もとは五十嵐でしたが、婿養子に入り北詰となりました。「北詰という姓は群馬県発生の姓であり、私は越後五十嵐一族なのです。そのもとを辿りますとイカタラシヒコノミコトという垂仁天皇の皇子であり、その子孫に五十嵐小文治という人がおりまして・・・」と、話すと長い時間を要した三波の“ルーツ”研究発表の弁につきましては、後日また機会をみて書かせて頂きます。

2007年08月07日

わが退却の記(1) 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そういえば、私はさっきから、ひとことも喋っていませんでした。いや、喋れなかったのです。なぜなら、私は本部付伝令として、ずっと隊長のそばにいて、分隊のほうにはあまり帰っていなかったから、その伍長の行動がよく分からなかったのです。

<続きを読む>

<八島>
 非難されるような人物だったのはもちろんですが、日々の環境で積もり積もった、ものすごいストレスからの決起ということもあるでしょうか。

2007年08月08日

わが退却の記(1) 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「あんなやつ、殺したければいつだってやれるさ。もうちょっと生かしといてやれよ」
 この言葉は、その伍長に対する優越感を、同年兵たちに与えるのに、意外と効果があったようで、興奮はそれでおさまりました。

<続きを読む>

<八島>
  5年前というのは昭和34年頃のことです。その伍長はデビュー2年目の三波春夫の舞台を観にいらしたようでした。

2007年08月09日

わが退却の記(2) 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そうこうしているうちに、ウリクリ山頂にとつぜん砲弾が炸裂しました。私たちの部隊が、この山を第二の陣地としたことを知ったソ連の山砲隊が、攻撃を開始したのです。
 笠置山(かさぎやま)を落ちのびる後醍醐(ごだいご)天皇のように、「天(あめ)が下にはかくれ家(が)もなし」のありさまです。

<続きを読む>

<八島>
 機械化部隊の進軍がどんな風景だったかは、三波の文章を読めば想像までは何とか出来ます。しかし、それを目にする日本人兵士の心はどんなだったでしょうか。当然口惜しい、その機械化ぶりに唖然とする、これからどうなるのかという不安と恐怖、口惜しさが押し寄せるものと想像します。が、このような思いがどれほどの重さで胸にせまり、どれほどの苦しさなのかは経験した身でなければわからないものだと思います。

2007年08月10日

わが退却の記(2) 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 見つめる私の目が涙でかすんできました。
 日本の国に生まれ育ち、神州不滅と教えられ、現人神(あらひとがみ)の統(す)べ給う皇軍と誇りながら追いつめられて行く、みすぼらしい小銃だけを持った小部隊。

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<八島>
 「ソ連と日本の軍備の差、兵器の力の差は歴然としたものでした。重砲を搭載した戦車にしてもソ連の戦車は四方八方に向けて撃つことができます。しかし、日本のものは無理な方向に向ければドカーンと撃ったあとに腰砕け。砲台が壊れて使い物にならなくなりました。情けないなぁ…私は、その時戦場で、戦車の陰で泣きました。故郷の我が家も貧しかったけれど、日本の国も貧しいんだなあ…。そう思って涙を流しながら、私は日本の国が愛おしくてなりませんでした…」三波が講演でこのような話をしておりました。この時の日本という国への思いが、後の歌手・三波春夫の土台の一部となっているのだと思います。
 さて、このブログは来週はお休みをいただきまして、
 次回は8月20日に更新いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

2007年08月20日

わが退却の記(2) 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 登るときには数時間もかかった山を、駈けおりるには道も不要でした。小銃を背負い、からだの重心をとりながら、靴で山肌を蹴ればいい。つめたい空気を切りさき、滝のように連なって、駈けおりる部隊。草木はすべてなぎ倒され、帯のように数本の道ができる。またたく間に全員が、麓(ふもと)に降りました。

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<八島>
 幸いにも眠っていた戦車の中の兵士たち。起きていたら大変でした。こういうことが運命の分かれ道なのでしょうか。

2007年08月21日

わが退却の記(2) 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 まったく人間というやつは、逃げ腰になると、どうにもならぬほど恐怖心にとりつかれるものです。子供のころ、暗い夜道を、こわいこわいと思いながら、駈けだすに駈けだせない、思いきって駈けだすと、こんどもうしろからお化けが追っかけてくるような、あの心理の通りなのです。

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2007年08月22日

わが退却の記(2) 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 いねむりしながら歩いているのは、私だけではありません。みんな、半分は眠っているのです。一人の兵隊が、溝の中へ落ちました。それでも、目を覚まさないのです。
「こら!起きろ!」
「起きて歩くんだ!」

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<八島>
 生き延びるためにも、励ましあう兵士たち。今、もし、日本の若者が戦争に駆り出されたとしても、この時代の兵士たちと同じ様子になるのでしょうか…。

2007年08月23日

わが退却の記(2) 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、いまから考えてみても、あんな気持ちのよい眠りは、恐らく二度と経験できないでしょう。北満の空は澄みわたり、太陽はうららかに輝やいていました。
 部隊は、隊伍(たいご)を整えて、ふたたび出発しました。

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<八島>
 この状況の中の出来事だったのでしょう。三波がこの8月15日の終戦をわからなかったことについて話していました。
「終戦の日の8月15日、たしかその日だったんでしょう。僕たちは少し高い場所に居たんですが、原っぱのような広いところをソ連の兵士が印の旗を掲げてこちらに向かって走ってきました。それは終戦決定を知らせる役目の兵士だったんですが、日本側の誰かがその兵士を目がけて撃ったものだから兵士はびっくりして逃げていっちゃったんです。戦場の常識として教育をされていれば良かったものを、何も知らなかったんで、その兵士が持っていた終戦の印も理解出来ずに撃っちゃった。だから結局、終戦もわからず仕舞いで退却行軍を続けていました…」

2007年08月24日

わが退却の記(2) 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「おい、ニワトリがいるぞ」
「豚もいるぞ。馬鈴薯もあるぞ」
 私たちは、喜びの声をあげながら、ニワトリをしめ殺し、豚をたたき殺し、馬鈴薯といっしょに満州独特の大鍋にほうりこむのでした。

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<八島>
 さて、鍋を食することは出来るでしょうか…。
 では、また来週月曜日に。

2007年08月27日

わが退却の記(2) 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 なんという無慈悲さ!。私たちは、銃をつかんで飛びだしました。遠くで戦車の響きが聞こえる。部隊は、その響きとは反対の方向へ、全速力の退却です。
 私の頭の中には、見えない戦車やソ連兵の姿よりも、大鍋の中でグツグツ煮えたぎりはじめていたご馳走のほうが、はるかに鮮かに残っていました。

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<八島>
 戦場の生の会話が書かれています。さもあろう、というふつうの会話です。あらためて、兵士はなんにも特別な存在ではないことを思います。

2007年08月28日

わが退却の記(2) 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 退却行は、いく日もいく日もつづきました。はじめのうちは、敵襲をおそれて夜行軍だけでしたが、そのうち昼間も歩くようになりました。

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2007年08月29日

わが退却の記(2) 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 この女性は、避難中の慰安婦でした。十八貫もありそうな女性で、大きなお尻を、まっ黒なモンペに包んで、一生けんめい歩いていました。

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<八島>
1貫は3,75kgですから、18貫は67,5kgですね。「お尻の大きなその女性がほんとにしっかりと、疲れを知らないように私たちと一緒に歩いたんで、女性は強いんだなぁとしみじみ思いました」と講演などでも話していましたが、戦場で亡くなる兵士が最期に「お母さん…」と言うことも共に話し、「女性は偉大です」と三波は結んでいました。

2007年08月30日

わが退却の記(3) 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ウリクリ山を出発して二十日目ごろ、誰かが日本が降伏したというビラを一枚拾ったという噂が広がりました。全員に動揺が見えましたが、上官のところで握りつぶされたらしく、噂はいつの間にか消えました。

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2007年08月31日

わが退却の記(3) 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「お前たちは、あくまでも皇軍(こうぐん)であるという誇りをもって行動するように。豆粕を食べることを、悪いなどとはいわぬが、決して腹をこわしてくれるな。次の戦争はま近だ。部隊長どのの指揮のもとに、必勝を信じて行動してもらいたい」

<続きを読む>

<八島>
このあとはどのような展開になるのでしょうか。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年09月03日

わが退却の記(3) 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「どうしたんだろう?」
 私たちは、足をとめて見送りました。
 そのとき、ハッと私は胸をつかれました。

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2007年09月04日

わが退却の記(3) 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 二人は、隊長に報告するためでしょう、私たちのそばを、暗い顔をそむけるようにして通り過ぎて行きました。私たちは、おし黙ったまま、歩きはじめました。
 そして、九月九日の午後三時ごろ、私はまたしても、悲しい光景を目にしなければなりませんでした。

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2007年09月05日

わが退却の記(3) 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 班長も、他の兵隊たちの肉体的苦労があまりにも大きいことを見逃すことができなかったので、部隊長の決断を求めました。
 いつまで続くか知れぬ退却に、これ以上、負傷兵を連れて行くことは無理だ……。部隊長は、自決を許可しました。

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2007年09月06日

わが退却の記(3) 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「班長どの、煙草を下さい」
 うなずいた班長は、ポケットをさぐって二本残っていた煙草の、一本を彼に与えました。戦友がマッチの火をつけてやりました。

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2007年09月07日

わが退却の記(3) 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 彼の手に握りしめられた拳銃の銃口が、コメカミのあたりで、かすかに震えていました。思わず目を伏せる戦友たち。
「班長どの。このへんですか」

<続きを読む>

<八島>
3日月曜日から本日までの内容は、とても重たいものでした。日々させて頂くコメントは無しで、本文のみを読んでいただきました。三波が書き残したこの実体験のことを、戦時を知らない私たちも心にとめておかなければと思います。戦火をくぐった方々は、更に過酷な、話をすることも控えたい体験をなさっていらっしゃるのでしょう。 
 ではまた、この続きは来週月曜日に。

2007年09月10日

わが退却の記(3) 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私が名前も知らない一人の兵隊は、こうして北満の土の上で、永遠の眠りについたのでした。分隊が出発したあとには、新しい土饅頭ができ、野菊が一束手向けられ、その土饅頭の上に、野菊の花の上に、冷たい秋雨が静かに降りそそいでいました。

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<八島>
 雑嚢に残っていた豆粕をそこらにまき散らしたというくだりが、実体験が語られたリアルさとして胸にせまる気がします。三波は、家庭内でも外でも食事に事欠く環境ではなかったわけですが、食べ物を粗末にする人ではありませんでした。大正末期の生まれだもんね、というだけではなく、体験が背骨となった姿勢だったと気づきます。

2007年09月11日

わが退却の記(3) 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

だが、たったいま拳銃の弾丸を、みずからの手でコメカミに撃ちこんで死んで行ったあの兵隊のことを思うと、私の心は痛むのでした。もう二、三十分、斥候兵の帰りが早かったら、彼は、誰ひとり訪れることのない北満の野辺(のべ)に、骨を埋めることはなかったでしょうに……。

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2007年09月12日

日本敗れたり 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ほんとうに久しぶりで、黍飯(きびめし)で満腹した私たちは、わらを敷きつめた板の間に、疲れはてたからだを横たえました。
 土間の一角には、そだをくべた火が、赫々(あかあか)と燃えています。からだじゆうに、ほのぼのとした温かさがめぐりはじめると、トロトロとまどろんだようです。

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2007年09月13日

日本敗れたり 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 班長の声は低かったが、兵隊たちはいっせいにとび起きて、班長をとり囲みました。
「ほんとうですか、それは?」
「どうもそうらしい。さっき歩哨線に近づく人影があったので、敵かと思って銃を構えたら、日本軍の中尉で、関東軍(司令部)の使いで来たというんだ。部隊長は、明日の昼間くわしく事情を聞くからといって、中尉を帰したらしいけど……」

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<八島>
戦争に敗れたことへの感情よりも、戦争をしなくていい安堵の気持ち。人間として当然の気持ち。当時は非国民の精神と言われたのでしょうが、たくさんの方々が至極当然にそのように思う瞬間が到来したのですね。

2007年09月14日

日本敗れたり 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 班長も分隊員たちも、みんな言葉もなく、顔を見合わせていました。誰も口をきこうとせず、表情さえも崩しません。歴史的な時間が通り過ぎて行く足音を、からだで聞いているという感じでした。
 コトリと音を立て、薪(まき)が燃え崩れました。

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<八島>
 ニュースがすぐに掴めない間、人々はいろいろなことを考えたことでしょう。
 テレビやケータイで何でもすぐに情報が掴める現代の私たちは、早急に動ける利点を活用する前に一呼吸、世間の意見に付和雷同する前に一呼吸、自分自身で考えるしばしの時を持つことも大切かもしれません。
 では、次回は18日に更新いたします。

2007年09月18日

日本敗れたり 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 八月九日の未明、ソ連軍と戦争状態にはいり、今日でちょうどまる一ヶ月ぶり。フウキンの陣地を捨ててから二十七日目の九月九日です。

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<八島>
 日本史の教科書を読んでも分からない、日本陸軍の末端の人達がどのように終戦を知ったか、という様子ですね。

2007年09月19日

日本敗れたり 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 部隊長は、すでに八月十五日に終戦の詔勅が出されていることを聞くと、“降伏”と軍議を決定、これを部隊の全将兵に命令したのです。
 あたりにはもう、黄昏(たそがれ)がこめていました。

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<八島>
戦地で家族の写真を見る、という行為は多くの兵士がしていらしたことですが、どんな気持ちで見るのかと考えると目頭が熱くなります。三波はその写真は焼き捨てましたか、テーブル掛けにして浪曲をやりたい為に、日の丸旗を捨てなかったとあります。これほどまでに、自分がやりたい事がある。この情熱がのちの三波春夫として世に出ることに繋がりますけれど、若い時から人として男として夢中になれる仕事を掴んでいた人だったわけです。こういうことを考えると、現代の“ながらく自分探しの日々”の人たちにも何か誰か、将来の自分を掴むヒントになること、人とのめぐり会いがありますようにと思います。

2007年09月20日

日本敗れたり 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「しかし、よかったなあ、戦争が終って……」
「うん。日本へ帰れるんだな」
「そうだとも。でも、すぐ帰れるのかなあ」
 戦友たちは、そんな話に花を咲かせていました。

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2007年09月21日

日本敗れたり 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「えっ?」
 すると彼は、長い顔をちょっとゆがめて、
「俺たち片山中隊は、山へこもるんだってさ」

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<八島>
 この上司の判断…これも運命というのかもしれませんが、やり切れないですね。
では、次回は25日に更新いたします。

2007年09月25日

日本敗れたり 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、火のそばにあった一本のとうもろこしを、彼の手に握らせました。
「これを持って行けよ」
「すまんな。ところで、手榴弾(てりゅうだん)はないかなあ」

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2007年09月26日

日本敗れたり 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 彼の口癖の「ゴベット」という言葉が飛びだしたので、私たちは思わず笑い声をあげました。
「じゃ、元気でな」
 彼はスッと立ちあがると、部屋を出て行きました。背中を丸めたそのうしろ姿は、いかにも寒そうでした。

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<八島>
この小池さんという方が、生きて日本に帰られたことを願いたいです。
 ほんとうに、戦争とは誰の責任なのでしょうか。傲慢な心や、度を越した執着心をもたず、他人、他の国を尊重し生命の尊さを一番とすれば、戦争が起きることも兵器の製造がされることもないと思います。とにかくいつまでたっても、正と負がいつまでも終り無くセットで存在し続けるのが、この世の中なのでしょうか。

2007年09月27日

武器よさらば 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和二十年九月十一日の朝。部落の広場に集合した私たちの部隊は、五十人ほどのソ連兵に囲まれて整列しました。
 部隊長は、磁石が示す東京へ向かって、抜刀(ばっとう)しました。

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<八島>
 この武装解除の日の風景を、三波はずっと忘れなかったようです。

2007年09月28日

武器よさらば 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 小銃をもとへもどすと、私は、全身の力が抜けるような気がしました。部隊長は私たちにむかって、短い訓辞(くんじ)を与えました。
「これからも日本の軍人として、恥ずかしくない行動をするように。決してソ連兵と磨擦(まさつ)を起こしてはならない。日本へ帰るまでどうか身体を大切にしてくれ。おわり」

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<八島>
「武装解除となって、整列して武器を手放して丸腰になった時の、なんとも心細かったこと。これから、生殺与奪の権を相手に渡すのですから…」と、三波は話しておりました。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年10月01日

武器よさらば 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 残るは雑嚢(ざつのう)一個。急に軽くなった腰のあたり。しかし、私の手には、いつまでも小銃を握っている感触が残っていました。
 武装解除(ぶそうかいじょ)された私たちの部隊は、方正(ホーマサ)というところに向かって歩きだしました。兵隊から急に修学旅行に出かける中学生にでもなったような、明るい気分でした。

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<八島>
 満人とは、当時の満州の中国人ことです。思わず怒鳴り返したのは三波ではなく、本人はそういうことはしない性質でした。が、周囲から浴びせかけられた言葉は、自分たちにいま始まっているその境遇をはっきりと自覚させるものであり、いたたまれない思いだったでしょうね。

2007年10月02日

武器よさらば 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、彼らは執拗(しつよう)に、
「ヘヤヘヤ」
 と、いうふうな言葉で、私たちを冷やかしたり、からかったりします。満人にしてみれば、長い間じぶんたちをいじめ抜いていた日本人が、捕虜(ほりょ)になっている姿を眺めるのは、なんとも小気味よいことだったに違いありません。

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2007年10月03日

武器よさらば 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私たちは、彼にむかって、感謝の笑顔で手を振り、
「ありがとう」
 と、いうと、彼はてれ臭そうに笑いながら、左手で帽子をちょっとかぶり直し、私たちの隊列(たいれつ) のわきについて、肩をゆすぶりながら歩いて行くのでした。

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<八島>
中国、ソ連、日本と三つの人種の人間模様ですが、自分たちだけ自由がないのは何とも言えないことだったでしょう。方正という土地は、多くの日本人が過酷な運命を辿らなければならなかった場所です。終戦後、関東軍から何の助けもなく見捨てられた各地の開拓民が、飢えと寒さ、病気で亡くなり、そのお骨を集めて1963年に建てられた日本人公墓には4,500人が眠っているとのことです。この他にも公墓が建てられていて、集団自決をした方々も何百と眠られているそうです。現在も日本から慰霊と日中友好のために、たくさんの訪問団の方々が訪れていらっしゃいます。

2007年10月04日

武器よさらば 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、乞われるままに、日の丸の旗をテーブルにかけ、浪曲を聞かせました。毎日、各部隊に乞われて、一生けんめい語りました。平和が来たという喜びと戦争を生き抜いた私は、意気揚々と堂々と声張り上げて歌いました。それは将兵たちの胸に、故国日本への思慕(しぼ)をはげしくかき立てたようでした。

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<八島>
 帰国だぞ、と告げられて「ああ、日本に帰れるんだ!」と喜ぶと、そうはならず。長い間に何度も何度も騙されたそうですが、これがその第一回目、ということになります。

2007年10月05日

武器よさらば 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 寒風の吹きすさぶ十月二十四日の午後一時ごろでした。まだ十月の末だというのに音に聞くシベリヤの寒さは、ま冬同然です。おまけに、私たちの服装といえば、よれよれの夏服に、油気がきれてコチコチになった軍靴(ぐんか)と帽子。外套(がいとう)のかわりに、麻袋をからだに巻きつけて、寒さをしのいでいる有様(ありさま)なのです。

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<八島>
 この10月24日には、すでに雪が降っていたそうです。日本人捕虜の服装の一部は、東京都新宿区の住友三角ビルの31Fにある「平和祈念展示資料館」に展示されており、実物を見ることが出来ます。
 文中のラーゲルは、ラーゲリとも言っておりました。
 では、次は来週火曜日に更新いたします。

2007年10月09日

飢えと寒さの中で 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 名前はおろか、顔も知らない相手と殺しあう戦争というものは、恐ろしくもまた、悲しいものであり、そうした歴史の激流におし流されている私たちは、個人の意思とはまるでかかわりのないところに連れて行かれ、生活をさせられてしまうのです。

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<八島>
三波とともに、戦後50年の特別番組でハバロフスクを訪れましたが、この得体のしれない建物いう第一印象であった「ラーゲリ」は、まったく残されていませんでした。ですから目にすることは出来なかったのですが、帰国なさった捕虜の方々が機会あるごとに語っておられて、掲載された出版物の図解やドキュメンタリードラマなどの映像では少し理解することが出来ます。また、10月5日に記載した「平和祈念展示資料館」でも知識として詳しく知ることが出来ます。が、うかがい知るにつけても人間が集団で住むに全く適さない環境であったことが把握出来ます。

2007年10月10日

飢えと寒さの中で 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 一中隊から四中隊まで総員三百四十余名が、この倉庫のような建物の中で、その日から生活することになったのです。いったい、いつになったら帰国できるのだろう。日本の国内はどうなったのかしら、もしかすると、長期間ここで過ごさねばならぬかも知れないぞ、と私は思いました。

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<八島>
 「まるで、そう、うち上がったマグロというかトドというか。皆、疲労困憊のうえ食べていないので、ダーンと横になったまま動かない、動けない。そんな状態でした」
 収容所に入ってすぐの様子を、三波は忘れられないこととして、そう話をしていました。

2007年10月11日

飢えと寒さの中で 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 あくる朝、
「起床(きしょう)」
 の声で、もそもそと起きあがりましたが、どの顔もどの顔も、生気を失って土色です。

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<八島>
 「黒い石鹸のような固くて小さいパンがひとつと、塩味だけのお湯のスープ。それしか配給されないのが3日間続きました…」三波はこう話しておりましたが、そこは極寒の地。思いがけない抑留生活の始まりに、どんな思いを抱いたことでしょうか…。

2007年10月12日

飢えと寒さの中で 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昼食は抜き。夜食も同じような、黒パンとスープ。することもなく、ラーゲルの第一日は暮れました。
 翌日、皆んなで申合せたように、私の浪曲を聞きたいということになりました。私は勿論早速承知して、『元禄忠臣蔵』の中より『俵星玄蕃情の槍』の一席を語りました。収容所の中は、割れかえるような拍手喝采(はくしゅかっさい)でした。

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<八島>
 藝は身を助く、の実例ですが、角砂糖を分け合ってかじる、ですものね…。でも、演者への礼として一個ずつ出し合ってくれた角砂糖…。今の日本の世の中より、人の礼儀が生きている気がします。
 では、また来週月曜日に。

2007年10月15日

飢えと寒さの中で 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 収容所に入れられて四日目。私たちははじめて労働に従事することになりました。
 石炭の積みおろし、材木の運搬、左官、大工、便所の清掃……。私は、穴掘りを命じられました。

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<八島>
 「てぬぐいを絞ってパンパンと振って水気を切るでしょう? で、程なくすると、パリンと凍ってしまうんですよ…」そのように話していたことがありました。

2007年10月16日

飢えと寒さの中で 6

三波春夫より

 それに、日本へ帰りたいという気持ちだけの捕虜の身にとって、労働などやる気はまるでないのですから、作業が進まないのは当然でしょう。
 しかしソ連の指導者たちは、こうした捕虜の心理を十分に研究して、半年後には“民主運動”という名の、思想運動を活発にして、捕虜たちに働く気持ちを起こさせました。

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<八島>
 「軍隊と抑留生活で、極限状態における様々な人間模様を見たこと。これは実に勉強になりました」そう語っていた三波でしたが、それでも帰国後もずっと性善説を立場とする人でした。

2007年10月17日

飢えと寒さの中で 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そこで私は、肉体の疲労、心の渇きを、夜の浪曲に救いを求め、その救いをみんなにも分かち与えました。戦友の一人は、私の浪曲を聞いて、
「北詰さんの浪曲は、消えかかろうとする日本人の心を、ゆり起こしてくれるような気がする」
 ともいってくれました。

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<八島>
「私の浪曲を、皆が下を向いたまま聞いている。語っている最中に顔が上げられることがない。どうしたんだろう、ウケていないのかな…。そう思っていたら、違いました。『北詰さんの浪曲を聞いている時だけ、日本に帰った気持ちになって、泣けてきて。涙の顔を見せるのは恥ずかしいから、みんな下を向いていたんだよ』そういうことだったのです…」三波が講演で話しておりました。

2007年10月18日

飢えと寒さの中で 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 さて、将校室当番となった私は、朝から晩まで、将校たちの下着の洗濯をしたり、食事の世話をしたりして働きました。
 十人ほどいた将校の中で、私にサルマタまで洗わせる少尉が一人いました。他の将校はサルマタだけは自分で洗うのに、その少尉だけは生意気なやつだと、不快に思っていましたが、私の仲間たちは、私以上に憤慨(ふんがい)していたようです。

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2007年10月19日

飢えと寒さの中で 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 当時はまだ、旧軍隊の階級章もそのままで、兵隊と将校の間には、軍隊当時そのままの厳しい階級制度が残っていて、上官の命令は絶対でしたから、兵長の私と少尉との口論は、収容所内の注目の的となりました。

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<八島>
どの時代、どんな境遇の下でも、身勝手になることは人間としてまさしくNGですよね。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年10月22日

飢えと寒さの中で 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私もあとへは引きません。サルマタを洗わせられた恩義(おんぎ)?も手伝って、ガンガンいってやりました。
 その日は口論だけでおさまりましたが、しばらくしてから、その少尉は、私たちの不満を耳にしたソ連側によって、他の収容所へ転属(てんぞく)させられました。

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2007年10月23日

飢えと寒さの中で 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 人間、貧すれば鈍すといわれますが、残念ながら収容所内では、泥棒があとを絶ちませんでした。
 あるとき、私は外の作業に出て、ソ連人から黒パンを一本もらったので、その三分の二を班の仲間に分けてやり、残りを雑嚢(ざつのう)に入れて枕にして寝ました。

<続きを読む>

<八島>
6月14日のブログにも、自分の時計を失敬されているのを気づかず、紛失したと思い、連帯責任で仲間にも迷惑をかけてしまった話がありましたが、ここでもパンを食べられてしまったことが書かれています。三波が話していたのには、夜中に“ちぎっては食べ、ちぎっては食べ…”をしていた人とは、頭のてっぺんを縦に向かい合って寝ていた形だったそうです。

2007年10月24日

浪曲と芝居と歌と 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ある日、私たち全員に一枚のアンケートの紙が配られました。これによって私も、いままで全く無関心だった政治というものについて興味を持たざるを得なくなりました。
「天皇制をどう思うか?」
「日本の政党の中で何党を支持するか?」
 アンケート用紙には、そんな質問がプリントされてありました。

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<八島>
 思想教育の本格化ですが、想像浪曲というネーミングが、いかにもその環境下の言葉使いだと思われます。

2007年10月25日

浪曲と芝居と歌と 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その内容は、ソ連側の意図とは正反対のものでしたが、東大出身の編集者が、
「北詰さんは、創作もなかなかうまいもんだねえ」
 と、ほめてくれ、これに力を得て、次から次へと浪曲台本を書いては壁新聞を載せ、それをまた口演しました。

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<八島>
戦後50年の特別番組で三波とシベリアに行った時に、「日本新聞」の現物を、当時の物品を展示してある博物館で見ること、手に取ることが出来ました。公共の場所で、よく、新聞を閲覧出来るようにしてありますけれども、同じような綴じ方でまとめられていて、そのうちの何部かをバサリバサリとめくった中にまさしく「演芸会」の告知欄があり、“浪曲 北詰文治”とありました。正しくは文司なのですが、本人のことに間違いはなく、『おー、あったあった。ほんとに書いてある』とロケのスタッフ皆で感動しました。ロケで唯一、三波個人を特定できるものに出会えたからです。およそ50年前のその告知記事を見る三波は、少しの間、寡黙でした。

2007年10月26日

浪曲と芝居と歌と 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そして、労働作業も本格的な八時間制のもとに、ビッシリと組みこまれるようになりました。
こうしたある夜、私は浪曲を口演しながら、一部の愛好者(あいこうしゃ)を除いては、昼間の疲れで寝床につく人たちの多いことを知り、強く反省させられたのです。

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<八島>
 浪曲がうけなくなったら演ずること自体を止めるのが普通でしょうが、三波にはその選択はありえなかったのでした。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年10月29日

浪曲と芝居と歌と 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の喜劇化を思い立ち、さっそくその台本を書き上げました。相棒の兵隊がお宮で、私が貫一。みんなの協力でポスターもできあがり、紙で作ったカツラもショールも、帽子もマントもそろいました。舞台は収容所の廊下です。

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<八島>
 演劇の持つ魅力、笑うことの偉大さ、ですよね。ステージの仕事は、聴かせて泣かせて笑わせてこそ、お客様がたは満足し得心してお帰りになるものだと言います。抑留生活ではことさら感情の満足、心の満足が大事だったでしょう。

2007年10月30日

浪曲と芝居と歌と 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 つづいて次の日曜日には、『仁王奇聞』という喜劇を上演しました。“役者”もグッとふえて十二人ほど出演しましたが、それでも出演希望者が多くて、断わるのに苦労するほどでした。

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<八島>
ここに書かれている時代も、後年私が見ていた三波の生きた日々も、本当にナンデ?!と思うほどクリエイティブな能力と活力が尽きない人でした。

2007年10月31日

浪曲と芝居と歌と 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そのころの私は、片時(かたとき)も鉛筆と紙を手から離さず、そうそう、紙のないときは、白樺(しらかば)の皮をはがして、メモ用紙代りに使ったこともあります。

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<八島>
シベリアの白樺は、日本国内で見られるものとは違ってとても幹が太いので、その皮を剥げば何とか、メモ用紙代わりにはなった…。三波と共に終戦50年の特番ロケでハバロフスクを訪れた際に当地の白樺を見て、初めてこのエピソードが理解出来ました。が、そもそも紙が無かったのが切ない話ですが。
 「日本人は本当に生産性の高い民族だと、抑留生活でつくづく実感しました。例えば、荒縄をうるかして(茹でて)ほどいて細い糸にして、島田の鬘を結い上げた人もいました。
それに、捕虜の身であっても、日本人は与えられた仕事を一生懸命やるんですよ…」
講演や取材で話す三波の顔は、その時の誇らしい気持ちが蘇えるような笑顔でした。

2007年11月01日

浪曲と芝居と歌と 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 かくて浪曲家南篠文若は、演劇という未知の壁にうち当り、自分の浪曲をふり返ると同時に、自分がこれから先いずれの道を歩むべきかという、大きな問題と取り組まねばならなかったのです。

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<八島>
 自分の軸である浪曲、それを磨くためとなった演劇の研究。自分の抑留生活の喜怒哀楽すべてを、藝の肥やしにしていた人なのでしょう。

2007年11月02日

浪曲と芝居と歌と 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 早春のある日、私は二十名ほどの仲間といっしょに、あるアパートの補修工事に出かけました。
 窓ガラスを拭きながら、私は習い覚えたばかりの『カチューシャの唄』を、ロシヤ語で歌っていました。

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<八島>
 三波の歌声がロシアの人達にウケましたが…。
ではまた、この続きは来週月曜日に。

2007年11月05日

浪曲と芝居と歌と 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その中のひとり、背の高い黒い瞳の奥さんらしい人が、
「あなた芸術家ですか?」
 と、聞くのです。

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2007年11月06日

浪曲と芝居と歌と 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 大きなロシヤ人から見れば、私は少年に見えたのでしょう。そして、さっきの奥さんらしい婦人が、パンやお菓子を持って来て、私にくれるのです。捕虜になってから、まだ一度も食べたことのない白パンやお菓子です。

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<八島>
 慰み物を貰う自分と戦勝国の国民たち。三波の歌声を純粋に「良い」と思って、パンやお菓子をくれたのであっても、立場の格差は歴然としていました。
このような経験を思い出していたのでしょう。戦後50年の特番ロケでハバロフスクに行ったときに、ロシア人の表情を見て三波は言っていました。
 「ロシアの人達に笑顔が無いね。暗い顔をしているね。僕たちが捕虜だった時、戦勝国であるロシア人はみんな明るくて活気があったよ。笑顔がいっぱいだったよ。現在の国情、政治の違いだね…」

2007年11月07日

浪曲と芝居と歌と 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そばにいた、その婦人のお母さんらしい白髪のおばあさんも、
「もらっておきなさい、もらっておきなさい」
 というように、ニコニコうなずいています。

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<八島>
戦後50年の特番ロケでは、パン工場にも行きました。当時、恵んでくれた婦人の思い出を辿りに行ったのです。しかし、パン工場の中に猫がウロウロしているのにびっくり。そして出来上がった黒パンを試食させて頂きましたが、三波の感想は「捕虜のときに食べたパンは、もっともっと味が良かったんだけどなぁ・・・」
 私が「捕虜のときの食料が満足ではなかったから、美味しく思ったんでしょう?今の方が美味しく出来ているはずじゃないんですか?」と言っても、「いやあ、違うよー」
 この比較の答えは三波や当時の仲間の方々にしか出せないのでした。

2007年11月08日

浪曲と芝居と歌と 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 見知らぬ異邦人の私がうたった一曲の歌が、これほど喜ばれたのはなぜだろう?珍しいからか?それとも捕虜の私を憐(あわ)れんだからだろうか?

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2007年11月09日

浪曲と芝居と歌と 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私にパンをくれた婦人のご主人は、ある工場の工場長でしたが、奥さんはそのご主人に、私のことを、
「芸術家のお友だちですの」
と、紹介しました。

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<八島>
 国家対国家の戦争と、個人同士のお付き合い。この対比をみても戦争はまことに非人道的であり非生産的だと思います。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年11月12日

浪曲と芝居と歌と 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがてそのアパートの補修作業も終って、次の日からは、もうここに来ないという日、私がお別れの挨拶に行くと、奥さんは、
「からだを大事にして、一日も早く日本へ帰り、ご家族の方に逢えることを祈っていますよ」
 と、励ましてくれました。

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<八島>
 戦後50年の特番ロケで、ハバロフスクの日本人捕虜が建てたアパートを取材した時のことです。古いけれど頑丈に今もあり、現地の人達が住んでいるそのアパート。そして隣は、アパートの跡地に再度建てているという建築現場。住民の小母さんが語りました。
 「私たちが住んでいるこのアパートはね、昔、日本人の捕虜が建てたんだけど、丈夫だから今でも住める。でも、隣の壊れちゃったアパートは、ロシア人が建てたものだったのよ(笑)」

2007年11月13日

シベリヤの春 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そのつぎに私たちが作業に行ったのは、ハバロフスク市立音楽堂の補修工事でした。
 私は左官屋の手伝いをしましたが、昼休みにみんなから所望されて、浪曲のサワリを一節やったところが、これを聞いていた音楽堂の支配人が、
「あなたはどういう種類の芸術家ですか。とてもよい声だ。まるでシャリアピンのような声だ」
 と、たずねるのです。

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<八島>
客席数が500程のこの音楽堂に、特番ロケで訪れました。ロケ中でここだけが、捕虜としての三波が実際に行った、居た場所として特定出来るところでしたから、それだけに三波の表情も「ここだよ、ここだったよなあ」と、感慨深いことが見て取れました。補修した音楽堂内部の壁もそのまま。まさに三波が補修した壁かと、私も思わず撫でました。「やっぱり、なんとなくデコボコが無い?」などと冗談を言い、三波も笑い、その顔を見たスタッフも三波を連れて来ることが出来て良かったと、笑顔でちょっと感動の面持ちでした。補修工事をしていた当時、娘やテレビクルーと共にここに再び来るなどとは、思ってもみなかったでしょう。

2007年11月14日

シベリヤの春 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 このときばかりは、自分がほんとうの声楽家であったらなあと、思わず浪花節語りのわが身を、卑下(ひげ)せずにはいられませんでした。

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<八島>
 昨日も書きましたが、ロケで訪れた音楽堂のステージで、当時の再現を収録すべく、三波が浪曲とロシア民謡を朗々と唄いました。客席にいた音楽堂の方々が拍手して喜んでくださいました。

2007年11月15日

シベリヤの春 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 なんという美しく、すばらしい娘だろう。彼女が通り過ぎたあと、私はぼう然とそのうしろ姿を見送っていました。
 その私のえり首に、ヒヤリと冷たいものが落ちてきて、われに返りました。見あげると、落ちてきたのは、屋根のツララが春の陽にとけたしずくだったのです。

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<八島>
こんな、心が浮き立つようなことがあって良かった…。

2007年11月16日

シベリヤの春 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「ズドラスチ(こんにちわ)」
 するとその人は、小さな声で、
「ズドラスチ」
 と、答え、はにかんだような微笑を返してくれ、そのまま行ってしまいました。でも、私はそれだけで十分満足して、彼女のうしろ姿を見送っていました。

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<八島>
純情な北詰青年は、この時22歳であります。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年11月19日

シベリヤの春 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 それから幾日か経ったある日、友だちの一人が、奥の部屋に、目のさめるような美しいバレエの衣裳があると教えてくれました。

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<八島>
 シベリアを50年振りに再訪した特番ロケの際、今も在るこの衣裳部屋にも行きましたが、当時と変わらない風情のようで大量の衣装がギュウギュウ詰めに掛けられていました。

2007年11月20日

シベリヤの春 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 彼女らは、いっせいに振りむき、私たち二人を見つめましたが、その中に、黒のワンピースに小柄なからだを包んだあの人が、心もちとがめるような視線を、私に注いでいるではありませんか。
 部屋の暖かさも手伝って、私はカーッと熱くなりました。

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<八島>
こんな時にも、「藝は身を助く」でした…。

2007年11月21日

シベリヤの春 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 友だちはロシヤ語がなかなか達者で、私のことを、日本でも有名な芸術家だというと、支配人はすっかり信用して、部屋にあった衣裳を手にとって、いろいろ説明してくれました。

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<八島>
ロシアの若い女性は日本人とはかけ離れたお顔立ちで、街行く人にも驚くほどの美人がいらっしゃいました。このご当人のお顔は、もう知ることは出来ないのが残念ですが。

2007年11月22日

シベリヤの春 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は思わず、衣裳よりもその人の顔を、まじまじと見てしまいました、すると支配人は、
「どうだ、彼女はすばらしい娘だろう」
 と、いうのです。

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<八島>
このあとは…また来週月曜日に。

2007年11月26日

シベリヤの春 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 考え直して歌謡曲をうたいました。
   ~青い背広で心もかるく
      町へあの娘と行こうじゃないか……~
 歌い終ると、たいへんな拍手で、もう一回アンコールです。

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<八島>
 古賀政男先生は、この時からおよそ13年後の三波の大ヒット曲「東京五輪音頭」の作曲者であるわけです。

2007年11月27日

シベリヤの春 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「ほう、それは大したものだ。じつにいい曲だ」
 支配人は、感心した面持ちでした。

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<八島>
 耳を澄ましていれば、日常の中に、人生の大切なヒントは授けられているんですね。それに気づけるアンテナを立てているか否か、がポイントですけれど。

2007年11月28日

シベリヤの春 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その後、『大漁音頭』『生産音頭』『百万隊音頭』などを自分の手で作詩し、仲間に作曲してもらって、私が歌い、ラジオもレコードもないハバロフスク収容所全域に、日本人の歌として広めて行ったことを思えば、私が歌手としてデビューしたのは、すでに昭和二十一年のことだったといえるかも知れません。

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<八島>
 確かに…歌は(職業としない場合は)素人でもそこそこ上手く唄えるものですが、浪曲を唄い語るのはたいへん難しいです。素質と鍛錬が絶対に必要です。その意味で、三波には自負があったのですが、しかし、のちには歌手になる三波。どのような経緯があったのか、今後の展開にご注目ください。

2007年11月29日

シベリヤの春 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 音楽堂の作業も終って、しばらくしてからのことです。ある夜私は、所内の仲間に乞われるままに、『浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の殿中刃傷』を、一席やりました。その作品は後にも先にもこのとき一回きりでしたが、非常に気にいった口演でわれながら満足するできばえでした。

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2007年11月30日

シベリヤの春 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 遠く異郷(いきょう)の地に捕虜となっている口惜しさは、だれの胸にもあったのです。多くの人が、涙を流して聞いてくれました。
 その夜、私は民主委員会の一人の訪問を受けました。

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<八島>
捕虜たちが三波の浪曲に感動する様子を見て、君主に尽くす家来の物語のこの浪曲は共産主義思想への転換に大いに邪魔をするという見解だったのでしょう。捕虜たちは、遠い地にいて、故郷に安否も報せられない境遇を投影しただけだったのに…。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年12月03日

シベリヤの春 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 彼はさらに言葉をついで、
「日本の民主論義は、ぼくたち自身の問題だと思う。新しい民主的な日本を作るために、協力してくれないだろうか。君の浪曲はすごく感動的で、君の一挙手一投足は全所員の注目の的だ。ぜひ協力してほしい」
 と、熱っぽい口調で語るのです。

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<八島>
 娯楽を通して捕虜たちに思想教育をほどこす。これはたいへん効率のよいことでしたから、そこに目をつけた当局によって三波は役目を持たされた、というわけです。

2007年12月04日

シベリヤの春 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そこで私は、二つのことを考えました。
 ひとつは、浪曲は民謡の味を基本にした声楽ではあるが、その内容にはこの民主委員の青年の熱情に似たものがなければならぬ。新しい日本を作るために、浪曲を役立たせよう。勧善懲悪(かんぜんちょうあく)を節に托して真向から説く浪曲の特色を、民主々義運動の一環として使ってみようということです。

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2007年12月05日

シベリヤの春 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 こうして取り組んだ材料は、私たちがいじめぬかれた日本の軍隊組織の醜(みにく)さ、冷酷さ、そして戦争の悲惨(ひさん)さでした。
 書きはじめた私は、打算も名誉心もなく、昼間の作業の疲れも忘れて、情熱を傾けました。毎晩、夜が白むころまで書きつづけ、ついに五日目の朝、脱稿(だっこう)しました。

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<八島>
捕虜の生活の中で、睡眠時間を最低限まで削っての集中製作。まことに三波らしいことです…。

2007年12月06日

シベリヤの春 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 三十分、四十分、一時間……。なおも語りつづけてついに一時間二十分以上の口演、私としては最長篇の一席でした。

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<八島>
「迫力持って語る三波さんと、大喝采で盛り上がる聴衆の現場風景は、それは凄かったですよ…」この時期の三波の浪曲を聴かれた、当時の仲間の方からうかがいました。

2007年12月07日

シベリヤの春 18

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 語り終った私は、全身にふつふつとたぎり立つ感激におそわれました。その日から、私はすこしずつ思想的な浪曲家と変っていったのです。
 そんなある日、ソ連軍の中将が私を所内に訪ねてきて、モスクワの劇場のある芝居に出演するようにと、すすめに来てくれたのです。

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<八島>
色々なことが起こりますね…。
ではまた、来週月曜日に。

2007年12月10日

シベリヤの春 19

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、その後(のち)には、冗談にも帰国したいなどといえなくなるほど、シベリヤの民主運動は活発に展開されはじめたのです。
 私の新作への意欲も、社会主義という新しい思想を土台にして進みました。

<続きを読む>

<八島>
 そうせざるを得なかった、そうしなければ帰れなかった、というのが三波の当時の活動への率直な感想でした。

2007年12月11日

シベリヤの春 20

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 監視(かんし)の歩哨(ほしょう)もつかず、私たちは二人だけでおもてへ出ました。何年ぶりかで味わった、人間らしい自由。バスに乗ると、
「おお、ヤポンスキー」
 と、料金も取らず歓迎してくれます。

<続きを読む>

<八島>
捕虜が人間らしくバスに乗れた…嬉しかったでしょうね。

2007年12月12日

文化活動に終止符 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 シベリヤの大平原のまっただ中を、私たちを乗せた汽車はコムソモルスクさしてひた走りに走っていました。もっとも、見渡すかぎりの草原ですから、じつにゆっくり走っているようにしか感じられませんでした。

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2007年12月13日

文化活動に終止符 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 みんなもう、われわれの地区が、コンクールに優勝することを約束されてでもいるような勢いで、はしゃいでいます。
 私は、窓外に走り去る風景に目をやりながら、浪曲の脚本をくりかえし研究していました。その私の脳裡(のうり)に、叔父の黙雷和尚の顔が浮かんできました。

<続きを読む>

<八島>
浪曲は自分一人で演じる藝ですので、車内で一人台本を練り続ける三波だったのでしょう。私が知るところの、楽屋での休憩時間にスタッフやバンドのみんながお喋りに興じていても自分がやるべきこと----本を読んで調べ物、各新聞に目を通す、原稿を書く---をしていた三波の姿とだぶります。

2007年12月14日

文化活動に終止符 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 こんなことがありました。私が九州地方の巡業の帰りに、修善寺へ立ちよりますと、座敷にはいる私の姿(すがた)を見るなり、
「うむ、だいぶ上達して来たな」
 と、いうのです。

<続きを読む>

<八島>
黙雷さんでなくても年嵩になれば若者の成熟度は見て取ると思いますが、若いときの三波はただただひたすら素直に、黙雷さんを師と仰いで一生懸命だったのです。
 ではまた、来週月曜日に。

2007年12月17日

文化活動に終止符 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「なぜ浪曲家は、座長になったら先生と呼ばれるのか分かるかな」
 叔父の問いに対して、私が返答に困っていると、
「先生という言葉は、世の中の指導者であるからだ。芸人とは、芸をもって社会の指導にあたるものだ。このことを忘れたら、その人はもう死んだことになるのだ」

<続きを読む>

<八島>
 指導者という考え方はこのお坊様らしいですが。世の中に藝を通してメッセージをする立場であることを、常に心得ているようにと教わった。それを三波は一生守ったと思います。

2007年12月18日

文化活動に終止符 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 轟々(ごうごう)とひびく車輪の音。その力強い音にもまして、私の身内の中の熱い血潮(ちしお)はたぎり立っていました。

<続きを読む>

<八島>
若さゆえの気負った解釈。思想教育をされている最中では無理からぬことでしょう。

2007年12月19日

文化活動に終止符 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そうした私を乗せた汽車は、一昼夜かかってコムソモルスクへ着いたのです。
 コンクールの会場は、たいへんな活気にあふれていました。文化活動の討論会で、主義主張を通すための戦術会議が、あちこちで開かれており、グループごとに額をつきあわせて作戦を練っています。

<続きを読む>

<八島>
 岡田嘉子さんは故人となられましたが、このような機会に、三波は実際に芝居を拝見しているのでした。

2007年12月20日

文化活動に終止符 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 いよいよ私の番が回ってきました。テーブルに白布をかけ、新しい軍服に身を固めて、颯爽(さっそう)と登場しました。わざと紋付は着ませんでした。なぜなら“紋服”それ自体が古臭(ふるくさ)いといわれたら、それだけで何点かの減点になってしまうかも知れない、という意見に従ったからです。

<続きを読む>

<八島>
富士を残したという意味は、以前お話した“テーブル掛け”を富士山の形に掛けることをした、ということです。さらに、旧態の日本の生活上のものは否定し霊峰富士だけは残る、ということもあるのでしょう。

2007年12月21日

文化活動に終止符 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 あまりにも極端(きょくたん)な考え方だったが、当時は真剣にそう思いこんでいたのです。私もそれほど極左的になっていました。

<続きを読む>

<八島>
結果はいかがでしょうか。
 では次回は来週火曜日に更新いたします。

2007年12月25日

文化活動に終止符 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ところが、二日間にわたったコンクールの幕が閉じられて、順位が発表されてみると、私たちのグループは選外になってしまったのです。しかも、グループの指導部は、浪曲を参加させたことに対して、非難(ひなん)さえ受けたのです。

<続きを読む>

<八島>
 日本独特の芸能である浪曲は審査対象にはならない、という結果が出たということですね。

2007年12月26日

文化活動に終止符 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、コンクールの批判会の席上、浪曲の問題は特殊なものだからと、議題からはずされてしまいました。発言資格(しかく)のない私は、まるで被告(ひこく)のように、おずおずと会議場を見まわしていました。

<続きを読む>

<八島>
 大人気の芸能として日本中を席巻した浪曲。子供時分からそれに惚れ込んで稽古を積み、やっと舞台に立つプロの浪曲家となった三波。コンクールの水準では圏外の芸能とされたことは、外国の催しであるならば仕方がないことと言えるのに、当事者であり、浪曲が捕虜生活において生きる希望なのだと自他ともになっていたのですから、信じられない裁断だったでしょう。

2007年12月27日

文化活動に終止符 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 専門家の私の浪曲が、素人の演劇の前に問題にされなかったのだ。目もくらむほどの口惜しさです。仲間たちがいうとおり、私の浪曲は、ほとんどの人に感動を与えたはずなのに……私は、心の中の煮えたぎる思いを、じっと押さえつけていました。

<続きを読む>

<八島>
 「捕虜生活を送った4年間は、人生の道場でした…」と三波は言っておりましたが、この時の衝撃も、より深く自分の藝の行く先を考えるための貴重な出来事だったようです。

2007年12月28日

文化活動に終止符 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 滅び行く芸能、浪曲―。そうは思ってみても、私のからだの中から、浪曲を取り去ってしまうことができるはずがありません。それに浪曲の持つ特質は、日本人の血の中にある民謡の節調です。まだまだ日本人の中には、浪曲を聞きたい人もあるはずです。

<続きを読む>

<八島>
 「いつも新しい藝を」。三波はそれを生涯の信条として、尽きること無く止むこと無く、新しい作品を生み続けました。その特異な能力は、この時期の訓練で培われ身に付いたものだったと思います。
 では、この続きは1月8日に。
 よいお年をお迎え下さいませ。

2008年01月08日

文化活動に終止符 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は眠る時間も惜しんで、台本の作成に取りくみつづけました。
 さて、ここで、それからの私の主な行動を記してみますと、次のようになります。

<続きを読む>

<八島>
 2008年の最初のブログです。あらためまして、今年もよろしくお願い致します。
“三波の音頭か、音頭の三波か”とも言われたほど三波春夫の音頭ものは皆様から親しまれましたが、この時期から音頭をつくり、歌っています。まさに大勢の人々の音頭取りには、テーマソングのような音頭が必要だったのでしょう。また、「浪曲を高度に発展させるとオペラの形をとらなければ…」については、昭和52年、東京・歌舞伎座などの大劇場公演で上演した芝居『塩原多助』の中で、ミュージカル仕立てに浪曲を唄い語る場面を実現させ、好評でした。

2008年01月09日

文化活動に終止符 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

○浪曲は、『母故子故』の四部作、『過ぎ行く町』『シベリヤの空晴れて』などを創作口演した。『シベリヤの空晴れて』は、政治指導部員の神経質な毛嫌(けぎら)いにあい(ソ連を軍国主義的に表現をしたと文句をつけられて)反動的浪曲家という烙印(らくいん)を押され、劇団をしりぞかされた。

<続きを読む>

<八島>
 「藝の世界にいた自分が、軍隊と捕虜の経験をしたことで広い視野を持てた」と言っておりましたが、芸能だけの叩き上げられ方とはまた違った修行の日々だったわけです。

2008年01月10日

文化活動に終止符 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

○港湾労働作業に出て、力いっぱい働いた。六十キロの小麦粉のハネ役は、たいへんな重労働だったが、よく頑張ったものだった。

<続きを読む>

<八島>
 この頃の経験もあってか、三波は結構筋肉マンでした。唄うことに大切な腹筋は勿論、腕や脚、ふくらはぎの筋肉も。歌手の仕事はまた、かなりの重労働でもあります。

2008年01月11日

文化活動に終止符 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

○ふたたび指導部の指令(しれい)で、楽劇団の指導者になった。民主運動は、時に安易(あんい)に人を動かし、時には冷酷に人を切るものだった。

<続きを読む>

<八島>
 ファンキーな一面が見えますが、まことに三波は陽性の人でした。
 では、次回は15日に更新します。

2008年01月15日

文化活動に終止符 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

○この間に、起居(ききょ)をともにした親友が一人できた。その名は藤井武君。
○私の隣にいたある友人は、ソ連政治部員の指令(しれい)で私と劇団長と藤井君の行動を詳細に報告する任務(つまりスパイ)を与えられた。彼は、ひそかにそれを告白したが、いかにも苦し気であり、気の毒だった。

<続きを読む>

<八島>
 「ある友人」は、夕飯が終ると決まってどこかに行っているので、おかしいと思って周囲の者と共に問い詰めたところ、スパイと白状した。「それを聞いたときにはゾーッとした」と言っていました。
 徹底した思想統制をされる立場の捕虜ですから、本意でなくても「百万隊音頭」を作らざるをえない状況だったのです。

2008年01月16日

文化活動に終止符 18

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

○民主運動の一環として、当時ひらがなサークルや、カタカナサークルができて、文盲(もんもう)対策が実施され、全体の約三〇パーセントの人たちが、満足な読み書きができないことを知った。涙をこぼしながら、私から文字を教わった人があったことを思い出す。

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<八島>
 3割の方々が、とあるのには、異論をお持ちの方もいらっしゃると思います。今、この文章で読み取りたいのは、この抑留生活という状況の中で日本の文字を教え教わりあって、そこに嬉しさがあって、という人々の様子と心だと考えます。

2008年01月17日

文化活動に終止符 19

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

こうしたシベリヤ生活の体験から私は、
「解(わか)りやすい真実の芸をハッタリやつけ焼刃でなく、じっくり腰をすえて進めて行きたい」

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<八島>
 そして、「日本人大衆とともに生き、日本人大衆のための藝を」というポリシーを持って、三波春夫は藝の道を真っしぐらでした。

2008年01月18日

さらばシベリヤよ 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そして、やがて祖国日本にかえる日がやってきました。
 それは昭和二十四年九月二十日。シベリヤの土を二度と踏むことはあるまいという、一沫(いちまつ)の感傷(かんしょう)を残しつつも、思いはすでに祖国(そこく)に飛び、誰の顔にもかくし切れない喜びの色があふれていました。そして堂々と隊伍(たいご)を組み、胸もはれぼれと収容所を後にしたのです。

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<八島>
 やっと、帰国です。
 では、この続きは来週月曜日に。

2008年01月21日

さらばシベリヤよ 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがて明優丸は静かに岸壁(がんぺき)を離れました。岸壁と船の間に、みるみる青い海面がひろがって行きます。せきを切ったように湧きあがる大合唱、船は次第に速度を増して行きます。

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<八島>
 「何度も『帰国だ』と告げられては嘘だった経験をしたので、この時も本当にそうなのかと、船が岸壁から離れていくのを10センチ、20センチ、30センチ・・・と見届けて、本当に帰れるのかを確認してましたよ…」と話していました。

2008年01月22日

さらばシベリヤよ 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、祖国を慕(した)いつつ、シベリヤの土の中に消えて行った多くの仲間たちのことを考えれば、ただ喜びだけにひたっていられないと胸の苦しみをおぼえるのでした。

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2008年01月23日

さらばシベリヤよ 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 いよいよ舞鶴の港に着きました。この時はさすがに船酔いもおさまり、上甲板(かんぱん)に出て、目の前に迫る故国の山の緑を、涙を浮べて見入っていたものです。

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<八島>
 「祖国の大地を、思わず両手をついて触らずにいられなかった」とも話していました。

2008年01月24日

さらばシベリヤよ 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 なんという感動でしょう。なんといううれしさでしょう。私は、平和であることの尊(とうと)さをしみじみと感じました。戦争がふたたび起こらぬように、そして起こさぬようにと、祈りと誓いをこめながら……。

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2008年01月25日

さらばシベリヤよ 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 父母や妹が待つ塚山へあと一歩、直江津、柏崎そしてこのトンネルを越えれば……。
私は出迎えの父と兄の手を握(にぎ)り、生きていることをたしかめ合い、喜び合いました。

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<八島>
 本人も周りの人達も、どれだけ大きな感動だったでしょうか。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年01月28日

再び浪曲の舞台へ 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 軍隊に入る前の年、これが見納(みおさ)めかと、すみずみまで浪曲の公演をしてまわった故郷の村や町を、生きてふたたびこの目で見られようとは……。ほんとうに夢のようなことでした。

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2008年01月29日

再び浪曲の舞台へ 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そしてふたたび、私の浪曲家としての生活がはじまったのです。
 故郷に帰り着いて十日目、私はなつかしの母校(ぼこう)の講堂(こうどう)で、その第一声をあげました。曲師は、ちょうど隣りの村にいた浪曲学校時代の先輩の奥さんがつとめてくれました。私の帰国をきき、わざわざ先方(せんぽう)から訪ねてきて、協力してくれることになったのです。

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<八島>
 軍隊と抑留の時期を通して、いつも浪曲とともに在りながら、それは三味線なしの口演でした。浪曲は、曲師が弾く三味線と一緒になって成立します。この日、鳴り渡る三味線の音色は本当に心強かったことでしょう。

2008年01月30日

再び浪曲の舞台へ 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 それは、昭和二十四年十月九日、やはり一月おくれの母の命日でした。
 これは余談になりますが、私が後に三波春夫となり、浪曲家としての舞台にさよならしたのが、母の祥月命日の九月九日、笑われるかもしれませんが、私には不思議に“九”という数字がついてまわるようです。

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2008年01月31日

再び浪曲の舞台へ 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 さて、帰国第一声の浪曲は、おそらくその夜の聴衆にとっては、びっくりするようなものであったにちがいありません。なにしろ、その時の私の頭の中には、シベリヤでみっちりたたきこまれた、
“眠れる農民よ、そして労働者よ、新しい時代にめざめよ!”
“軍国主義を徹底的(てっていてき)に墓場(はかば)に埋(う)めてしまおう!”
といった、勇ましいスローガンが満ち満ちていたのです。

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<八島>
 赤色浪曲家といわれた時期の始まりです。4年間も頭の中を染められていたのですから、そうでなくては生きられない環境にいたのですから、仕方が無いことでした。

2008年02月01日

再び浪曲の舞台へ 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ある程度の客席の反応(はんのう)はありました。しかし、とても感動のるつぼにさそい込むというほどには行きませんでした。それでも故郷の人々は、この生意気(なまいき)な“共産主義的浪曲家”をあたたかい拍手(はくしゅ)で迎えてくれました。よかったよ、と賞(ほ)めてくれた人もすくなくありません。

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<八島>
 「客席で聴いてくれた知人は『おめぇさんの浪花節は、おっかねぇのぅ』と。村長さんや校長先生が、こりゃ大変だと一生懸命、『それでは駄目だ』と説いてくれたのです…」
そう振り返って言っていました。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年02月04日

再び浪曲の舞台へ 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ところが、すっかりのぼせている私は、やはりソ連でもまれてきた兄といっしょになって、村長さんをやりこめにかかったものです。村長さんも負けておらず、とうとうたいへんな激論(激論)になってしまいました。

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<八島>
 三波の兄もソ連で抑留され、一年早く帰国していたのでした。抑留中は、それぞれが居る土地は遠く離れており二人が顔を合わせることはなかったのですが、「日本人新聞」の『演芸会』の告知記事の中に、浪曲で出演する弟の名前をみつけては、元気でいることがわかったのだそうです。

2008年02月05日

再び浪曲の舞台へ 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 後日、父は村長さんから、
「兄弟二人とも、なかなか勉強してきたわい。たいしたもんだね、北詰さん」
 と、賞(ほ)めるとも、皮肉(ひにく)ともつかないことをいわれ、渋(しぶ)い顔をして帰ってきたものです。

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<八島>
 人の成長は時間をかけて見守ることも必要、という一例でありましょうか。

2008年02月06日

再び浪曲の舞台へ 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 またお話は横道(よこみち)にそれますが、私はその当時の自分の気持ちや行動を、決して後悔(こうかい)はしておりません。
シベリヤでの辛(つら)い経験と、押しつけられたとはいえ、社会主義的訓練の中から、私はたしかに大衆(たいしゅう)の立場に立つものの考え方というものを学んだのです。
あの体験(たいけん)がなかったならば、おそらく、今日の三波春夫は生まれてはいなかったでしょう。

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<八島>
 大衆に、お客様に歓んでいただく藝を、歌を。
この思い無くしては、三波春夫の生き方はありませんでした。

2008年02月07日

再び浪曲の舞台へ 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 こうしてゴツゴツと角ばった岩が、川を転がり流れるうちに、円い石に変って行くように、私の頭からトゲトゲしいものが消えて、日本的なものの考え方が戻ってきたのです。
 それは決して大衆への妥協(だきょう)ではなく、私にとっての進歩(しんぽ)であったと思っています。

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2008年02月08日

再び浪曲の舞台へ 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 もっとも、そのころは夜一回の公演が普通ですから、十分に稽古(けいこ)をする時間もありました。いろいろな人たちと、いろりを囲んで世間話をしたりしたことも、とても役に立ったように思われます。

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<八島>
 批評を聞くことは、勇気と覚悟のいることですけれど、三波は晩年も聞く耳を持ってくれていました。
 ではまた、来週は火曜日に。

2008年02月12日

再び浪曲の舞台へ 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、それはしょせん限られた地方だけのことでした。
 やがて私は、一日も早く東京に出て、日本中の人々の中で、自分の力を試(ため)したいと考えるようになりました。

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2008年02月13日

再び浪曲の舞台へ 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 出征(しゅっせい)する時、涙をこらえた顔で送ってくれた姉も、今日はまったく晴れ晴れと、とびつくように六年ぶりの私を迎えてくれました。そこに私は、亡き母の面影(おもかげ)を見る思いで、二人とも、しばらく顔をみつめあったまま声もありませんでした。

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<八島>
この姉は、7歳で実母に死別したときから実母の代わりだという気持ちでずっと、4歳下の末弟の三波のことを想う人でした。

2008年02月14日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私はそのまま北区西ヶ原の姉の家に身を寄(よ)せることになりました。
 義兄(ぎけい)は当時古河鉱業の課長クラスの職貢に合って、学問もあり、とても優しい人でした。

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<八島>
 当時のエピソードを三波の姉いわく「文司(三波のこと)がたまに、自分の部屋は自分で掃除するからといって窓を開けて箒で掃くのだけれど、勢いがよすぎて、ホコリがぜーんぶ部屋に舞い戻ってるのよ・・・」

2008年02月15日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そして、いよいよ東京の浪曲界に復帰(ふっき)することにりました。昔の先輩(せんぱい)が親切に迎えてくださって、案外(あんがい)どうということもく、ボツボツ仕事がはじまったのです。
 ところが、私の浪曲はあいかわらず赤色なのです。演じるものが、どうしても政治的なものにかたよりがちで、世話をしてくれた先輩さえ驚くほどたかくなになっていたようです。

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<八島>
4年間、極限に制御された生活のなかで体得させられた思想教育は、根深いものなのですね。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年02月18日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 当時協会は、私の尊敬(そんけい)する米若先生が会長でした。総会も形どおり終り、懇談会に移って、これからの浪曲界発展の問題を語り合うことになりました。
 若い者も年寄りも、上下のへだてなく、建設的(けんせつてき)な意見を出し合おうじゃないかと、長老(ちょうろう)から声がかけはじまった懇談会でしたが、修行(しゅぎょう)のむずかしさから、封建的な世界といわれている浪曲界の事です。誰もなかなか発言しようとはしません。

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<八島>
同県人で大先輩の寿々木米若氏が会長の時代、三波は“若手”だったのであります。

2008年02月19日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

一、浪曲発展のために、客と密着(みっちゃく)した発表の場である、浪曲専門の会館(定席)がほしい。
大衆的な株式組織で、ぜひぜひ早急に建設するよう願いたい。
二、浪曲協会幹部指導(かんぶしどう)のもとに、この際、浪曲人向上の意味を持った新聞を、月三回程度
(ていど)は発行してほしい。

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<八島>
建設的な意見を、実にたくさん述べたものですが、いかがなりますでしょうか・・・。

2008年02月20日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、以上の三項目を立てて、協会幹部(かんぶ)にお願いしたいと発言したわけです。
 すると、ほとんどの人々からさかんな拍手がわきました。私はホッとして、
(やっぱり思い切っていってよかっだな)
 と、思いました。

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2008年02月21日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その時です。
「あのね君!」
 という声が、私に向ってかけられました。顔を見るまでもなく、
「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」
 のあの独得(どくとく)の声、広沢虎造師なのです。私は思わずブルッと体がふるえ、
「ハイッ!」
 と、頭を下げて、虎造師を見あげました。

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<八島>
読んでいるこちらも緊張しそうですが、つづきは明日。

2008年02月22日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 虎造師はおもむろに、
「若い君の発言は、なかなか理にかなってはいるが、芸人というものは、そんな他力本願(たりきほんがん)ではだめだ。ちかごろの若い者は、勉強をしないから、自分の道がひらけて来ないのだ」
 という意味のことを、私をさとすようにいわれました。

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<八島>
 確かな米若会長のお教えを聞く、若き日の姿でした。
ではまた、来週月曜日に。

2008年02月25日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 たしかに虎造師のおっしゃったように、浪曲家、芸人というものは、生涯孤独(しょうがいこどく)な者ではありましょう。孤独ゆえに尊(とうと)いともいえます。
しかし、それはあくまで、個人的な見方をした場合だ、此処は公的な場所だと、私は内心不満に思いました。
 すると、こんどは虎造師の支配人が、師の言葉を補足(ほそく)する意味の発言を、やや声を荒(あ)らげて、私を叱るような調子でやったので、一座はますます白けかえってしまいました。

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<八島>
 支配人というのはマネージャーのことですが、その人にまで言われて、コテンパンの様子です。三波は、これぞ、という話をする場合にとても熱い人でしたが、ましてやこんな若い頃です。よほど激しいことを言い出す者のようにとられたのでしょう。

2008年02月26日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、その時いいようのない屈辱感(くつじょくかん)を味わいましたが、そのおかげで逆(ぎゃく)に、なかなか勇気のある若手(わかて)じゃないか、というわけで、皆さんにすっかり名前と顔をおぼえられました。
 同時に、あいつはどうも共産主義者らしいぞというふうにも……。

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2008年02月27日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 屈辱感(くつじょくかん)を味わったといっても、私はその事件から、やっぱり人間は自分の思うことを、正直に行うのが一番よいと、あらためて確信(かくしん)しました。

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<八島>
 三波が、晩年に言っていたのは、「“沈黙は金”というけれど、私は『雄弁はダイヤモンド』だと思う」。当時90年代中頃に人と交流を持たない若者のことや、人の生活が買い物のときをはじめ、話さなくても何でも済んでしまうようになっていくことついて、取材の方と話す折などに、よくこの「ダイヤモンド発言」をしていました。

2008年02月28日

赤色的?浪曲家奮戦の巻 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 虎造師や米若師のような大浪曲家を生み出した地盤(じばん)、つまり大衆(たいしゅう)の支持(しじ)が圧倒的(あっとうてき)に多かった時代から、敗戦(はいせん)を境として、音を立てて歴史が変りつつありました。
 その時代の激しい流れが、先輩(せんぱい)と後輩(こうはい)のものの考え方を、こんなに区別(くべつ)してしまったのでしょう。

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<八島>
 “NHKの文芸部”とは、現在の制作部等のことです。

2008年02月29日

無断口演スミマセンの巻 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 これも後日のお話ですが、浪曲作家水野春三氏の作品がなかなか味わい深く、なかでも私は、『伊香保土産』という時代物の新作(しんさく)がすっかり気に入って、どうしても演ってみたくてしかたがありませんでした。

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<八島>
 著作権の侵害になるわけですが、三波のようにきちんとした人が、若い頃にはこのような素人くさい失敗をしているとは。しかし、この恥ずかしい失敗談を書いていることが、じつに正直で三波らしいと思います。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年03月03日

無断口演スミマセンの巻 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「あれ?これは……」
 と思ったとたん、先生は、
「昨夜の『伊香保土産』聞いたよ」
 とおっしゃるのです。

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<八島>
 物凄くデキた先生でいらっしゃいますが、何をお考えだったからでしょう…。

2008年03月04日

無断口演スミマセンの巻 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私は、帰京(ききょう)するとすぐ、NHKに先生をお訪(たず)ねしました。
「君、無断(むだん)口演は道徳(どうとく)に反するよ」
 先生はこの時はじめて、やんわりとお小言をいわれ、こちらはひたすら平身低頭(へいしんていとう)という有様(ありさま)でした。

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<八島>
 もしかすると、この先生は三波のことを気に入って下さっていたのかもしれません。
教えて頂くことは懸命に吸収しようとする、研究熱心な真面目な姿勢の人というのがすぐにわかるような、当時の三波だったようです。ここから間もなくして巡り会うこととなった、母から聞いたことです。

2008年03月05日

無断口演スミマセンの巻 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 根が純真(じゅんしん)というのか、あるいは図々(ずうずう)しいのか、私はそれを契機(けいき)として、なるべく一流の方々に近づくように努力しました。

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<八島>
 三波はよく、「若い人は特に、先輩に話を聞きに言ったらいいのにね。若い頃、私は『教えてください!』って、懐に飛び込んでいったけど、先輩方は親切に教えてくれたよ」と取材の時に話していました。当然、すぐに気前良く教えてくれる先輩ばかりではなかったでしょう。でも、その姿勢は大切だと言いたかったのだと思います。

2008年03月06日

無断口演スミマセンの巻 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 さて、そうこうするうちに、私の仕事もようやく軌道(きどう)にのりはじめました。
 虎丸会という浪曲事務所の仕事で地方巡業に行った時、一人の友達ができまして、その奥さんが三味線を.弾(ひ)く人だったところがら、
「一緒にやろうじゃないか」
 と、相談がまとまりました。

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2008年03月07日

訪れた春 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 それは、うららかな陽ざしがさんさんとふりそそぎ、菜の花の黄色と、麦の穂の緑が、あざやかに地上の春を織りなしていた四月のことでありました。

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<八島>
 この後の展開は、来週月曜日に。

2008年03月10日

訪れた春 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「実は知人(ちじん)から“どうしても良い人を見つけて結婚させたい娘さんがいるんだが、一緒にお婿(むこ)さんを探してやってくれ”といわれてるんですよ。どうです、座長」
「へええ、……その娘さんって、三味線が弾ける人かい?」

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<八島>
 この勧めてくれる人の言い方、すごいですよね。なんだか高所に立ってますが…。

2008年03月11日

訪れた春 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 まるで茶ワンの投売りみたいな口調に、私は、驚くやら、あきれるやらで、二の句(く)がつげません。
 しかし、どう考えてみても、そんな調子(ちょうし)の良い話があるわけはありません。こりゃ、いっぱいかつがれたかなと、その日はそのまま過ごしてしまいました。

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<八島>
茶碗の投売りって、おわかりになりますか?今や、使わない言葉ですね。

2008年03月12日

訪れた春 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私も、自分の節(ふし)をつくり出すためには、三味線を弾ける妻をめとることが必要だと考えていたところです。すすめられるたびに少しずつ私の心は動き出して、ついに、ともかく一度この話にのってみようと決心(けっしん)し、例の知人という方のところを訪(たず)ねました。

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<八島>
  自分の浪花節の「節」の向上と完成のためには、合い三味線を弾く「曲師」が必要。それが、自分の妻ならベストなのです。

2008年03月13日

訪れた春 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 これを聞きつけた友人は、お前一人では心もとないとばかり、
「ようし、俺が一緒に行って、冷静に観察してやろう」
 と、本人の私よりよっぽど張切(はりき)って、当日私について来ることになりました。

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2008年03月14日

訪れた春 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ことに姉娘の方は、風邪気味(かぜぎみ)で寝ていたのに、やれやれと起きあがって、白粉っ気一つない顔を、私にはじめて見せました。

<続きを読む>

<八島>
 見合い相手であった私の母は、常に風邪など吹き飛ばしているような気合の入った人でしたが、確かにこの時は風邪が治るところだったそうです。そして、すっぴん。「近所に美味しいお蕎麦屋さんがあるから、取りましょうか」と、みんなで出前の天麩羅蕎麦を食べたとのこと。三波27歳、母25歳のころのことです。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年03月17日

訪れた春 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

ですから、彼女たちの家を辞(じ)してから、友人が、
「どうだ、姉さんか?妹か?」
 と聞くのに、私は、
「先方だって、姉さんの方との見合いだと思っているだろう」
 と答えたものです。

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<八島>
 母は目が大きめで、いわゆる目ヂカラの強い人でした。母と初めて会われた気の優しい方々には、「自分の内も外も、いっぺんにぜーんぶ見られた気がした」というようなことをおっしゃる方もありました。ぴかーっと光るような目でみられるので、そんなふうに感じたのだと思います。

2008年03月18日

訪れた春 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「こりや、本物になるぞ!」
 その時も彼女は妹と一緒(いっしょ)でしたが、この妹は、現在私たち夫婦の仕事や、育児家事の手伝いと、献身的(けんしんてき)に働いてくれており、わが家になくてはならぬ、大黒柱(だいこくばしら)的存在になっています。

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<八島>
 母は、子どもの頃に父親と生き別れ母親とは死別。一人っ子でした。文中の妹という人は芸のうえでの姉妹分で妹分に当たる人でした。母は芸の勘が鋭い人であり、妹分は自他ともに認める普通の才の人でした。三波は、母のもとへ最初に一人で訪問した時から「稽古してください」と、浪曲の話だったと、母から聞いたことがあります。

2008年03月19日

訪れた春 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 後で妻に聞いたことですが、あの見合いの日、彼女は私を観察(かんさつ)して、まあまあ真面目(まじめ)そうだけど、首がひょろ長くて、色が白くて、あまり頼(たよ)りになりそうもないと思ったそうです。だから、後で仲人さんに、

<続きを読む>

<八島>
 母は当時25歳。芸人としては一人前に稼ぐことが出来て、舞台にやり甲斐を感じている時期でした。知らないうちの“お見合い”のあと、母は、「え?あの人?…なんだか税務署の人みたいだったわ…」と言ったのでした。税務署のお勤めの方々、ご覧でしたらすいません。当時の三波はちょうど王貞治さんの若い頃のような、顔型がホームベース形で痩せていて、丸メガネをかけて真面目そうで白い開襟シャツで…あ、やっぱり税務署系といえます、ね…?!

2008年03月21日

訪れた春 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、世なれた仲人さん(松永さん)は、
「まあまあ、そう性急(せいきゅう)にことを決めなくてもええでしょう。交際(こうさい)だけはしてごらんなさいよ。私の見たところでは、少しはホネのある人だから……」

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2008年03月24日

訪れた春 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 おそろしさのあまり、彼女は悲鳴(ひめい)をあげて妹をゆり起ごしました。妹もびっくり仰天(ぎょうてん)、夜の明けるのを待ちかねて、松永さんのところにかけつけ、その夢の話をしました。
「それごらんなさい。あなたがあの縁談(えんだん)を断(ことわ)わったりするから、神さまが考え直せとおっしゃったのよ」

<続きを読む>

<八島>
 このつづきは、また来週月曜日に。

2008年03月25日

訪れた春 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 そして約一年の歳月(さいげつ)が流れ、私たちは、とうとう婚約(こんやく)という段階まで漕(こ)ぎつけました。
 私は、そこに至る前に、彼女に次のようなことを断乎(だんこ)として宣言しておきました。

<続きを読む>

2008年03月26日

訪れた春 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 彼女はおそらく、返事の仕様がなさそうに、心の中で、なんという大言壮語(だいげんそうご)だろう、なんという自信家(じしんか)だろう、よくもそんなことがいえたものだ、と思ったにちがいありません。

<続きを読む>

<八島>
 約一年とありますが、「出会ってから一年半で結婚式でした」と、本人が取材の折に語っておりました。そして、プロポーズの言葉は、ここに書かれてるとおりに強く断言して言った模様です! “気丈で実力を持った女性”には、このくらいの調子の申し込みが成功するかも!?です。

2008年03月27日

訪れた春 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私のほかに、数多くの縁談も持ちこまれていたのですが、彼女はあえて、私という、身分も、地位も、金もない、一青年浪曲家に、彼女自身の人生を、そして夢を托(たく)したのです。

<続きを読む>

2008年03月28日

妻のこと 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 婚約がきまった翌日、私はさっそくゆきに、稽古(けいこ)をして欲しいと申入れました。彼女は恥(は)じらいながらも、
「正式に浪曲は弾いたことありませんのよ」
 とことわり、バチを取りあげました。

<続きを読む>

<八島>
 先述されておりましたとおり、母は子どもの頃から他人の中で揉まれて育ちました。いろいろな人を見てきた上で、この時、このプロポーズを承諾したのです。それまで、親からも誰からも金銭的な豊かさを貰ったことがない母でしたから、簡単に考えればもっとお金持ちの男性を選んだほうが得策かもしれなかったところを、「藝」の可能性に賭けた母はスバラシイと思います。母の価値観は最後までずっと、「贅沢」ではなく「自分の体を動かして働いて努力する」ことこそ最高、というものでした。

2008年03月31日

妻のこと 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 浪曲家が、愛情に結ばれた三味線を得ることは、すでに一つの勝利(しょうり)を意味していたのです。
 私は、ごく自然に彼女の糸にのり、歌いだしました。三十分ほど歌いつづけたでしょうか、歌いおわった時、私の全身はすっかり汗ダクになっていました。彼女の額(ひたい)にもまた、玉の汗が吹き出ておりました。

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<八島>
 浪曲の語り手と三味線の弾き手は、いつもライブセッションです。同じ演目であっても、同じ出来であることは一度として無いわけです。この日のように、手合わせの稽古はしますが、本番はお互いが真剣勝負のステージ、となります。

2008年04月01日

妻のこと 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私のそういう答えをきいて、彼女はホッとしたような笑顔を浮かべましたが、すぐに真面目(まじめ)な表情にもどり、私の顔をチラリと見上げました。
 「南篠さんは、ちょっとふしの間(テンポ)がはずれますね」
 「え!?」

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<八島>
 まさに、このときに始まりました、母の父へのダメ出しが…。藝の世界で育った身ながら、結婚後は今までの舞台からは引退して曲師として屏風の陰に。本人が歌手に転向してからは裏方にまわり、「三波春夫」を生涯かけて三波とともに創った母は、その仕事の上でけっして父を褒めることをしませんでした。私が子ども時分から横で見ていても、マネージャーとして三波夫婦と仕事を共にしていても、褒めたところを見ていません。褒めない理由を、三波も私も知っていました。“褒めたらそこで終わってしまう、藝に「これで良し」は無い・・・”。母の向上心と前進能力は並みではなかったのです。
母が力一杯はっきりと、三波春夫を面と向かって褒めたのは、本人がこの世を去る2時間前のことでした。拙著に、その場面を詳細に書きました。

2008年04月02日

妻のこと 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ここで私は、どうしても妻のことを少し書いておきたいと思います。
 私の仕事には、着物一枚とりあげても、妻の力が加わっていないものはありません。
勿論(もちろん)、どちらの家庭にしても同じことがいえるでしょうが、浪曲師と曲師として出発した夫と妻は夫婦であると同時に仕事の協力者、共演者だったのですから、私の自伝(じでん)に、妻の足跡(あしあと)を記(しる)さないわけにはいかないのです。

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2008年04月03日

妻のこと 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 父母を失ったゆきをはぐくんでくれたのは、やさしい祖父母でした。
祖父母は、このふびんな幼な子に、ありたけの愛情をかたむけました。母乳の不足(ふそく)から、ゆきが失明(しつめい)しかけたとき、祖母はいちばん好きな食べ物を神断ちして、孫の病気の平癒(へいゆ)を祈りました。そして、一生涯祖母はその好物(こうぶつ)を口にしなかったということです。

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2008年04月04日

妻のこと 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

(老い先みじかい自分たちでは、いつまでこの子を見てやれるかわからない。芸を身につけておけば、いつかは世に出て、しあわせをつかむことができるだろう)
 祖父母はそう考えたのでしょう。手ばなすに忍びない、いとしい孫を弟夫婦の内弟子(うちでし)として入れることに決意(けつい)したのです。
 祖父はゆきを連れ、巡業(じゅんぎょう)先の会津若松市に劇団を訪ねて行きました。

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<八島>
 両親がいない境遇だった私の母が辿った道を、少し聞いて頂くことになります。お読み頂くことに感謝しております。
 では、続きは来週月曜日に。

2008年04月07日

妻のこと 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 目的地につくと、祖父は、
「この子の行く末を……」
 と、弟夫婦にくどくどと頼みこみました。弟夫婦も、
「まあ大丈夫、まかせておきなさい」
 と、こころよく引き受けてくれました。

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<八島>
 4歳でひとりぼっちになってからこの時まで、仕出し屋を営んでいた母方の祖父と祖母が育てていたのでした。特にこの祖父はいつも盾になって庇ってくれて、ことのほか可愛がってくれる愛情溢れる人でした。その人が自分から離れてしまう、という現実でした。

2008年04月08日

妻のこと 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「おお、やっぱり子供だね。長い道中につかれて眠ってしまったわい。いっそ、このまま黙って帰ったほうがいいかもしれん」

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2008年04月09日

妻のこと 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、ここで泣いてすがっても、祖父は決して喜ぶまい、ますます別れをつらくするだけだけど、子供ながらも、われとわが身にいいきかせ、後(あと)から後からあふれでる熱(あつ)い涙を、布団のはしでしっかり押(おさ)えて、声をしのんで泣きました。

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<八島>
 このときから母は子どもではなく、社会人として生きざるを得なくなりました。他人の釜の飯を食う生活の始まりでした。

2008年04月10日

妻のこと 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 こうして、この時から、彼女ののった小さな舟は、波風荒(なみかぜあら)い人生の海路にすべりだしていったのです。
 人間はもともと孤独(こどく)なものです。それでも、まわりに誰も自分の味方がいないと知ったとき、たとえようのない悲しさを味あわねばならないものだと思います。

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<八島>
 戦前の日本、厳しい芸界、その只中の親のない子。人権がどうだこうだという概念は無い状況。この厳しい環境の中を生きてゆけ、ということになりました。

2008年04月11日

妻のこと 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 右を見ても、左を見ても、誰もがこわい先輩(せんぱい)であり、お師匠(ししょう)さんです。はじめのうちは、用をいいつけられても、その言葉の半分もわからず、怒声(どせい)や罵声(ばせい)を浴びせられる毎日がつづきました。

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<八島>
 「お手洗いに入って手を洗って出てくる、その濡れた手を拭く手拭いを買って貰ってないから自分のがないのよ。『どの人のを借りようかなぁ、誰が今、機嫌がよさそうかなぁ』って見回してね、貸してくれそうな人のところへいって『拭かしてね』って借りたのよ」だから、今、物に不自由なく過ごしていることを、美夕紀はありがたいと思って欲しい。母が、私が小学生のときに、そう話しました。
 「冬、雪が降るところに巡業に行くでしょう。使いに遣らされるのよ、用事を頼まれて。いつもは一生懸命行って来るんだけど、ある時『お腹が痛いから行けない』って嘘をついたのね。『じゃ、行かなくていい』ってなったから、あぁ良かったと思って。そうしたらそれは大福を買って来いっていうお使いだったの。代わりに行った人が大福を買って来たら、座員みんなで食べてるの。で、『お前はお腹痛いんだから食べられないね』って、もらえなかった(笑)」
 母が笑って話しましたが、私は笑えず、楽屋の隅で仕方なく静かにこらえている少女の気持ちを想っていました。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年04月14日

妻のこと 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、日がたつにつれて、彼女にも一人二人と親身(しんみ)になってくれる味方(みかた)があらわれました。小林さんもその一人です。小林さんは新潟の生まれで、芸が好きでこの世界に入った人ですが、ゆきのために家庭教師(かていきょうし)の役を買って出てくれました。

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<八島>
 本日は三波春夫の命日です。テイチクから毎年恒例のリリースをいたします。
今回は、マキシシングル『三波春夫ルパン三世を唄う』とアルバム『三波春夫長編歌謡浪曲スーパーベスト3』です。『ルパン三世を唄う』には、幻の名曲と言われた未発表曲「ルパン道中」「チャイナドレスの不二子」も収録されています。詳細は、三波春夫公式サイト或いはテイチクのHPにございます。良い曲揃いの2タイトル、ぜひお楽しみください。

 さて、本文についてお話しいたします。母がこの9歳のころ体験したのが、楽屋での火事でした。地方の巡業先の雪の夜、楽屋に泊まった一行が寝静まったころ、「火事だーっ」の声。飛び起きると、煙が流れてきて凄い臭い。母は、大急ぎで否も応も無く座員の赤ん坊を背負わされ、“買ってもらった大切な長靴”をしっかりと手にして、高い窓枠によじ登って逃げたのだそうです。原因は、客席の座布団を重ねて片付けた中にまぎれた、良く消されていなかったタバコだったそうです。

2008年04月15日

妻のこと 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 次の味方は叔母(おば)夫婦でした。一座の花形であり、看板(かんばん)であった叔母夫婦は、座員にくまなく気を使わなげればならない立場でしたが、なるべく人の邪魔にならないようにしながら、ゆきにみっちりと舞踊を仕込(しこ)んでくれたのです。

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<八島>
 昔は、芸事を教えるときに叩かれるのは当たり前でした。そして、三波と結婚した後のこと。舞台の所作には舞踊の素養が何より役立ちますから、三波に舞踊の手ほどきをすることにしました。「はい、じゃ、手をこうして上げて足はこう。突っ立ってないで、こう。こう、…こう!(ビシッ!!)」自分の修業時代と同じく扇子で三波の足をバシッといきましたら、若かった三波は「何するんだよ!もういい、もうやらないよ!」。それ以来この“舞踊教室”は開かれなかったのでした。この話はよく笑い話で語られることでした。

2008年04月16日

妻のこと 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがて、はじめて舞台を踏(ふ)む日がきました。九才の春のことです。役は、舞踊劇『喜撰』の小坊主。白の衣に墨染め腰衣、頭には青かつらをのせて、桜花らんまんの舞台に立ちました。

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<八島>
 母は晩年まで、昔に習得した舞踊の振りを正確に記憶していました。それだけ身に付いて離れない修業をしたといえるでしょう。
 私が三波の舞台で舞踊を披露した時期のこと。母が舞台を見てくれてアドバイスしてくれる一言をその次の舞台で実践してみると、俄然、踊りの見栄えが違ってくるのには驚きました。「三波春夫」の藝が母のディレクションでぐんぐんと舞台の上で伸びて行ったことを、私も我が身で体験できたのでした。

2008年04月17日

妻のこと 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 お囃子部屋にいた叔父も、涙をポロポロこぼしながら、
「よかった、よかった」
 と、つぶやいていました。その夜、初舞台を祝う心ばかりの祝膳が、ゆきの心を、ひさびさに晴れがましく飾ってくれました。

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<八島>
 楽屋という世界。あらゆる感情が交錯する場所。ここで母は育ち、様々な人を見続け、生涯の職場となりました。

2008年04月18日

妻のこと 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 舞踊、三味線、歌と、次々に芸を習得(しゅうとく)して、一年、二年とたつうちに、彼女には多くの人間の中の、そんな悪意(あくい)と善意(ぜんい)とが、敏感に見わけられるようになりました。

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<八島>
 「根性も生き方も、悪くなろうとしたらいくらでも悪くなったでしょう。親が居ないことも口実にして。でも、ちっともそんなことをしようと思わなかった。曲がったことをしたらお天道様に申し訳が無い、負けちゃならない、上手くなろう、一人前になろう。それしか思わなかったのよね」母が当時を振り返って言っていました。
 ではまた、来週月曜に。 

2008年04月21日

妻のこと 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがて、十六才の春を迎えた時には、一座に欠くことのできない花形(はながた)となっていました。そして、“芸”にもますます興味(きょうみ)をおぼえたころ、彼女にはまたまた不幸な運命がおそいかかりました。一座の太夫元でもあった養父(ようふ)の死です。

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<八島>
 “太夫元”とは一座を監督する人で、公演の演目、出演料、興行のやり方などすべての責任者です。

2008年04月22日

妻のこと 18

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 この養父の言葉で、孤児(こじ)のゆきと、孤独(こどく)な養母(ようぼ)の心は、いよいよしっかりと結びつけられたのです。

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<八島>
 「藝のかあさん」という呼び方で、母は私にこの養母の思い出話をしてくれました。藝を仕込んでくれたお母さん、という意味です。母は、この養母の娘・「野村ゆき」として三波と結婚し、「北詰ゆき」となりました。

2008年04月23日

仏前に挙げた式 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昭和二十七年十二月二十一日。いよいよ、私たちの結婚式の当日がやってきました。思えば、見合いした日から、一年七ヶ月の月日が流れていたわけです。

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<八島>
 この1年7ヶ月の間、三波は巡業の旅先から「ゆきさん」に、ほぼ毎日手紙を出しました。例えば、「きょうは、三島に来ています。富士山がとても綺麗に見えます」などというような感じで書いたようです。ところが、旅の移動に追われて2、3日投函できなかったりしますと、その分がいっぺんにドサッと母の家に届いたそうです。最初はあまり気にかけなかった母も、その毎日の手紙の几帳面さに驚いたようで、だんだんと気持ちが変わったようです。
今だったら、ケータイメールを送ったでしょうか。それとも三波だったら、なおかつ手紙で伝えたでしょうか…。

2008年04月24日

仏前に挙げた式 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 結婚式の当日は、どうやら私はあがってしまっていたようです。責任感の重さを感じながらも、嬉しさの方が先に立ってしまったものと見えます。

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2008年04月25日

仏前に挙げた式 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 いつもなら、ひとこと。“姉さん、タノムよ!”と声をかければすむことですが、そこが今日の婿どののあわてていたところでしょう。

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<八島>
 次回の更新は5月7日にさせて頂きます。よろしくお願いいたします。

2008年05月07日

仏前に挙げた式 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがて、永い間お世話(せわ)になった、西ヶ原の義兄の家を出て、今日ばかりは電車ではなく、父母や姉夫婦と二台のタクシーに分乗(ぶんじょう)して、築地の式場に向いました。

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<八島>
 先述のように築地本願寺で仏前結婚式を挙げたのです。そして後のことですが、偶然に、三波の告別の式典もこの場所となったのでした。
 さて、明日の夜、19:45~21:15 NHKBS2にて「昭和歌謡黄金時代~三波春夫・村田英雄~」が再放送されます。ぜひともご高覧くださいませ。

2008年05月08日

仏前に挙げた式 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 この花嫁さんは、舞台できたえていますから、衣裳(いしょう)をつけるのも、化粧(けしょう)をするのも、ぜんぶ自分一人で間に合うわけで、ものの十五分もかからぬうちに出来あがり。まして、やはり舞台人だった義妹がついているのですから、手間のかからぬことこの上なし。珍らしい花嫁さんだと後々の笑い話になりました。

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<八島>
 記念写真を見ると、花婿はスーツ、花嫁は大振袖。著述にある、仲人に手を引かれてしずしずと進む花嫁を振り向きもせず、大きく引き離して一人だけスタスタと式場入りしたことを思い出話の一つとして母が私に話すとき、三波は傍でハハハ、と笑ってやりすごしていました。
 昨日お知らせしたとおり、今晩19:45~21:15NHKBS2にて「昭和歌謡黄金時代~三波春夫・村田英雄~」が再放送されます。見ごたえある濃い内容ですので、どうぞお楽しみくださいませ。

2008年05月09日

仏前に挙げた式 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 さて、無事(ぶじ)に式も終って、別室で祝宴(しゅくえん)に移りました。父が“高砂や”と謡をやってくれました。
 この日集まってくださったのは、みんな気ごころの知れた人ばかり。

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<八島>
 では、この続きは来週月曜日に。

2008年05月12日

仏前に挙げた式 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 とにかく、婿どのが大きな声で歌うんですから前代未聞(みもん)の披露宴(ひろうえん)だと参会者は大喜び。
 みんなヤソヤの喝采(かっさい)でした。そんな型やぶりのことをやったのも、私の心の中に、古い形式をきらって、新らしい型をつくりたいという気持ちがあったからだと思います。

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<八島>
 『三波春夫という永久革命』というタイトルの本を、以前、平岡正明さんが書かれました。革命という表現どおり、三波は仕事の上でも「前例がないからやらない。常識やぶりだって、人様が歓ぶ新しいものを生み出すのならいいじゃないですか」という考え方でした。「花婿が唄ったっていいじゃない」ということもそういう人だからこそ。とくにこれは、その場の人に歓んでもらいたいというサービス精神が爆発、ということだと思います。ま、今はカラオケもありますから花婿も来賓者もガンガン歌われるのもアリですが当時は、ということですが。
 それにしても、母との結婚は三波にとって本当に最高に嬉しいっっ!ということだったのだと読み取ります、はい。

2008年05月13日

仏前に挙げた式 8

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 宴も終って、私たち二人は、万才!万才!の声に送られて東京駅に向いました。そして、湯河原を目ざして、新婚旅行に旅立ちました。
 汽車に乗りこむと、ホッと安心(あんしん)した婿どのは、あたたかな車内のせいか酔(よ)いもまわって、間もなくスヤスヤと眠ってしまいました。

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<八島>
 私が物心ついてから見続けた母は、父と手をつなぐところなどみたこともない、夫婦ベタベタのべの字もない母でした。実に夫のために、24時間を使う人でしたが。でも、その母がある日、箪笥の前で和服の手入れをしているときに「これは、新婚旅行で湯河原に着てった羽織なのよ」と、薄いピンク色に小さな花模様が染められた羽織を見せてくれました。若い時に着た和服は年を重ねると派手になるから、と、人に差し上げていた母が、その羽織だけはとっておいたのでした。

2008年05月14日

仏前に挙げた式 9

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 ふりかえれば、ゆきは申すもがな、私も十三才の時から他人の飯を食べて、わずかな月給でも毎月家に仕送(しおく)りを続け、誰の援助(えんじょ)も受けずに、今日のすべてを築(きず)き、貯わえてきたものでした。

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2008年05月15日

仏前に挙げた式 10

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私たちは、湯河原につくと、こんこんと湧くいでゆに体を清め、二人けの食膳(しょくぜん)につきました。
私は妻に、
「おたがいに頑張(がんば)ろうよ」
 というと、
「ハイ、あなた、しっかりやりましょう」

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2008年05月16日

仏前に挙げた式 11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 翌朝、私たちは、義妹や養母に土産(みやげ)の蜜柑を買い求め、帰路(きろ)につきました。こんどはいつの日に乗れるかわからない一等車に、ふたたび客となって……。

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<八島>
 仕事の上では厳しく“格”や値打ちを重んじる母でしたが、生活の中では、人より上位に立って優越感を感じたいというような無礼な感覚は、まったく持たない人でした。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年05月19日

仏前に挙げた式 12

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 昨日、西ケ原の家を出てきた私は、今日は大いばりで、日暮里の妻の家に「只今(ただいま)!」と乗りこみました。婿入りしたわけでもないのに、嫁の家に居つくことになったのですから少々話はアベコベです。
ところが、この旦那(だんな)、すましたもの、

 時世時節(ときよじせつ)の来るまでは、しばし木の葉の下くぐる

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2008年05月20日

仏前に挙げた式 13

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

(たしかにこの人なら、大きな家を建てるような浪曲家になるだろう。この根性(こんじょう)の太さはちょっと並はずれているようだ。昨日まで自分の家であったのに、まるで今日から私がここへ嫁にきたようだ。考えると不思議な気もするが、これが夫婦というものかもしれない)

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<八島>
 以前もお伝えしましたが、母の生活はすべてが「三波春夫のために」でした。24時間まるごと、の感じでした。
そうです、就寝後も、三波が“ゴホン”“エヘン”と咳や咳払いをすると、ガバッと起きて布団を直す完璧さでした。
歌手は風邪をひいては仕事に障りますから、「ちゃんと『三波春夫』が唄えるために、隣の夫の布団を反射的に直す妻」でありました。

2008年05月21日

仏前に挙げた式 14

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私も妻も、最初からその家に入ろうと思っていたわけではありません。間借(まが)りでもと、それまでずいぶん方々を探したのですが、なかなか適当(てきとう)な家がなく、ついにあきらめてしまったのです。
 だから、実をいえば、私が気軽さをよそおって乗り込んだのも、その面映(おもは)ゆさをかくそうとする気持ちでもあったわけです。そして、仕方(しかた)なく時がくるまで、私は妻に甘えていようと思いました。

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2008年05月22日

仏前に挙げた式 15

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しかし、そのことを妻に告げると、彼女は、
「ああ、あの人はああいう人ですよ」
 と、こともなげにいって笑いとばしてしまいました。妻とても、そんな空気を知らなかったはずはありません。

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2008年05月23日

仏前に挙げた式 16

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 普通、結納金(ゆいのうきん)というのは、結婚の支度金(したくきん)の一部になるのでしょうが、私たちの場合は、二人の結婚記念の品を買うことにしました。私が納めた結納金で、妻はすでに三味線を買っておりました。私は、研究用にテープレコーダーを求めました。四万五干円ほどのものでしたが、当時は東京の浪曲家でも、数(かず)えるほどしか持っていなかったものでした。

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<八島>
 浪花節が嫌いな方が、浪花節の稽古の騒音は、さぞご迷惑だったでしょう・・・。
 文中の“4万5千円”は、当時のサラリーマン月収の2倍ほどの額になりましょうか。
 ではまた、来週月曜日に。

2008年05月26日

仏前に挙げた式 17

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 式の費用(ひよう)や、それらの買物がすむと、貯金通帳の残高(ざんだか)は、六万三干円也。私はそれを妻にわたしていいました。
「これで僕はなにも持っていないよ。ぜんぶお任(まか)せいたします」
「ずいぶん、任(まか)せられ甲斐(かい)のない金額(きんがく)ですね」
 彼女は笑って受け取りました。

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<八島>
 前回に続いて当時の貨幣価値基準から見ますと、この6万3千円はサラリーマンの平均給料の3ヶ月分ほどでしょうか。
 そして、この時からずっと母がお財布を預かり、たとえば三波は自分でブティックやデパートなどに出かけていって洋服を買うことなどしたことのない、というより本人にとっては「しなくてよいからラク。ゆきさん、よろしくね」という生活になったのでした。

2008年05月27日

浪曲夫婦旅 1

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 やがて、その年も越(こ)えて、私たちが夫婦になって最初の春、昭和二十八年の正月があけました。そして、新年早々、私たちは地方巡業に出ることになりました。
 雪の降(ふ)りしきる、福島県川俣町の劇場が初日でした。その劇場では、前からの習慣(しゅうかん)で、全員が楽屋泊(と)まりになり、宿屋には泊まることができません。

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2008年05月28日

浪曲夫婦旅 2

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 すると、階下(かいか)の居間(いま)では、一行の人たちが、耳をそばだたせて、その音色に注意(ちゅうい)を向けていたのです。どれだけ、あの奥さんには三味線が弾けるか、という好奇心をいっぱいにして……。

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<八島>
 母は肝の座った人でしたが、この頃は、自分が芸人として舞台に立っていた世界と浪曲の世界は雰囲気も違う上、「この新参者が、どれだけの三味線の腕があるって言うんだ?」という周りの視線がビシビシと感じられた、と母が言っておりました。

2008年05月29日

浪曲夫婦旅 3

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「あのう、今晩(こんばん)は弾いていただけませんかしら。私、ここで聞かせてもらって、勉強したいんですけど」
「あらそう……。でもさ、あんたも素人(しろうと)じゃないんだから、弾いてごらんなさいよ。私はえんりょしますよ。南篠さんは、あうあんたにまかせましたから」

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<八島>
 トリは、ご承知のとおり一番最後の出演。モタレはそのひとつ前です。
曲師が慣れないのが原因でトリが締まらない浪曲になっては一座全部が締まらないことになるので、母はトリの出演者の曲師をつとめるのを避けたかったのでした。

2008年05月30日

浪曲夫婦旅 4

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

「どうしましょう、あなた」
 その心細そうな妻の声を聞いた時、私はたまらなく胸がいたみました。無理(むり)もありません。座長としての舞台は、たしかに責任が重(おも)いのです。

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<八島>
 ではこの続きは、来週月曜日に。

2008年06月02日

浪曲夫婦旅 5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 お仲入り(休憩)の時間が過ぎて、高座(こうざ)の幕が静かにあがり、冴え析の音が納まると、私は下手から、白扇片手に舞台に出て行きました。

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<八島>
 このころの母と会った人は皆、「目の大きい人」という第一印象を持ったと思うほど、やせ型で目の大きな女性でした。年を取ってもやせ型は変わらず、目は強力な目ヂカラに進化しておりました。

2008年06月03日

浪曲夫婦旅 6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 しわぶき一つ聞えず、水を打ったように静まりかえった場内に、その音色がひびきわたると、扇を握(にぎ)って立つ私は、目の前が、白くボオーッとかすんで行くのを、どうすることもできませんでした。舞台用のハンカチを顔にあて、手早(てばや)く、落ちそうになる涙(なみだ)を押(おさ)えた私は、大きく息を吸いこんで歌いはじめました。

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<八島>
 バラシとは、大団円に向かって得意のフシ(メロディー)を駆使して盛り上げていく部分のことです。決まった楽譜があるわけではなく、演者がその日の呼吸でやりますから、曲師の方は大変です。二人が共演する場数を踏まないうちは、予測されるメロディのパターンは、そんなに多く曲師にインプットされていないわけです。

2008年06月04日

浪曲夫婦旅 7

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 自分でもハッとしましたが、後の祭(まつ)りです。ひどい夫があったもので、はじめからこのむずかしい浪曲を、キッチリと一時間近く合わせられるはずがないのです。それを忘れてしまって、自分の気に入るように弾けという冷酷(れいこく)な心。すでに最初の舞台から、妻と夫は、きびしい芸の闘(たたか)いに入っていたわけです。

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<八島>
 後半部分の文章は、大袈裟に思われるかもしれません。しかし、いつの時代もナマの舞台はこわいものであり、藝が無くては芸能人として生き残れませんけれど、当時は客席のお客様が如実な厳しい反応