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   <title>三波春夫の笑顔の秘密</title>
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   <updated>2012-05-17T16:09:56Z</updated>
   <subtitle>～「お客様は神様です」のこころ～</subtitle>
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   <title>歌は国境を越えて　１</title>
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   <published>2012-05-17T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-17T16:09:56Z</updated>
   
   <summary>　芸は身を助くでした、と言っておりました。
「あんたの浪曲を聴いている時だけ、日本に帰ったような気持ちになるんだよ」と皆さんが涙を滂沱と流しながら、その顔を見られまいと下を向いたまま、浪曲を聴いておられたそうです。
　ではまた、来週金曜日に。
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      　その次には、アパートの内装工事を命令されて二週間ほど働きました。
　私が、部隊のなかで、「浪曲上等兵」と呼ばれていたことは、最初にすこし書きました。
　収容所に入った時、皆さんから「是非、浪曲を聴かせて欲しい」と要望されていたのですが、何しろ最初の一日一回の塩スープではとても声はでません。
      　それがラボーター(仕事）に出るようになると、ソ連軍も食料を少しずつ増やしていきました。そこで私もなんとかいつもの調子が出ることになって、浪曲を語りました。するとなんと、廊下をへだてた隣の衛生部隊の皆さんが、「お礼です」と、角砂糖を沢山持って来てくれました。
　私にとって軍隊での角砂糖といえば、兵営勤務時代のある日、部隊長の官舎で浪曲を語った事があり、その時部隊長夫人が、汗を拭く私に「ごくろう様でした、どうぞ」と出してくれたコーヒーについていた二個の角砂糖しか記憶になかったのです。
　驚きました。よくもまあこのハバロフスクの収容所まで、そんなものを持って来れたものだと。すると「これを着てみて下さい」と絹の袷の着物を差し出す伍長どのがいたのです。それが濃い紫色の立派な物ですから「本当にいいんですか。こりゃ嬉しい」と早速羽織ってみたところぴったりです。これをみていた戦友たちは大拍手。人事係をやっていた私とは同県人の星野准尉が「紋を作ってあげましょう」と翌日にはこれはまた下り藤の五つ紋を作ってくれました。「星野さんはこの御商売なんですか」と聞く私に「まあそんなことはどうでもいいですよ」とのりを練りピタリと五つ張り付けてくれました。
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   <title>私の「シベリア物語」　２</title>
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   <published>2012-05-10T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-10T16:16:43Z</updated>
   
   <summary>　無償でもソ連の為でも一生懸命に働いた日本人捕虜のことが、忘れ去られませんように…。軍隊とシベリアの日々が、「三波春夫」の背骨を作りました。
ではまた、来週金曜日に。
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      　最近のロシア側発表の文書にある通り、独裁者スターリンの厳命で、労働力として六十四万人の日本軍関係者がシベリア地方を始めとして、ロシア、モンゴル共和国などへ連行され働かされたのです。そのうちの六万人もが栄養失調や極寒の地のきびしさゆえに死んでしまいました。これもロシア側の文書にあります。
　私たちは、収容所入りして、その四日目から「ラボーター（働け）ブステリー（早く）」と追い立てられる破目になったのです。

      　私には石炭を貸車から空地へ下ろす仕事が命じられていましたが、これが時間制限があり、息もつかせぬスピードを要求されて目が廻りそうでした。いわゆるノルマというやつです。
　その次には、アパートの建築の基礎工事でコンクリートを流し込む囲い用に、何と何と幅五十センチ長さ二メートル、深さ一メートルの穴を掘れというのです・・・。凍てついたシベリアの大地はおそろしく堅いのです。日本ではまったく想像できません。
　深さがやっと六十センチで一日が終わりました。大の大人がなんと情けない。なにしろツルハシなどのしっかりした道具がなくて、あわれやあわれ、大きな鉄棒が一本与えられ、これで穴を掘れ、というのですから。当時のロシアの人々の仕事に対する非能率性はいま思い出すと噴飯物でしたが、それはあとからだから言える話であることはいうまでもありません。その時は情けない奴隷だと涙も出ませんでした。
　だが、鉄の棒一本しか与えられなくても、火を焚いて凍土をとかして日本人は働くのです。その働きぶりの凄さは目を見張るほどでした。仕事となれば、そこが敵の国であろうがそんなことは問題ではなく、自分の能力一杯に働き抜くのが日本人。その能率性は現在の日本の繁栄と無関係ではないことが判りました。

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   <title>私の「シベリア物語」　１</title>
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   <published>2012-05-03T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-03T15:37:47Z</updated>
   
   <summary>　体験した人の真実の話ですから、細かい情報が読み取れます。娘としましては、人間の短い一生の間に捕虜という境遇を強いられたのは、なんと理不尽なことかと思います。でも、本人もこの経験を「人生の道場だった」と言っておりましたが、この時期のことは物凄い学習となって、のちの父の生き方を広く大きくしたのでした。何があっても心のあり方次第でそれを益とすることができるし、また益としなければいけないんだという強さも掴んだのでした。
本日分から８月にかけて、捕虜時代に関しての著述を掲載いたします。以前のブログで紹介しました著書『すべてを我が師として』にも軍隊とシベリアのことが詳細に書かれておりますが、多くの方々に、そして若い方々に、お読み頂きたいです。（抑留という表現が奨励される向きもありますが、父や同胞だった方々の言葉を身近に聴いた者としては、捕虜時代と書きたいのです）
ではまた、来週金曜日に更新いたします。
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      　昭和二十年の終戦ののち、私はシベリアに抑留されて、真冬には零下四〇度に凍りつく極寒の地に、四年間の囚われの日々を送りました。

      　私どもの旧ソ連シベリアでの捕虜生活の苦しみは、苛酷を極めたものでした。何しろ生まれて初めての経験です。祖国の為に闘った兵士にとって祖国が降伏したのですから、心は虚ろです。
　忘れもしません、昭和二十年十月二十四日のハバロフスクは吹雪が舞っておりました。それでも、どこからか聞こえてくる遊ぶ子供たちの声の明るさを耳にした時には、「ああ戦争は終わった。もうきょうからは命のやり取りをしないで済むんだ」と心のどこかにホッとする思いがありました。
　やがて、十八と記号を付けられた捕虜収容所へいれられました。実際は収監所という方が当たっているのです。ひとりひとりの、そしてみんなの生殺与奪の権をソ連に握られていたわけですから、まさに「奴隷」ということになります。昭和の時代にその「奴隷」の体験をしたのです。今にして思えば、まだ体力のある若い時で良かったのだ、とその頃を振り返ります。
　戦争に勝ったといっても、戦後のソ連は極端に物資が不足しておりましたから、三日間は一日一回の塩湯スープでした。少しは何か味らしいものが付いていましたが、その容器がなんと米軍の肉の缶詰の空缶なのです。星条旗の模様でそれがアメリカの援助物資と判りました。外を走っている軍用トラックも当時の連合軍であった米国製です。
　そのスープを吸ってゴロリと防寒具を着たまま、魚河岸のせり市場に上がったマグロのように(汚いマグロですが）三日間はただただ寝ておりました。もっとも立ったり動いたりしたらフラフラなんです。
　すると四日目に二食となり、堅い黒パンが少し配給されるようになりました。歯が折れないように気を付けスープにひたして喰べました。いくらお腹が空いていてもチッともうまくありません。しみじみ情けなかったのですが、しかし塩スープから黒パンへの変化は、かならずしも良い兆候ではなかったのです。
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   <title>戦場を駆けめぐった日　２</title>
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   <published>2012-04-26T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-04-26T15:10:05Z</updated>
   
   <summary>　父の戦争の体験と抑留生活については、取材の場や講演会での話や著述で私は詳しく知ることとなったのですが、プライベートの場でも聞かせてくれることがありました。子供だった頃の私への話、後年になってからの少々深い話…。父の世代の戦争体験者の話を直に聞いている私たちは、次の世代の方々に語り伝えなければいけないと思い、工夫して時々に話したりしておりますが…。
　さて、明々後日の３０日、午後４時～ＮＨＫＢＳプレミアム『プレミアムアーカイブス　昭和歌謡黄金時代　三波春夫と村田英雄』が放送されます。１３日に放送された分の再放送。２００６年の初回放送から好評につき７回目の再放送です。ご覧くださいませ。

　ではまた、来週金曜日に。</summary>
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      昼寝から目が覚めたようにパッと気が付いた時は、コンクリートの破片を頭上に浴びて、右手の甲には流れた血がもう固まっていました。ふと見上げたトーチカの上辺が爆破されて鉄骨がねじれ、その先に、満州の八月の青空が抜けるように高く見えました。瞬間的に私は部隊長がいるはずの扉にかけ寄りましたが、中には誰一人いません。そして副官も班長の姿も……。
      　私はその時、自分の耳が物音を聴きわける能力を失っていることに気付きました。まだ、雨あられと打ち込まれているに相違ない敵軍の射撃音がまったく聞こえてこないのです。奇妙な静寂の時間。――ところが、なぜか私は、自分の足の裏から、遠い花火の音に似たものがひびいて来るのを感じたのです。
　部隊長たちは私が爆死したと思ってその儘に陣地を捨てて退却をしたのです。全軍に転進命令を出して……。
　私はそれからどうしてよいのか陣地の中をウロウロと歩き廻りました。やがて陽が昏れかかり、あたりは次第に暗くなって遂に雨が降りだしました。
　敵兵壕の中には泥水がたまったその間に戦友たちがうつ伏せに死んでいます。
　その屍をまたぎながら耳の聞こえぬ独りぼっちの哀れな兵隊は、ただ雨降る戦場をさまよいました。
　その時、ふと誰かの近づく気配がするのです。
　敵か！味方か！ソ連兵なら銃の剣先が長く細いはず。もし敵ならやり過ごして刺そう！私が腰を折って目をこらして待った時、スーッと銃剣の先が出た。日本軍です。
　私は思わず「誰だ！」。
「あッ、北詰生きていたか」と顔見合わせたのは、同年兵で同県人の藤田利栄君でした。
「藤田おれは耳をやられて聞こえないんだ」というと、彼は私の耳元に口をつけて、「最後の退却班だ、お前を見つけて良かった。さあ行こう」というのです。私はその時耳の鼓膜が破れたのではないことを知りました。ショックで一時的に聴覚が麻痺してしまったらしいのです。
　最後の退却隊として、真っ暗闇の陣地からソ連の機関銃の雨をくぐり抜けながら駆け抜けて逃れました。それにしても頭上に爆弾を落とされた私が、今日の三波春夫として生き続けているとは――。
　生まれて初めての経験を、よくぞ生きて帰れたと今でも不思議に思っています。
　これを強運というのでしょうか。
　戦場を駆けめぐった日――それは二十二歳の夏のことでした。
　そして、この戦闘を最後に、私を待っていたのが思いもかけぬ、ソ連での収容所生活――こうして私の「シベリア物語」が始まるのです。
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   <title>戦場を駆けめぐった日　１</title>
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   <published>2012-04-19T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-04-19T15:25:34Z</updated>
   
   <summary>　戦場での経験は、“過去ブログ”の『すべてを我が師として』にも詳しく書かれております。
ではまた、来週金曜日に。
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      『非常呼集！』と班長の鋭い声が暗闇の兵舎の中にひびき渡る。全員がガバ！とハネ起きて軍装を整え、営庭に集合した頭上を、ソ連軍の偵察機が爆音鋭く飛んでいきました。遂にソ連軍が満州へ侵攻して来たのです。いよいよ本格的な戦争となったのか。私は躰中が引き締ってゆくように感じました。

      　昭和二十年八月九日。そこは旧満州富錦市郊外に軍営を構えていた第七七五部隊でした。部隊長は木村大尉（現存）、私は本部の直属班にいたので、部隊長の命令を各中隊に伝える伝令の役目を命じられました。
　戦闘は翌朝十日の夜明けと同時に、ソ連軍の大砲が我が軍の陣地に集中攻撃を浴びせかけたことから始まりました。
　戦況の変化はめまぐるしく、その度に部隊長から指令が出るのを伝えなければならぬ私は声を限りに叫びました。「各中隊の伝令集合！」。五百メートル先の第一線中隊にも私の声がひびき「おう浪曲上等兵が呼んでるぞ」と皆が集まって来たのですが、私が陣地を走り廻って声をかけられないこともありました。そんなときに、部隊長から指令が出て、他の伝令がいくら叫んでも誰も集まってこなかったという嘘のような本当の事がありました。発声の基本と訓練が、皆さんとはまったく違っていたからだと生き残った人々はいいました。
　激戦となり、部隊本部のトーチカの銃眼から敵の進攻ぶりを偵察して報告したりしましたが、近寄るソ連兵を撃退している私に向かってなんと、ソ連の複葉機が飛んできました。その時、「北詰、危ない、ヒコーキだ！」と三浦准尉が下から叫びました。その声で空を見上げる私をめがけて真っ黒な「タドン」が落ちてきました。
　ご存じのように、爆弾は円筒形の本体に翼が付いていて目標物に向かうわけですから、下から丸く見えた時は直撃弾なのです。左手に小銃を持ち右手が階段の手スリを握ったとたんに、何も解らなくなってしまいました。
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   <title>伊勢湾台風の真っただ中で</title>
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   <published>2012-04-12T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-04-12T23:16:48Z</updated>
   
   <summary>　碧南市が大被害を受けたのは、昭和３４年９月２６日だそうです。前章の船酔いの時と違って、この伊勢の出来事は母が地方巡業に付いていなかった時期のことでした。東京に残っていた母が一晩中眠れずに、とありますが、食事も一切取っていなかったことでしょう。「若い頃、夫婦喧嘩をして腹が立ってると、３日位、ぜんぜん食事を取らなかったわっ」と言う人でしたから。ストレスで食欲が止まるタイプだったんでしょうね…。私はムリです（笑）。
　本日、午前９時～ＮＨＫＢＳプレミアム『プレミアムアーカイブス　昭和歌謡黄金時代　三波春夫と村田英雄』が放送されます。どうぞご覧くださいませ。
　ではまた、来週金曜日に。</summary>
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      　神風の伊勢ということばがありますが、なんでも伊勢湾周辺というのは、日本海側の若狭湾にかけて大昔から日本列島を横断する「風道」なのだそうです。その日は愛知県碧南市、商工会主催の歌謡ショーでした。碧南市では、昼夜三回興行の二回目が終わるころには台風の強さが、ただごとではないという情報が入り、三回目は少し時間を縮めて終演しました。
      受元の鵜飼興行社は、
「座長、とにかく今夜は名古屋まで出て下さい。この土地の旅館へ泊まることになっておりましたが、明日の興行地の中津川に行けないことになったら大変ですから」
「うむ、そんなに台風はヒドイのですか」
「記録的なすごさなんだそうです。名鉄バスがこっちへ向かっています。一行の皆さんすべて乗っていただく手筈です」
「はい、判りました。お任せします」
　楽屋で食事も済ませ、新曲の『一本刀土俵入』をレッスンしたりもしましたが、待っても待ってもバスが来ないのです。予定より二時間も遅れて「来た！」というので乗り込みました。
「座長、ここへ横になって下さい」
　にわか仕立てのベッドを作ってくれたので、服を着たままでゴロリ。しかし夢うつつでも、暴風雨の中なのだからバスが思うように走れないことは判っていました。道路につぶれた家があり、その屋根瓦をバリバリと踏み渡って車が進んで行くのです。車を進ませるためには、それ以外に方法はなかったのです。私は、ひそかに胸のうちで合掌をしていました。その家の中に、犠牲者がいる可能性もゼロというわけじゃない。
　しばらく行くと川か道か判らないひどさです。なんと氾濫した川の水と海水とが混ざり合っていたのか、車の中に鯉が飛び込んで来る、ボラがハネる。
　それでも、ようやく朝方に名古屋へ着いて、急場しのぎの旅館へ。ひと眠りするだけの忙しさでこんどは快晴の空の下を中津川へ走りました。会場の体育館の屋根のところどころに大きな穴があいているというのに、広場には一万人もお客様が並んで待っておられました。私の姿を見て、拍手して迎えてくれたのも鮮やかに記憶にあります。
　そして、楽屋へ届いたニュースはなんと、
「座長、ゆうべ泊まるはずだった碧南の宿屋さんは高波にさらわれて無くなってしまったそうです！」
「ええ？ホント！」
　すると、あのまま、バスが来ずにあの碧南市へ泊まったら、家ごとそっくり私も海のなかへ……！？
　その時東京では、家内が一晩中眠れず名古屋の興行主のところへ電話を十回も入れて私の安否を気遣っていたそうです。
　そしてとうとう興行主さんの奥さんを怒鳴りつけたのだといいます。先方も威勢のいい人で負けていません、「命にかけても三波さんは守ります」とタンカを切ったとか。その後、家内もその興行主の奥方も、逢うたびにそのときのことを懐かしそうに話すのでした。

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   <title>荒海と豆腐　３</title>
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   <published>2012-04-05T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-04-05T16:27:34Z</updated>
   
   <summary>  私がマネージャーだった時期に、本州から島に渡る旅で、三波夫婦と私だけが“時間が短く快適”という高速の船、他の全員は“沢山乗れるけれど、ゆっくり”のフェリー、と分かれて乗ったことがありました。そうしましたら、少々波が高い日だったので、高速船はドーンと進んで行くために波にぶつかってドカン、バタンと結構揺れまくり。一方、フェリーはソロソロと行きますから何の揺れもなく快適だったとのことで…。面白いものだと思いました。
　さて、来週１３日（金）ＮＨＫＢＳプレミアムにて午前９時～本放送、（４月３０日午後４時～再放送）にて、『プレミアム アーカイブス　昭和歌謡黄金時代　三波春夫と村田英雄』が放送されます。
２００６年の初放送以来、好評を戴いての５回目と６回目の放送となりましょうか。
是非ご覧くださいますようお願い申し上げます。
　ではまた、来週金曜日に更新いたします。</summary>
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      　それから三十分ほど揺られたでしょうか。船長の声で、いよいよ中通島に着くことを知らされました。コーラスの女性たちは青白い顔ながら、オロオロと「もう、だいじょうぶね、社長ありがとうございます」と家内に礼を言いました。
      　起伏のなだらかな島影が少しずつ見えてきました。それが黒から緑にと色を染めていきます。やがて、村落が目に入り、家の輪郭も次第にはっきりして、浜辺の岸壁が白い弧を描いていきます。
「もう、だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだよ」みんなホッと安堵の声を漏らしました。
　波止場には島民の方々が大勢迎えに来てくださっていました。私たちがふらふらとした足どりで陸を踏むと、出迎えのみなさんが拍手をしながら、「よう来てくださいました」とおっしゃってくださるのです。
「よう来てくださいました」――なんとうれしいお言葉でしょうか。あの悪夢のような荒波の疲れがどれほど癒されたことでしょう。
　迎えの車に乗り込み、旅館に着くやいなや、私たちが豆腐を口にしたのは申すまでもありません。その豆腐の気持ちよかったこと。からからののどが満たされ、船酔いもいっぺんに吹き飛んでしまいました。さすがに旅慣れた妻の知恵、薬より効き目は絶大でした。
　こうして、昼の部、夜の部とも無事公演を終え、翌朝、私たちは帰路につく身となるのですが、ここでもうひとつお話があります。
　前日とはうって変わって好天に恵まれ、飛行機の運航もオーケー。ところが、その飛行機は小型のプロペラ機で定員はわずか十名。私たち一行が全員乗り込むことはできませんので、海と空とに分乗です。
　私と妻は内心では船の一行に同情することしきりでした。時化の海は一日で平穏に戻ることはあまりないからです。おそらく、船組はまた長崎で豆腐を食べる羽目になるのではないかと……。
　私たち十名を乗せた飛行機はゆっくりと上昇し、水平飛行に移ると眼下にはまっ青な海。先に出発した一行の船はどのあたりを揺られているのだろうか、目をこらしてみましたが、たくさんの船にまぎれて見分けがつきません。
　飛行時間は十五分。長崎空港に着きました。昨日の荒海のことなど、嘘のような快適さとスピードで着陸した時「なんだこんな短い距離だったのか」と笑い合い、船組には本当に気の毒なことをしたと話し合いました。
　さて、私は船の一行と合流し、船旅の感想を聞いてみました。すると、どうでしょう。
「いやぁ、先生、おかげさまでタタミの上を走るようないい船旅でしたよ。いかがでした、飛行機は？」
「…………」

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   <title>荒海と豆腐　２</title>
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   <published>2012-03-29T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-03-29T17:42:06Z</updated>
   
   <summary>　「醤油なんてつけないで」と、醤油を“お醤油”と言わないところなどがまさに、 
啖呵を切る時のウチの母の勢いの良さでした。『社長はいつも、何が起こっても頼りがいがある！』と、皆に、特に男性に!?人気がありました。（笑）

ではまた、来週金曜日に。</summary>
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      　やがて、私たちを乗せた小さな客船は船着き場をあとにしました。港湾を抜けて、沖にさしかかると、あたり一面は白波が立ち、船は横に揺れ縦に揺れ、早くも船に酔う者が続出するありさまでした。しかも大波は船より大きい、とんだ紀伊国屋文左衛門です。
　私はせまい船室の壁に背をつけてドッカと座りました。
「ええ！誰が酔うもんか」


      　こうしたとき妻は叱咤激励に廻るのです。寒さにふるえる者には毛布を配り、船酔いをした者には金属製の洗面器をあてがう。ところで家内はカネの洗面器を渡してやるのにも黙って「ハイ」なんてことはやらない。青白い顔をしてフーフーいってる者の元気付けのために、その洗面器を鉦の如く見立てて「チャンチキおけさ」か「阿波おどり」のリズムよろしく賑やかに叩いてから渡すので全員が大笑い、酔っている者もニガ笑いして、酔っている俺はバカみたいと思ってしまったらしくて、洗面器の必要はなかったということになりました。
　船の揺れにときおり尻もちをつきながらも冗談をいっては暗くなりがちな船内をなごませ、時に船長を励ましたり状況を報告したり……八面六臂の活躍です。陸にあがってから、「まるでいまにも難破しそうな船の実況中継みたいだった」とスタッフ全員で笑ったものでしたが、妻は怖ろしさから逃れるためにも大胆積極になるのでした。
　私たちの船は荒海にもまれた木の葉のたとえそのままに、エンジンの音も悲痛な声をあげながら突き進んでいきます。しかし、一時間たち二時間がすぎても、あたりに島影ひとつ見えてきません。ついに、妻が声をふり絞って船長に談判をはじめたのです。
「船長さん、私たちは舞台の芸は売っても命までは売らないんです。引き返してください」
　私も引き返したいと思いはじめていた矢先でした。ところが、船長は引き返すのはかえって危ない、船を反転させると横波をもろにかぶり転覆する危険性が大きいというのです。
「それもそうだ」
　その直後、船長が大声で「島が見えてきましたよ」というのです。「本当か！」と、たしかに波しぶきの向こうにうっすらと島影が……「中通島だ！」。
　一同歓声をあげると、船長が無情にも「いえ、よその島です」。
「なァんだ……」
　妻の叱咤激励がまたはじまりました。
「みんな、波止場に着いたら冷たい豆腐を食べよう。醤油なんかつけないで、そのまま食べるとね、気持ちの悪いのなんかいっぺんで治っちゃうよ」
　船室にいる人間のいったい誰が、このようなときに食べ物のことなど考えられるでしょうか。しかし、これは家内の経験から学んだ船酔いを治す方法なのです。「社長本当ですか」とみんなは元気を出しました。それに、よその島とはいえ、陸に近づいているのはたしかなのですから。
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   <title>荒海と豆腐　１</title>
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   <published>2012-03-22T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-03-22T17:37:26Z</updated>
   
   <summary>　私がマネージャーになる前の出来事です。でも、話にはよく聞いたものでした。こういう天候ゆえの難儀は、旅の行程を決めるマネージャーにとっては身の毛もよだつコワ～イものです。マネージャーを越えるほど責任感の強い三波夫婦は、さてこの後どうしたでしょうか。
ではまた、来週金曜日に。</summary>
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      　四年ほど前のこと。九州を巡業の途次、長崎・五島列島の中通島に向かったときのことです。いまでも思い出すたびに鳥肌がたつような恐ろしい経験をしました……。
      　その日は、あいにく朝から天候が荒れ模様で、搭乗予定のプロペラ機は急遽、飛行中止となってしまいました。しかし、中通島では大勢のお客さまが私たちの到着を待っていてくださっているとのこと。午後二時半からの昼の部の公演に間に合わせるためには、最悪一時半までにはたどりつかねばなりません。
　ともかく船で中通島に向かうことになりました。長崎空港のちかくの海辺に、三隻の小さな船が係留されています。私は、まさかこのような船に大勢の客が乗れるはずはない、とあたりを見回したのですが、漁を取りやめたのか、大型の漁船が港内の波にもまれるばかりで、他に客船らしき姿はありません。
　私たち一行は、司会、コーラス、バンドマンなどを含め総勢三十名を超えています。とても小さな船で荒れた海を越えられるわけがありません。ところが、その三隻のうちの一隻がどうやら私たちの貸し切りの船だと知らされました。腕のよい船長が乗り込んでくれるとも聞かされましたが、それだけで不安が消えるものではありません。
　すでに、時刻は十時をまわり、中通島までは順調に航海してもおよそ二時間半かかるということです。出航するか否かを決断しなければなりません。
　それまで、このような局面を迎えたことはなかったのです。私は座長として断を下すことにしました。大きな声で、
「だいじょうぶだ！さア出発しよう」
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   <title>火の性、水の性 ２</title>
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   <published>2012-03-15T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-03-15T15:34:22Z</updated>
   
   <summary>　「矢でも鉄砲でも」って、今は聞きませんね（笑）。母自身のことではないですが、大切な人を守る為、信じる道を貫く為にはこの言葉どおりの気迫が大事だし、この覚悟を持てる普段の努力が肝心でしょう、ね。
　ではまた、来週金曜日に。
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      　幸い座員は無事でしたが、太夫元である義母の嘆きはひとしおでした。なにしろ劇場が丸焼けですから、芝居や踊りに使う背景の吊り物は、すべて全焼でした。

      　鎮火すればしたで直ちに火元の詮議です。人の寝泊まりしていた楽屋が、まず疑われるのはやむを得ないところです。
　だが、この時、消防署の調べにたいして有力な証言がありました。「いちばん先に焼け落ちたのは劇場の前の方だった」。証言してくれたのは、前夜、観劇してくださった土地の有志の方たちで、火事の現場に早々と駆けつけてくれていたのです。
　出火の原因は、客席の煙草の吸い殻の不始末で座布団からだったと判明して、座長をはじめ一行は、ようやくホッとしました。
　証言をしてくださったお客様たちは、その上に、見舞い金や衣類などを持って一座を励ましてくれたそうです。
「ゆうべの舞台で、座長と、とりわけこの娘さんの芝居と踊りがよかったので、みんなで一杯やっているうちに盛りあがって帰宅が遅くなり、それで火事の現場へはそのまま駆けつけたんだよ」
　そういって、ゆきの肩を抱くようにして励ましてくれたのだそうです。太夫元の母も座長の叔母も、赤ん坊をおんぶしたままのゆきの姿を見て、ポロポロと涙をこぼしていたということです。
　芸が身を助けた話なのかもしれません。それにしても、雪国の冬火事は、悲惨な大事につながります。タバコの出火が多いのは困りもので怖いことですが、家内は人間が遭遇する危ないことに多く関わりながら元気にその場を切り抜けているんです。火の性の女と私は「尊称」していますが……。
　亭主の一大事となると、外に向かっては、もうそれが矢でも鉄砲でも両手をひろげて立ちはだかります。ときに、凄い形相を見せる事もありますが、それが……「ギャー」という声がするので駆けつけると、小さな虫とか、ゴキブリがチョロチョロしていたりするんです。
　家内は火の性、私は水の性。――四十年がすぎました。
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   <title>火の性、水の性 １</title>
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   <published>2012-03-08T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-03-08T16:17:54Z</updated>
   
   <summary>　母は港家小雪（みなとやこゆき）という芸名でした。曲がったことが大嫌いな、正直で一生懸命で火の様なパワーの持ち主でしたが、子どもの頃からそうだったんだなぁと思うエピソードです。
　文中で父が、東京大空襲で逃げ回った母の経験は戦場の自分の経験よりも怖かっただろうと書いていますが、父は優しい人だとつくづく思います。
ではまた、来週金曜日に。
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      　易学のほうでいうと、私は水の性で家内は火の性なんだそうです。いえ、ここでは性格のことではなしにそのまま火、火事の話。
      　私は、身近な火事に遇ったことがありません。しかし、家内は昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭遇しています。この時に猛火に追われて逃げ回った話をきかされると、これは私の戦争体験よりも恐かっただろうと思うのです。
　ゆきがまだ十四歳の時、北海道の余市町――あっそうそう、ここは宇宙飛行士の毛利さんの故郷ですが、もちろん毛利さんが生まれる以前の話になります――。
　港家演芸団という大きな一座を持っていた義父が死亡した後は、義母がかわって太夫元となって北海道各地を巡演していました。家内は、その養女です。その余市の劇場での公演初日は大好評で、
「よかった、よかった、これなら明日も大入りは間違いない」と、その夜は楽屋泊まり。
　冬の楽屋はすき間風がつめたい。ましてや劇場全体がすっぽり埋もれてしまうような大雪です。
　掛布団の襟かけも寝息で凍る午前二時ごろ、古風にいうならば丑三つどき。
「火事だ！」
　ゆきは、その声と共にはね起きました。もう遅い、轟音が建物をゆすり、鼻をつくのはすべての物を焼きつくす火事のにおい。煙が舞台のほうから楽屋へもくもくと入ってきます。
「ゆきちゃん、この子を背負って！」と座長の叔母の声。寝巻の上からきものをたくさん着込んだ少女ゆきは、赤ん坊を背負いました。雪明かりでぼんやりあたりは見えます。頭から角巻きやショールを被って、さぁ脱出。ところが雪のために楽屋の出口が塞がれている、どうしよう！
　ああ、高い所に窓がある。一座の頭取だった叔父が必死になってその高窓を破ってくれたのですが、彼女にはとてもそこまで上がる力がありません。すると叔父が赤ん坊を背負ったままのゆきを抱きあげて、
「いいか、裏は川だから気をつけろ、右手へ行けば道に出られるからなッ」
　いわれるままに、それでも自分の大事なものを両手に持って、雪の中にパッと飛び下りた。ところが、体がすっぽり雪に埋まってしまって天上天下、雪、雪、雪。いかに家内の名前が「ゆき」でもこりゃぴったりしすぎていました。
　ここは誰かに助けてもらわなければ動けぬはずなのに、そこが火事場の底力です。生きなきゃならぬ、赤ん坊も死なせてはならぬという死にものぐるいで、とうとう雪の山をはね除けはね除けて道へ出ることができました。
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   <title>符牒の話</title>
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   <published>2012-03-01T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-03-01T17:00:27Z</updated>
   
   <summary>　上演中の舞台裏は暗いものですから、出演者もスタッフも怪我をしないように注意します。出演者を誘導するスタッフには、出演者に怪我をさせないようにする大きな責任があります。時間との戦いもあり、まさに舞台裏は大変です。
　また、慣れないスタッフが様子が判らずにボーッとして立っていると、舞台転換のために猛烈な力と速さで動く大道具さんに「どいて！」と怒鳴られたりします。事故が起これば命に関わることもある所ですから当然のことです。
　緊張の糸が張り詰める舞台裏の人々は、しかし物凄く恰好いい！　幸い、父のお蔭で子どもの頃から名門劇場の裏方さんがたの姿に出会うことが出来ました。舞台上でライトを浴びたり拍手を受けるわけではないのに芝居やショーの完成度の高みを目指し続ける姿は物凄く魅力的で、私はその方々の仕事ぶりをジーッと見つめているアヤシイ子どもでした。ですから、父が『裏方さん』という歌を作ってショーの中で唄ったときは嬉しい思いでした。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。</summary>
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      　ある業界にはその世界でしか通用しない独特の符牒というものがあります。とりわけ芸能界では昔から厳しい言葉遣いが要求されました。死、すり減る、など縁起の悪い言葉は禁句で、スルメはあたりめ、スリッパはあたりっぱ、といったりしました。

      　また、劇場や旅館の階段には絶対に腰をかけてはなりませんでした。これは客足を止めるという意味で嫌ったのです。もっとも一般のエチケットとしても他の人に迷惑をかける行為ではありますが……。
　さらに、芸能界に入った者が絶対に心得ておかなければならない約束事があります。
　たとえば、舞台裏では、シギという道具が用いられます。大道具さんが場面の背景を描いた書き割りや道具を裏から支えるための鉄の支え具のことです。場面転換が忙しいときは、芝居が進行している間にもトントンカンカンとシギを打ちつけます。
　当然のことながら、大道具さんは役者の台詞を頭に入れながら、芝居に支障をきたさないよう雑音を最小限にとどめます。ところが、役者のほうが台詞のきっかけをはずしたりすると、あとで大道具さんから「この大根！」と軽蔑されることになります。
　このシギは舞台が暗転になったとき、実にやっかいな代物に変身します。舞台の袖に引っ込もうとする役者が暗転の中、つい忘れてしまったがゆえに、シギに足をひっかけて思わぬケガをするということもときには起こりうるからです。これはもちろんケガをした役者が悪いという事になります。
　シギとのつきあいも芸のうちなのです。
　それにしても、年季の入った大道具さんのような頑固な職人さんが少なくなりました。経験豊富な頑固親父は絶滅の危機に瀕しているというではありませんか。
　そこで、私はこうも考えたのです。専門職は技を磨くことに熱中し、技術の伝承に熱心だからこそ頑固になり、特別の世界をつくりあげた結果、独自の符牒も生まれたのではいないだろうか――と。
　もっとも、どの世界でも数の符牒は、もともと仲間だけに通じる企業秘密。
　数の符牒について、おもしろいのは、東京の寄席に出る人々と、床屋さん(理髪業)が同じなのです。
　名家の紋所を引用したものもあります。一（ヘイ)、二(ビキ・源氏の引両)、三（ヤマ・山)、四(ササキ・佐々木源氏は四つ目)、五(カタテ)、六(サナダ・真田六文銭)、七(タヌマ・田沼意次の七曜星)などですが、企業ヒミツは、このくらいにしておきましょう。

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   <title>「左甚五郎」の亀　４</title>
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   <published>2012-02-23T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-02-23T18:42:40Z</updated>
   
   <summary>　平成２４年の今、日本が世界から取り残らないようにする頼みの綱のひとつは、ニッポンの技術といわれますが、技術が生み出されて来たのは“伝説を大切にして来た深層心理”と三波が書いている、連綿と続いた匠の方々のご精神があってこそ、だったのですよね。
ではまた、来週金曜日に。
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      　藩主酒井侯は床几から思わず立ち上がっていました。大勢の人々も「あっ」と声を上げた時、台座に納まった木の亀の甲羅が水に濡れ始めた。そして亀の首が天を望んでグイとそり上がった時、その口に一巻の巻物をしっかりとくわえている姿が見えたのです。再び人々がどよめく時、晴天の夕空が忽ち黒雲に染められたとみるや、雨が地上を濡らしはじめ、手のひらに受けてすする者もいて、さながら寺内は群衆の乱舞となったのです。

      　その日から二年の歳月の後のある日、この亀に一心不乱に祈る少年がいました。
　「亀さま、俺は亀里というところの百姓で亀吉という者で今年十五になりました。明日の相撲に勝って親孝行がしたいのでござります。お父ウは八年前に死んでお母アが俺を育ててくれました。明日の草相撲は最後の四人まで勝ち残ったら代官様からご褒美をもらえます。お母アを喜ばしてやりたい。勝たして下さい。お願いします」
　心を込めて祈る少年に亀が不意にグッと近寄った時、少年は思わず亀を抱き締めたのでした。すると少年の体の中に火が燃え移ったように不思議なエネルギーが感じられたのです。
　その翌日、彼はとても勝てぬはずの草相撲の大関某に足取りで勝ち、母親を狂喜させました。母子が揃ってお礼参りをする姿を見て人々が、飛騨の名匠が彫った亀は、不思議な霊力を持つと評判が立ったのです。
　しかしそれから三百五十年、人は逝き代が変わり竜海院是字寺より転じた亀が、少年の住んでいた亀里に安置されるようになった理由は誰にも解らなくなりました。
　しかし格闘技に霊力を持つという伝説は密かに口伝されているのです。
　大衆の英雄、左甚五郎伝説は飛騨の匠たちの高度な技をこの人に托して語っているものかも知れません。
　技術の国、ニッポンを世界が注目する時、日本人が伝説を大切にして来た深層心理がここに重なって見える想いがするのです。
　そんな意味づけで私のおとぎ話をおわります。ハイさようなら。
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   <title>「左甚五郎」の亀　３</title>
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   <published>2012-02-16T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-02-16T16:32:03Z</updated>
   
   <summary>　本に書いている創作ドラマですが、これを読んだ方々が「三波さんが長編歌謡浪曲で語っているような気がする」とおっしゃっていました。
　ではまた、来週金曜日に。
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      　しかし坂東太郎利根川の上流の川沿いに栄えたこの町は、このところ、川の水量が異常に少なく、行き交う人々の顔色は暗い。甚五郎が、竜海院是字寺という寺に参拝したのは家康の祖父清康が建立したもので領主、酒井家の菩提寺であり、そこに飛騨の先輩が彫った竜があると聞いていたからでした。
      拝礼を終わって、ふと見上げる本堂正面に竜が玉を掴んで踊らんばかりに彫られていたのです。じっと見つめる甚五郎に弟子が囁きました。
　「親方、あちらから住職様らしいお方がおいでになりますが」
　「うむ。あ、そうかい」
　一歩下がって待つ甚五郎に住職は静かに声をかけた。
　「間違ったら失礼じゃが、親方は飛騨の甚五郎殿ではござりませぬか」
　「はい、甚五郎でございますが」
　「やあ、これはありがたい。先日ここに参拝なされた飛騨の匠のお一人が、たしかに名人もこの前橋へ出られるはずと申されたので首を長くしてお待ち申しておりました」
　「それはそれは。誰が申したか知りませぬが、失礼なことでござりました」
　「とんでもない。参拝して下されて、御開祖清康公もさぞおよろこびでござりましょう。さあこちらへ」
　奥の座敷へ通された甚五郎と二人の弟子たちは、住職から日照り続きの深刻さを聞かされました。
　上州は当時生糸の生産に力を入れて桑畑も肥料をたくさん施し「夏ご」（夏に飼うカイコ）の食欲を満たすべく、農夫たちは働いていたのだが本年は異常な日照りで、桑の葉も萎えて枯れる木さえ出る始末。竜海院是字寺は名の示すとおり、昔は雨乞いの寺とも称ばれていたが、今はかえって恨みの対象になっているというのです。
　「和尚様、あの境内に置いてある赤松材は見事な物でござりますのう」
　「ハイ、どうぞ使ってください」
　「おや儂の心をお見通しじゃ。あれで竜神様を迎えに行く亀を彫ってみましょう」
　甚五郎の瞳が光を帯びて来ました。住職は黙って合掌しました。
　仕事着に着替えた甚五郎は弟子と供に赤松材に鋸を入れました。やがて甚五郎の手斧が振り下ろされました。住職は思わずお経を唱えずにはいられませんでした。日一日と次第に形になってゆく亀の力強さ。
　噂を聞いて集まる人々は遠巻きにして眺めていたが、藩主酒井侯もお忍びで来られました。午後の陽盛りも過ぎたころ。甚五郎の最後の鑿が亀の両眼を仕上げたとき、住職の読経はひときわ声高く終わりをつげたのです。
　二人の弟子が亀を台座に据えようとした時、亀がゆらりと動いたのです。
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   <title>「左甚五郎」の亀　２</title>
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   <published>2012-02-09T15:00:00Z</published>
   <updated>2012-02-09T15:56:34Z</updated>
   
   <summary>　作者・三波は創作の夢を広げて書いていますが、そこには史実も含んでいます。
　講談や落語、浪曲といった語り藝は、聞きながら観ながら人情を知り世間を知り、知識を得ることもできるのでしょう。そして、その語り口に笑ったり泣いたりしながら、生きる知恵と心の幅が増すように思います。
　ではまた、来週金曜日に。
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      　国宝、日光東照宮は三代将軍家光の命に従って、五十六万八千両の巨費を投じて創建されたのです。御祭神は家康、秀吉、頼朝公で、寛永十一年(一六三四)十一月に着工して十三年四月に完成しています。左甚五郎作「眠り猫」がその東照宮に異彩を放っていますが、なぜ眠り猫なのだろうかを私はまず空想してみました。
　その日、家光公が――。

      　「甚五郎に申せ、猫がどうして眠っていなければならぬのか。目をあけさせよ」
　気色ばんだ将軍の言葉に側用人が、
　「甚五郎、上様の御諚じゃ、起きている猫を彫ってくれまいか」
　「はい、お言葉を返すようで申し訳ありませぬが、あの猫は目を覚ましたらあそこには居りませぬ」
　「そんなバカな！！」
　「本当でござります。あのように眠っておりますから、建物に巣を作ろうとするネズミや近寄る蛇も何時目を覚まして襲いかかるかわからぬと、つまり殺生せず防衛するための猫でございまする」
　「うむ成程、名人の話はよくわかったが、上様のお疑いを晴らすためにも済まぬが目のあいている猫を彫ってくれまいか、頼む」手を突いた側用人の願いに甚五郎は夜を徹して一匹の雄猫を彫り上げた。ところが甚五郎の言葉通りに……。
　たしかにあの国宝、東照宮には左甚五郎が彫って納めたという猫があり、日光には飛騨の匠たちが置き土産に残した作品があります。私の心にふくらんだ左甚五郎は、もちろん意気揚々と東照宮竣工の式典に参列しています。引出物や大枚のご褒美をいただき、二人の弟子を供に、悠々とした足取りで日光から出流山を通り、うまや橋へ出たときはすでに夏です。

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