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2019年10月04日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『夢殿に秋の陽燃えて身は震う』②

 さて、中宮という名称は、皇后に次ぐものとして皇室の系譜の中で重要なものですが、太子の母君は母違いの兄君、用明天皇と結婚されて太子をお産みになったことは知られておりますね。


 このときのエピソードが書物に見えるのですが、欽明天皇三十二年(五七一年)の正月のある夜、間人母后は驚くべき夢を御覧になりました。
 容姿端麗な神人が現れ、母后に語り、

 「私はこの世を済度(さいど)しなければならぬ務めがある。願わくば后の腹に宿りたい」

 「何を仰せになりますか。私の躰は穢(けが)れ多く、神人を宿すなど、なぜできましょう」

 「いや、そうではない。そなた様は絶世の婦人である。私の願いを聞き入れて欲しいのだ」

 「はい、さほどまでの仰せなら、ありがたく従いましょう」

 すると神人は喜ばれて、つと母后の口の中に入られたそうです。あまりの不思議さに用明天皇(当時、橘豊日尊(たちばなのとよひ))に申し上げたところ、しばし沈黙しておられたが、形を改めて、「后の産む人は、きっとこの世のために大きな働きをなさる聖人に違いない。ありがたいことである。躰に充分気をつけて、立派に出産して貰いたい」
 喜び一杯の御様子だったということです。
 果たせるかな、敏達(びだつ)天皇元年(五七二年)正月元旦、太子は産声をあげられたのです。
 その他のエピソードはいろいろとあるようですが、前述しましたとおり、母后が宮殿の庭を散歩の途中、たまたま厩戸の前で陣痛を訴えられたというのはよく知られています。

文中に、“ご覧になりました”や“御様子”などの丁寧な言葉がありますが、三波春夫は普段から乱暴な言葉を使わず、きれいな言葉使いでした。
それも、あえて使っています!というような不自然さはなく、身についていましたが、普段に使う言葉が舞台の上でも出るもの、として、おそらくそれを若い時から心がけていたことが長年の間にピッタリと身についていたのだと思います。
そして、丁寧な言葉は、人を大事に思うことにつながっていたように思います。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。