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2017年10月20日

聖徳太子憲法を読む 月の禮道 釈氏憲法 第三条

月の禮道 釈氏憲法 第三条

『戒は諸佛の極を立つる大門なり。
故に、法身の舎那は花藏を先に説き、應化の釋迦は鹿野を
先に説く。是れ衆僧、戒を受けて僧に入る。以て戒を破るは
僧に非ず。戒ありて是れ僧なり、戒を退くは僧に非ず。
心は戒に依りて理り、徳は戒に依りて成る。戒を破り戒を無す
沙門は、未だ自らを化き得ざるなり。何ぞ人に教えられんや。
是、國を費す遊民にして、王者の放徒なり。』


《読み方》
かいは しょぶつの 極みを たつる だいもんなり。
ゆえに、ほっしんの しゃなは けぞうを 先に 説き、
おうけの 釈迦は ろくやを 先に説く。
これ しゅうぞう、かいを 受けて わごうそうに いる。
もって かいを やぶるは 僧に あらず。
かい ありて これ 僧なり、かいを しりぞくは 僧にあらず。
心は かいによりて おさまり、徳は かいによりて つまれる。
かいを 破り かいを なみす しゃもんは、いまだ みずからを みちびき 得ざるなり。
なんぞ 人に 教えられんや。
これ、国をついやす あそびにん にして、みかどの ほうと なり。

《訳》
 戒は、諸仏が立つ大門である。 ゆえに法身の遮那は蓮華蔵世界をまず説き、応化(応身仏)の釈迦は鹿野でまず説いて、衆僧は戒を受けて僧になった。戒を破ればもはや僧ではない。戒があれば僧、戒を退ければ僧でない。心は戒によっておさまり、徳は戒によって積まれるのである。無戒、破戒の沙門は、いまだ自らを教化できないのに、どうして人を教えられよう。このような僧は、国帑を費やす遊民であり、王者の放徒である。

《三波春夫の解説》
”僧は戒律を守り実践することが第一である。この修行なくしては、僧とは言えぬ。戒を破り無視する僧は、国を食い潰す遊び人だ”と示されています。

本日も厳しい条文でしたが、人を導く方々ですから、現代でも是非がんばっていただきたい、です。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。