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2017年01月20日

聖徳太子憲法を読む 車の司道 儒士憲法 第十二条

車の司道 儒士憲法 第十二条

『神在ますが如しと謂うはここに亡きを以て、
ここに在りとなす句の氣なり。
是れ幽精冥霊を紫に歸し黄に歸すを祭る國の方なり。
吾國は、天降ります神、地生れます衹。
開闢このかた鎮座すは、幼児と雖も知らざることなし。
頻説施さば、恐らく鎮座を疑わしむ。
齋元国に於いて講説すること勿れ。』


《読み方》
神ましますが如し というは ここに亡きをもって、ここに在りとなす ことばの 気なり。
これ ゆうせいみょうれい を てんに もどし よもつに もどすを 祭る国の ならわしなり。
わが国は、あまくだります神、地あれます かみ。
かいびゃく このかた しずまりますは、おさなごと いえども 知らざることなし。
こじつけをしきりにとき ほどこさば、恐らく 鎮座を 疑わしむ。
わがくにに 於いて こうぜつをすること なかれ。

《訳》
 在(いま)しが如しというのは、ここに神はいないがゆえに、ここにいるとする句である。これは、死せるものの幽暗の中に遊ぶ精気、冥境に沈む霊魂を天に帰し、黄泉に帰する神を祭るわが国の方法である。
 わが国は、天降りの神と、この国になります神とが、天地開闢以来鎮座ましますことは、幼児といえども知らないものはない。しかるに、神在すが如しの義を、しきりに説き及ぼすと、おそらくは諸神の鎮座を疑うであろうから、斎元の国においては、このような講説をしてはならない。

《三波春夫の解説》
 第十一条と同じく、日本の神と儒学の関係についての条文で、 ”偉大な先駆者を神社に祀るのはわが国の伝統的な慣わしである。その神の鎮座を疑わせるような講説をして はならぬ“とされています。

自分の国の元々からの姿勢は、そんなの古いよ~と言わず、知っておくべきで、それを学んでおこうという意識は大事。
そういう考え方を、父はしておりました。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。