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2015年10月16日

生きている聖徳太子憲法 偕老同穴の契り

 政治家として活躍される一方、太子は家族愛に溢れたお方でもありました。とくに、膳の妃とは同じ日に薨られるほどの仲むつまじさでした。


 太子薨去について三年程前に一つの学説を組み立てた人がおり、太子と膳の妃が同じ日に薨ったのは、当時天然痘が流行していたからだ、としています。

 それを裏付けることができるような二つの話があります。その一つは太子が躰の痒みがいつもあったので、妃はその箇所を常に手当てされていたという話。そして今一つ、太子は最後の晩餐とも言うべき宴を、主上を始め諸卿群臣を招待して盛大に催しておられたことです。

 夫婦が同じ日に逝くという話はたしかに聞いたことがありますが、まことに珍しいことでしょう。太子と膳の妃の相愛ぶりは人々の羨望の的ともなったようです。

 実は、推古女帝が太子にすすめて四人目の妃とするようにとおっしゃった女性ですが、頭脳明晰にして鋭敏でいらしたようです。

 太子は御自分の死期を覚ってか、冬のある日、


『私はそなたを得たことは人生の大きな幸福であった。死んだ後は同穴に眠ろうぞ』


 と感謝の言葉を述べたとき、膳の妃は、


『まことにありがたいお言葉でございますが、皇太子の聖寿はまだまだ永く、終わりはございません』
『嬉しいが膳よ、人間の命は定まったものだ。私もそなたも決して長くはない命だと思う。だからこそ私は今日、改めてそなたに礼を申すのじゃ』


 と交わした会話が、死の三ヶ月前に記録されています。
 二月四日の夜、太子は沐浴されて衣服を改めて寝殿に入られ、妃も同じようにして従われました。そしてお二人は揃って黄泉国へ旅立ちをされたのです。

 翌朝、側近の者がどうしてお二方が起きてこられぬのか、お躰の具合が悪いのかとお部屋を拝したところ、すでに息絶えておられて、部屋の中には覚悟を示すように薫香がただよっていたと言うのです。

 死後、母君と太子夫妻は同じ二上山の麓の陵(科長陵)に眠られています。


《本に記載されている欄外解説》

膳の妃
聖徳太子の妻、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)。
太子との間に四男四女をもうけた。太子にはほかに三名の妃が伝えられている。

科長陵
聖徳太子の母君である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と聖徳太子、そして太子の妃である膳大郎女が合葬されている陸墓。大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある。

「膳の妃」は、かしわでのきさき。
「薨去」は、こうきょ、と読みます。

さて、本日の毎日新聞の夕刊に、"東京五輪"に関する特集記事が掲載されています。
三波春夫の話も出て参りますので、お読み頂けましたら幸甚です。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。