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2015年10月09日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気3

 太子が指摘した通り、隋の煬帝の経歴は、六〇四年(日本では太子憲法が発布された年です)、父の文帝を殺して即位しています。やがて南北に亘る大運河を建設しますが、おもしろいことに、南(江南)の地方で作るお米のおいしさを北京の方でも味わいたいという理由で、米を運ぶ運河を造ったのだそうです。当時も食料問題が重要だったのですね。


 米といえば、実はこんな話もありました。この煬帝であったか他の帝であったかどうか忘れましたが、日本からの使節に対して皇帝が『日本人は何を食べているか』と問われたので、日本の使者は『昔から米が主食です』と申し上げたら、『そうか、それは立派なものだ』という表情でうなずかれたそうです。これがもし縄文時代だったら「栗・粟が主食で、ドングリも粉にして食べます」と答えるしかなかったでしょう。稲作を行い、米を主食としているということが、日本の文化レベルを証明することになったわけですが、食は文化と言うのは真実ですね。

 六一八年に「煬帝」は、「李淵」が起こした反乱によって殺されます。そして国名も隋から唐へと変更されたのです。唐の治世は二百八十九年間の長きにわたり、その間に白楽天などの名作が生まれました。しかし、その唐も「昭宗」が三十八歳のときに「朱全忠」によって滅ぼされ、国名も『梁』となりました。

 やれやれ。……私が溜め息をつくことはありませんけど。しかし太子のお言葉にあったように、中国大陸やヨーロッパ諸国では戦争つづきで政権の主は何回も入れ替わりましたが、私たちの日本は、国の歴史が肇って以来、連綿として天皇という伝統が続いてきました。

 これは誇りにしてもいいことではないでしょうか。

上記、本文にルビがふれないものですから、以下に記します。
○李淵:リエン
○朱全忠:シュ ゼンチュウ
○梁:リョウ
○肇って:ハジマって

ではまた、来週金曜日に更新いたします!