« 前   TOP  次 »

2015年10月02日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気2

 そこで煬帝は日本の国主にあてて怒りを顕わにした手紙を書き、小野妹子に渡したのです。さて困ったどうしようと、迷った末に、妹子は「国書を盗まれました」と天皇に報告したのです。しかし、正式な外交文書を無くしたとあってはただで済むはずもありません。当然、妹子の責任を追及する声が大きくなり、帝も処分を決しかねておりましたとき、太子は"何かおかしい”と感じ、小野妹子に国書の内容を訊ねたのでしょう。


 事の真相を知った太子は、日本国に向かって暴言を記した煬帝の国書を紛失したとして自分が罪をかぶり、この国辱を表沙汰にすまいとした小野妹子の気概こそ立派なものだと認め、女帝に取りなして今一度彼の国へ遣わすと奏上したのです。

 妹子はそのとき、裴世清を代表とする十二名の隋使節団を連れて帰国していたのですが、太子の計らいで推古女帝に謁を賜り、使節たちは歓待されました。

 ここで太子は裴世清を朝廷に呼んできっぱりと申し渡しました。その表情は穏やかながらも、内容は断固たるものでした。


『裴世清、よく聞かれよ。日本の天皇が修好の善意に溢れた書状を呈したにも拘わらず、隋主の返書は何たる無礼であろう。しかし、国書の初めに「皇帝倭皇に問う」とあり、皇の文字をわが天皇にあてたことをもって隋主の無礼は問わぬこととした。

 思うがよい、天地の神が国境を定め国を造り、中心に国主を立てて国家を運営する型を決めたのだ。聞くところによれば煬帝は、父の文帝を殺めて帝位を簒奪したのではなかったか。隋主はわずか二代目でその先は帝ではないのだ。

 それに比ぶれば、日本国天皇は天地開闢以来の天子であるぞ。隋の国主がわが天皇をこの国に封じたものではなく、また、我が国が隋に仕えたこともないのだ。みだりに帝皇と名乗り、わが天皇をあたかも隋主の臣下、諸侯の一人と決めつけるのは浅い考え方である。帰国したら煬帝に申し上げるがよい』


 裴世清は隋においてかなり上級の官吏だったのですが、太子のお言葉を受けて冷汗三斗の想いだったでしょう。

「裴世清」はご承知のとおり、「はい せいせい」と読みます。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします!