« 前   TOP  次 »

2015年09月25日

生きている聖徳太子憲法 聖徳太子の心意気1

 太子が摂政として日本のために大活躍したのは皆さん御存じの通りですが、太子がどのような姿勢で政治に携わったのかがわかるエピソードがあります。


 日本が中国の文化・文明を学ぶために、遣隋使を派遣したのは太子のお仕事でしたが、当時の国家予算の三分の一を使って四隻の船を建造し、留学生となる人々には十年間は余裕をもった生活ができ、書籍・文献を豊富に買い求めて勉強ができるように、砂金を沢山持たせたと言います。

 国家予算をこれだけ費やして、新しい知識を学ぼうというこの心意気は、明治維新の政府にも受け継がれたというべきか、外国への留学生を派遣することは勿論、当時の総理大臣より高い給料を払って米・英・独・仏の著名な学者を招き、西洋文化を吸収する努力をしたのでした。

 遣隋使は、推古天皇十六年(六〇八年)から始まって、後に遣唐使となり、菅原道真が「もはや唐の国から学ぶものはありません」と断言して、遣唐使を廃止した寛平六年(八九四年)まで続きました。

 中国への国書の中に、日本の天皇という名乗りを初めて使ったのは太子ですが、太子が隋の煬帝に親書を出したことは有名ですね。
"日出る国の天皇より、日の没する国の帝皇へ書を呈上す”と書き出して、小野妹子を大礼使として遣わしました。"どうか引見ください。当国の留学生たちを派遣して貴国の文化文明を学ばせて戴きたい。また、貴国と日本国との文物の交易を深めたいと願っております”というような内容だったのですが、煬帝は「天皇」の文字をみて"無礼な奴だ!”と怒りました。

 中国大陸の支配者である皇帝にしてみれば、絶対的存在である「天帝」の命をうけて世界を司る王者「帝皇」に対し、他の国の者どもは平伏するのが当然であるのに、天皇と名乗るは何たることか、というわけなのです。中国大陸の覇者の感覚とすれば、周辺の文化の遅れた国々を東夷、西戎、南蛮、北狄などと呼んで見下していたわけですから、東夷である日本の王が「天皇」を名乗ったことは気に入らなかったのでしょう。


《本に記載されている欄外解説》

遣隋使(遣唐使)
六〇〇年ごろから大陸の先進文化を吸収するため中国の隋に派遣された使節。途中で隋が滅んで唐となったため、その後は遣唐使が派遣された。八九四年に廃止。

菅原道真
平安時代の政治家・学者。遣唐使の廃止を進言するなど、鋭い見識の持ち主で、その後右大臣にまで出世するが、藤原氏の陰謀により九州の太宰府へと左遷され、その地で没した。現在では学問の神様として有名。八四五~九〇三年

小野妹子
第一回の遣隋使として隋に渡り、煬帝に国書を献じた。翌年、隋使の裴世清を伴い帰国。同年、隋使の帰国に際して再び留学生らとともに隋へ渡った。生没年不明。

煬帝
隋の二代目皇帝。中国統一を成し遂げ隋を建国した父、文帝を殺害して六〇四年に即位した。運河建設などの大規模な土木工事を強硬したり、朝鮮半島への軍事行動を起こすなど外征を推し進めた。その結果、隋は国力が衰え、李淵によって滅ぼされた。五六九~六一八年

東夷は、「とうい」と読みます。
西戎は、「せいじゅう」。中国の西部の民族たち。
南蛮は、「なんばん」。中国南部の民族たち。
北狄は、「ほくてき」。中国北部の民族たち。
不変の地理、不変の云々…。問題は永遠でございますね。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします。