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2015年09月18日

生きている聖徳太子憲法 推古天皇の勅命

 ここで、憲法をお作りになられた聖徳太子の生涯について軽く触れておきたいと思います。


 第三十三代推古天皇は「御容姿きらきらし」と記録に残るように、大変美しい女性の天皇(当時は主上)でした。

 聖徳太子は用明天皇の皇子で推古天皇の甥。当時は、上宮の皇子と呼ばれておりました。

 母君が厩戸の前で産気づかれ、部屋に入って出産をされたのですが、後に、日本に伝わって来たキリスト教(景教という文字をはめている)の影響を受けたゆえか、厩で生まれたキリスト誕生の故事に想いを懸けて"厩戸の皇子”とも呼ばれたようです。

 そして、推古女帝が即位されたとき(西暦五九二年)、摂政の宮として政治を補けて欲しいと勅命がありました。太子が二十歳の春です。

 太子は当初、この要請を固くお断り申し上げておりました。その理由は、推古女帝の皇子に竹田王がおられたからです。しかも、竹田王は決して暗愚な方ではなく、むしろ賢明な皇子で、群臣たちの信頼も得ていましたから、推古女帝の補佐役としては申し分なかったのです。

 しかし主上はあきらめず、「朕は日本国中を統べる大王にならなければいけない。願わくばそなたの力を貸してもらいたい」と、仰せになられました。

 一方、太子はなかなか首を縦に振られません。

 あるとき、事の推移を見ていた高官の一人が、「陛下の仰せ尤もでございますが、上宮皇子は無欲恬淡の御性質で摂政の大任に就かれることを嫌っておられるので、この際は竹田王の御気性の賢良をお認め遊ばし、竹田王を皇太子と定むる勅諚を賜りたい」と申し上げたところ、女帝は、「貴官は何という勘違いをしているか。竹田皇子は故天皇の子で朕が産んだのである。皆が言うように賢い人間かもしれないが普通の賢さであり、上宮とは比べられない。上宮の皇子は、真の聖人で真理の人、絶世の人物。朕は、吾子への愛に魅かされて大役を授け、天下の政り事をおろそかにすることはできない。貴官らも上宮に朕の希望を伝えて、必ず摂政の大役を引き受けて戴くように」というお考えを示されました。

 このように推古女帝から再三の仰せがあったので、太子は二十歳の夏、摂政を務めることとなり、数々の文化・政治・宗教・学問に亘って素晴らしいお仕事を遺され、二十九年間御活躍の後、四十九歳で薨られました。時に推古二十九年二月五日のことです。(多くの学説では三十年二月二十二日となっていますが、先代旧事本紀大成経には二月五日と明記されています。先代旧事本紀大成経については、詳しく後述します)

 今の世でも、お立場によっては参考となる人選の心得…。

 さて、この本文の欄外に、「摂政」についての解説がありますのでご紹介します。
 「摂政」:天皇が女性か幼少の場合、天皇に代わって政治を行う役職。
      推古天皇を補佐した聖徳太子がその始まり。

 ではまた、来週金曜日に更新いたします。