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2015年08月28日

生きている聖徳太子憲法 白鹿伝説1

 私が太子の憲法に思い入れを深くしたのには、もう一つ理由があります。


 太子が憲法を草案したのは推古天皇十二年(西暦六〇四年)四月ですが、そもそもその作成のきっかけとして伝えられている話があるのです。
 それは、憲法発布より遡ること六年前の冬のこと(西暦五九八年)。
 当時、国の中心が置かれていた大和からは遠く離れた東国、越後の国の国司が、

「世にも稀なる巨大な白鹿を捕獲致しました。御高覧を・・・」

と献上して来たことにありました。
 その鹿は体高五尺八寸(約一七六センチ)、全身の毛は白く輝き、まるで白雪に覆われたような美しさでした。古来、白い鹿は麒麟などと同じように、神聖なものとして信じられていました。そのうえ、この白鹿は、馬ほどもあろうかという大きさです。
 大和の人々も、これほど見事な白鹿を見たことはありませんでした。
 何万年の間に一度現れるか否かというこの気高い白鹿の姿に、さながら神の使いかと、天皇を始め群臣一同は声をあげて讃嘆したと言います。
 しかし、この時代、国内の情勢は平穏無事というわけではなかったようです。
 推古女帝の治政も六年を迎えていましたが、それを補佐する太子は、国内の困難な状況を常に把握しておりました。献上された白鹿は見事でしたが、それを喜んでばかりもいかなかったわけです。
 そこで、推古女帝のお喜びのお顔を見ながら、太子は形を改めて言上しました。

『この白き鹿は世にも不思議でございます。普通、鹿の角は枝が偶数に分かれまするがこれは奇数の十七支胯ございます。
 得難き瑞兆であり、わが主上の徳政を神が讃仰されて賜ったものと存じます。
 しかし乍ら、この吉瑞に対して天子の徳がまけてはなりませぬ。怖れ多くも主上としては、更に広く人民(おおみたから)に仁政を施して戴きたく存じます』

 その言葉に主上は心から悦ばれ、天下に勅命をお出しになりました。

『本年は、年貢を納めなくともよい』

 この勅命に国中が沸き返るような歓びに包まれ、人々はこのことを永く子孫に伝えなければならぬと語り合ったということです。

三波春夫は新潟県の出身ですので、"越後の鹿"というところにビビッと来たようです。
時代が何しろ"推古"のことですので、親近感が湧きづらい感じでございますが、
どうぞお付合いくださいませ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。