
早くから客席いっぱいに詰めかけたお客様のどよめきが、舞台うらには、潮騒のように聞こえているに違いありません。やや離れた楽屋には、華やかな出の瞬間を待って、じっと間合いをはかり、呼吸を整えている主役。楽屋のうちに、静かにみなぎってくる緊張……。
とくればまあいつもの風景ということになるのでしょうが、その時肝腎の主役が、どうにも止まらない激しいシャックリのために、歌どころか声さえままならず――まさにマンガのひとこまみたいです。もちろん、その主役とはこの私のこと。
いくら経験を積んだプロの歌手といえどもナマミはナマミなどと、そんな言い訳は通じません。開幕ベルが鳴ってステージの幕が開き、音楽も始まって、私は出なければなりません。「ああ、どうしよう!」と思いながらも、舞台の袖からライトの輪のなかへ私が足を踏み出したのは、舞台人の本能がそうさせたのでしょうか。
「わぁー」というお客様の声、そして拍手の波。一瞬、綯いまざる不安と恍惚と――、その時、なんとマイクの前に立った私のシャックリは嘘のように、跡かたもなく消えていたのです。私は、いつものように歌い出していたのです。いつもとまったく同じ声で。ワンコーラスを終えたとき、私は思わず涙をこぼしてしまいました。
私は、この時、お客様によって癒され、そして、お客様の力によって舞台の上に生かされたのです。このような”奇蹟”を行うことのできるお客様の力に、私は、ごく自然に「神様」の姿を見るのです。
このシャックリの話に限らず、演者のそのステージの完成を目指す強く高い意識と、お客様から送られる愛情あふれる熱い期待があわさってステージに起こった奇跡は、エンターテイメントの世界にたくさんあると思います。そういった世界で力いっぱい仕事が出来た三波春夫の一生は幸せなことだったと、つくづくと思います。
ではまた、来週金曜日に。
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