
浪曲師・南篠文若から歌手・三波春夫への転身の背景には、時代の変化というものに敏感に反応した私の実証的な感覚がありました。
戦後、人気のある座長というのは、浪曲を一席終えたあとで、かならず余興をやることができなければ大勢のお客様を入れることはできませんでした。
私の場合は、都々逸や民謡が多かったのですが、これが思い切って朝鮮の民謡を歌うようになってから、格段に受けがよくなりました。一種の新しさを、お客様に感じていただけたのでしょう。
浪曲のお定まりの黒紋付きから華やかな色物の紋付袴に着替えて、三味線もにぎやかに太鼓を加え、高座の演台もとりのけて、ガラッと雰囲気を変えました。そこで、ワァッと拍手がきたところで、シベリア仕込みのアリランやトラジを歌う。足をポーンと蹴りあげる朝鮮舞踊の振り付けで花道へ出て行きますと、もう舞台と客席とが一体となるのでした。
この余興のことが口コミで伝わったのでしょう。どこの公演先でも歌を求められるようになりました。歌い終わっても、「もひとつ、もひとつ」と声がかかります。そして、また歌う。もひとつ、もひとつ、当時アンコールという掛け声はまだありませんでした。
一般に、浪曲は地味な「語り物」であることから、女性には人気のない芸とされていましたが、歌う浪曲師という評判がたってからは、女性のお客様がいっぱいで、「もひとつ、もひとつ」には黄色い声もかなり交じるようになりました。
この章は、昭和28~29年頃のことを書いています。24年秋に、4年間のシベリア抑留から帰国して浪曲の舞台に復帰し、27年12月に結婚。その後、南篠文若の曲師は妻が務めることになり、夫婦揃って藝の研鑽の日々。そのあたりのことです。
敗戦から復興へと日本がだんだんと力をつけてゆく時代。人々は、その気運を応援するような勢いの有る陽性のものを、エンターテイメントにも求め出していたことの実例といえるでしょうか。
この、南篠文若の浪曲と余興のアリランやトラジを、『観ましたよ』『聞きましたよ』とおっしゃる方々にお会いすることがあります。全国各地でお会いしますから、南篠文若がたくさんの土地を訪れて興行をしていたのだと実感します。『小さい会場でした、倉庫を改造した俄か仕立ての。お父さん、いい声でねえ。印象的だったから、記憶にずっと残ってましたよ…』と、私に話して下さった方は70歳を超えた男性でした。
どんな小さな会場でも、来場されたお客様に最大限の満足をもってお帰り頂くことが鉄則である、と自分に課していた若い浪曲家時代。この頃の思いは生涯変わりませんでした。
ではまた、来週金曜日に。
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