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2007年06月08日

“南篠文若の誕生” その11

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

ところで黙雷和尚は、やはり親交のあった安田靱彦先生や川端龍子先生の絵を見せて、いかにその絵がすぐれているかというようなことも、私に教えてくれました。
とりわけ、修善寺の住職、丘球学師の南画の傑作「寒山拾得」を示して、私もそれにたとえようのない人間味を感じたものです。


 この叔父は、昭和十八年十二月二十五日に亡くなりましたが、「寒山応えて曰く、黄河の水幾度か澄む」と、つぶやくように詩を口ずさみ、仏像のように微笑した顔が忘れられません。
 黙雷和尚は、最大の師匠であったといえます。
 青年浪曲家の私にとって、芸術家がなにを学び、なにを社会に与えなければならぬかという基礎を厳しく、しかも、伊豆の温泉の如く、尽くる事を知らぬ、魂の底まで温めてくれるような仏心を持って教えてくれた人でした。

<八島>
 三波は仏教という宗教に傾倒した人ではありませんでした。父親の弟であった叔父・黙雷さんはお坊さんでしたが仏教にある哲学を充分に理解した市井の哲学者であり、ものごとを分かるように説いて聞かせられる人だったそうです。
黙雷さんから教わったことは一生を通じて有り難いことだったと肝に銘じ、心に置いて戒めとしていた三波ですが、それらのエピソードは他の著書でも様々に書いております。
後年には、これまた凄い、藝の上の家庭教師(?)のような人間が妻として三波に助言をしながら支えていくのですが、三波春夫の大きな長所は「人の話を素直に受け止めることが出来ること」だと思います。
聞く耳を持っていなければ良い話も無駄になってその人も成長しませんものね。三波は良いアドバイスを吸収する人でした。
でも、黙雷さんの前で頷いていた若い頃ならまだしも、三波春夫として大ヒットを飛ばしてスターダムに乗った後に、芸能界の先輩とはいえ妻の意見や他所からの批評を素直に受け入れるのには、自我を捨てる努力と覚悟が必要だったでしょう。
しかし、ここが器が大きいか、大きくなれるか否かの境目だと、ぐっとこらえて素直に前向きに実行していたのが三波の姿だったと、傍にいた者として思い返します。
 ではまた来週月曜日に。