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2007年04月24日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その6

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 私はワンパク坊主だったけれど、末っ子だったせいか、母にはずいぶんかわいがられて、母はその死の直前にも、
「文司、文司」
 と私の名前を呼びつづけていたそうです。いまでも姉は、会うたびに、
「お母さんは死ぬまぎわまで、お前のことを心配していたのよ」
 といいます。
 


このことを店員時代に聞いたとき、私は、何時も歯を食いしばって、涙をこらえ、仕事が辛くても負けるもんかと思いました。


 ところで、姉弟の中でいちばん歌の上手だった私も、小学校の唱歌はさっぱりで、何時も乙で甲は一度位しか貰えませんでした。
 おまけに、いたずらが人いちばい激しく、元気がありすぎて、学校の窓ガラスなどは自分がハッと気ずいた時には、ガチャン!と音を立てていた、という有様でした。


 ですからとにかく、小学校では、余り“よい子”ではなかったようですが、父が俳句をやったり、書をよくしたりして、すなわち田舎の文化人だったものですから、交際も広く、先生方にはわりに可愛がられた記憶が残っています。

<八島>
 私が三波の娘に生れて以来、ずっと見て来た経験上、三波春夫は礼儀に篤い常識人でした。
ですから“小学校時代はいたずらっ子でワンパクで”というのは「ホントですか?」と思います。
が、この特別に元気だった子どもというのが当人の本質であり、それがあっての三波の生涯の仕事量の盛大さ、猪突猛進型なエネルギーの溢れ具合だったのか、と合点が行きます。