« 前   TOP  次 »

2007年04月23日

渋海川(しぶみがわ)のほとりで その5

三波春夫著 「すべてを我が師として」より

 その淋しさからか、父は夜になると、姉、兄、私の三人を茶の間に集め、民謡を教えてくれました。『佐渡おけさ』『江差追分』『米山甚句』『三階節』『安来節』など。
私はまだ、民謡のよさなんか分かる年ではありませんでしたが、父のうたう民謡が、ひどく悲しいものだと感じたことを覚えています。


 私達兄弟は一生懸命に声を揃えて歌いました。
 姉よりも兄よりも、いちばん年下の私の声が、豊かでよくのびてうまい、とほめてくれました。
私も、父からほめられるのが嬉しくて、いっそう張り切って歌ったものです。
 母もそうでしたが、声自慢だった父は、子どもたちに民謡を教えるということに、淋しさをまぎらわし、子どもたちと並んで仏壇の前で唱える「南無阿弥陀仏」の中に、救いを求めていたのだろうと思います。

<八島>
 民謡を父親が教えてくれたことについて、「歌手になる道を父がつけてくれたのです」と語っていました。
民謡を習ったのをきっかけに、すっかり歌うことが好きになり、当時全盛の浪曲にも夢中になりました。
 故郷は米どころでしたから、田植え、稲刈りの時期には近所総出で農作業となりますが、そんなときには文司少年ははりきって畦道に立ち、ラジカセ代わりとなって民謡、唱歌、浪曲と、知っている限りの歌を唄いました。
「おお、きょうも文ちゃん、いい声だのう」「唄ってくれると作業もはかどるのう」とおじさん、おばさんが喜んでくれる。“ボクが唄うとみんなが喜んでくれる。
人を喜ばせるのは、いいなあ。歌は、いいなあ”これが歌手・三波春夫の原点でした。
 “人気者だった子ども”としての余談ですが、文司が赤ん坊の頃のこと。
両親が出先の列車の中、腕に抱いた文司を隣の人が見て「まあ、なんと笑顔がいい子だこと」、と、後ろの人が覗き込んで「まーあ、ほんとにねえ」。と、また次の人が抱き取って。
次々にカワイイと言われて送られて、とうとう車両を一周して戻ってきたそうです。
三波春夫の笑顔はその時すでに確立されていた、のでしょうか・・・!?